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待の字

 清水の汽笛は、家に戻っても耳の奥に残った。 夜に目を閉じると、ぼおぉ……という低い音だけが先に来て、布団の暗さをゆっくり揺らした。揺れているのに、眠りを追い出さない音だった。追い出さないぶん、余計に長く居座る。

 朝、祖母が竈に火を入れる音で、幹夫はようやく「ここ」に戻ってきた。 薪のはぜる音。湯の鳴る音。家の音は小さいのに、確かだ。確かな音は、胸の中の小さな警報を丸くする。

 座敷の隅で、母は黙って縫い物をしていた。 針が布に入って、出る。入って、出る。 昨日、港で見た太い縄が岸に結ばれる動きと、どこか似ていた。太さが違うのに、ほどけないために結ぶところが同じだ。

 幹夫は内ポケットの帳面を抱え、白い綴じ糸の結び目を指で確かめた。 結び目は小さく、揺れてもほどけない顔をしている。

 帳面を開くと、昨日書いた「きてき」と「迎」の字があった。 迎。 辶がついているから、歩く字だ。 歩く字なのに、幹夫の中ではずっと立ち止まっている。港の柵の前で、母の手が少し強くなったところで。

 幹夫は鉛筆を取り、迎の横にもう一度、辶を書いた。 小さく、ゆっくり。 線が紙に残ると、残ったぶんだけ胸の中が落ち着く。

「幹夫」

 母が呼んだ。 幹夫はすぐ顔を上げた。呼ばれると、返したくなる。呼ばれたままにすると、空気が痛くなることを覚えてしまったからだ。

「なに」

 母は針を口にくわえたまま、顎で戸口のほうを示した。 外で、自転車の鈴が鳴った。

 ちりん。

 昨日の汽笛よりずっと細い音なのに、幹夫の胸がきゅっとした。 届く音が怖いときがある。届いてしまうと、何かが決まってしまう気がするからだ。

「郵便でーす」

 声。 声が家の中に入ってくると、湯気の匂いまで少し固くなる。

 母は立ち上がって戸を開けた。 受け取ったのは、封筒じゃなく葉書だった。薄い一枚の紙。紙が薄いほど、言葉は重くなる。

 母は葉書をその場で裏返し、目を走らせた。 走って、止まって、また走って――最後に、ほんの小さく息を吐いた。

 その息の吐き方が、「よかった」でも「だめだった」でもない吐き方だった。 「まだ」の吐き方だった。

 母は葉書をちゃぶ台の上に置かず、縫い箱の脇へそっと置いた。 置き方が、控えの紙と同じ置き方だった。落とさない、なくさない、飛ばさない置き方。

 祖母が台所から聞いた。

「なんだい」

 母は短く答えた。

「照会中、だって」

 幹夫にはその三つの音が、まだうまく繋がらなかった。 しょう・かい・ちゅう。 言葉なのに、縄みたいに硬い。

 母は幹夫のほうを見て、少しだけ顔を柔らかくした。

「まだ、調べとるってこと」

 まだ。 まだ、は、終わりじゃない言葉だ。 終わりじゃないのに、始まりでもない。宛名の白みたいな言葉。

 母は縫い箱から帳面――控え帳を出した。 綴じ糸の結び目。 ページをめくると、役場の赤い印の記憶が紙の匂いに混ざって戻ってくる。

 母は葉書の文面を見ながら、控え帳の端に小さく書いた。 日付のような数字。幹夫にはまだ読めない、細い記号みたいな並び。 その横に、母は短く書いた。

 照会中。

 書いて、止まった。 止まったところで、母の喉がほんの少し動いた。 駅の紙の前の喉の動きとも、港の「違う」の喉の動きとも違う。 今日は、飲み込むというより、置いていく動きだった。

 幹夫は思わず聞いた。

「“ちゅう”って、なに」

 母は鉛筆を置き、新聞紙の裏を一枚引き寄せた。 白い裏。真っ白じゃない白。真っ白じゃないから、言葉が落ち着いて座れる。

「“中”だに。まんなかの中」

 母はそう言って、四角をひとつ書き、中に線を入れた。 中。 形がしっかりしていて、安心する字だった。中がある字は、外もある。外があるなら、戻ってこられる。

「照会中、は――調べてる途中」

 途中。 途中、という言葉が幹夫の胸を小さく叩いた。 港へ行った道の途中。帰ってくる汽車の途中。針が布を出入りする途中。 途中には、まだ、がいる。

 母は少し考えてから、もう一枚の白に鉛筆を当てた。

「途中ってのはな……“待つ”とも似とる」

 待つ。 その音を聞いた瞬間、幹夫の中で駅の壁が立ち上がった。 紙の列。指で追う指。見えない字。走る母の目。

「待つ、書ける?」

 幹夫が聞くと、母は小さく笑った。湯気みたいな笑い。

「書けるよ。今日、書こ」

 母はゆっくり書いた。

 待

「これな、左が“行く”のちっさいやつ。歩くとこ。……右が“寺”」

 寺。 寺は、幹夫にはまだ遠い場所だった。鐘の音が鳴る日だけ、山のほうから聞こえる気がする場所。 母は字の右側を指でなぞって言った。

「寺で待つ、って字だに。……動かんで、そこにいる」

 動かんで、そこにいる。 その言い方が、港で母が輪の外に立っていた姿と重なった。 輪に入らないで、でも逃げないで、そこにいる。 待つ、は、逃げるの反対みたいに聞こえた。

 幹夫は鉛筆を握り直し、「待」を真似した。 左の歩くところが、少しふらつく。ふらつくと、胸の中の警報がちくりと鳴る。 でも母が隣にいると、ちくりは尖らない。尖らないから、もう一度書ける。

 もう一度。 今度は、少しだけ「待」に見えた。 見えた途端、字がただの形じゃなくなる。 形が意味になる瞬間は、怖いのに嬉しい。嬉しいのに、胸がきゅっとする。

「よし」

 母が言った。 たった一言なのに、幹夫の胸の奥がふわっと温まった。

 母は「待」の横に、小さく丸をひとつ描いた。 印じゃない丸。 ただ、ここまで、の丸。 その丸があるだけで、待つという字が少しだけ優しく見えた。

 昼過ぎ、空っぽの袖の男が戸口に来た。 今日は帽子を深くかぶっていて、顔の影が濃かった。

「清水……悪かったな」

 男はそれだけ言って、視線を畳に落とした。 落とした目は、探す目じゃない。見ないようにする目だった。

 母は「いい」と短く返した。短いのに、突き放す短さじゃない。 短いまま、ほどけない短さだ。

 幹夫は帳面を抱えたまま、男の空っぽの袖を見た。 袖は今日も揺れる。 揺れるのに、負けない。 負けない揺れは、待つという字の左側みたいだ、とふと思った。歩くところがあるのに、今日は動かない。

 男がぽつりと言った。

「……待つのは、苦手だ」

 母は針を止めずに言った。

「苦手でも、するでな」

 するでな、という言い方が、決める言い方じゃなく、続ける言い方だった。 続ける言い方は、家の匂いがした。

 男は頷いて、幹夫の帳面をちらりと見た。 幹夫が昨日書いた「迎」の字と、今日書いた「待」の字が並んでいるページ。

「……待つ、か」

 男は小さく笑った。笑いきれない笑いじゃなく、ほんの少しだけほどけた笑いだった。

「待つって字は、歩くとこがあるのに動かんで、えらいな」

 えらいな、の言い方が、母の「えらかった」に似ていて、幹夫の胸がまたきゅっとした。 えらい、は褒め言葉なのに、時々、痛みの角を丸める言葉になる。

 男は「じゃあ」と言って帰っていった。 戸が閉まると、家はまた小さな音だけの世界になる。 小さな音だけの世界のほうが、幹夫には呼吸がしやすかった。

 夜、幹夫は紙を一枚切って、封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。 中に、今日覚えた字を入れたかった。

 > まつ って かいた > てらで まつ

 書いているうちに、幹夫は最後にもうひとつ、書いてしまった。

 > まだ って いいね

 書いた瞬間、恥ずかしくなって、鉛筆を止めた。 「まだ」がいい、なんて、勝手に言っていいのか分からなかった。 「まだ」は、母にとっては重い言葉かもしれないのに。

 でも、消さなかった。 消すと、書いた自分がいなくなる気がした。 いなくなったら、また迷子になる気がした。

 幹夫は紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込んだ。 差し込む指先が少し震えた。 震えるのに、差し込めた。差し込めたぶんだけ、胸の中の警報は丸い。

 翌朝、縫い箱の位置が、畳の目ひとつぶんずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 幹夫が縫い箱の下を覗くと、自分の紙は消えていて、代わりに小さな紙が一枚、折り畳まれていた。

 開くと、母の字があった。

 > まだ は いきてる ってこと > うん

 最後に、小さな丸がひとつ。

 幹夫はその紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少ししなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、「待つ」という字は届いた。 「まだ」という言葉も届いた。 届いたぶんだけ、幹夫の中で、今日を置く場所が少しずつ増えていった。

 
 
 

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