控の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月3日
- 読了時間: 6分

役場から戻った日、母は風呂敷をほどくと、封筒とは別に小さな紙をひとつ出した。 紙は薄くて、角がまだ新しい。新しいのに、もうどこか大人の匂いがする。インクと朱肉と、机の引き出しの匂い。
母はその紙を、ちゃぶ台の上に置かず、畳の目に沿わせるように脇へ置いた。 置き方が、落とさない置き方だった。落とさない置き方は、なくさない置き方に似ている。
幹夫は言葉にしないで、その紙を見た。 赤い印が、ひとつ。四角の中に字。字は読めないのに、赤が「受け取った」と言っている気がした。郵便局の消印とは違う赤。消す赤ではなく、残す赤。
「それ、なに」
幹夫が聞くと、母は湯呑みを拭きながら答えた。
「控え」
控え。 幹夫の胸の奥で、昨日の「返し縫い」が小さく動いた。戻って、進む。戻りながら強くする。控え、という言葉も、どこか戻る匂いがした。
「控えって……」
母は少しだけ考えるみたいに、布巾を畳み直した。畳み直す動きは、言葉を整える動きだ。
「同じこと、二回書かんようにする紙だに。……こっちが持っとく、写し」
写し。 写す。真似する。幹夫が字を覚えるやり方。 紙の世界でも、同じことをしているのが不思議だった。大人も、真似しながら進むのかもしれない。
母はその紙を、ふっと指で撫でた。撫でる指は震えていない。震えていないのに、撫で方がやたら丁寧で、幹夫は胸がきゅっとした。
「なくすなよ」
母が言った。 なくすなよ、は幹夫に向けたようで、実は母自身へ向けた言葉みたいだった。 なくしたら、また何もなかったことみたいに戻ってしまうから。
幹夫は頷いて、内ポケットの鉛筆を指で確かめた。 硬さ。 硬さは、なくさないための形。
その晩、母は縫い箱を膝に抱えたまま、控えの紙をもう一度取り出した。 灯りの下で見る赤い印は、昼より強く見える。強いのに、怖くない。竈の火の赤と同じ種類の赤だ。生きるための赤。
幹夫は畳の隅で、新聞紙の裏を広げていた。 字を練習しようとして、でも目が何度も母の紙へ行ってしまう。行ってしまうのは、好奇心だけじゃない。母の指が紙に触れるたび、そこに「言えない声」が貼りつく気がするからだ。
「母ちゃん」
幹夫が呼ぶと、母は「なに」と返した。 返事は短い。短いのに、今日は少し柔らかい。縫い箱の下の「うん」みたいに、折り目のある柔らかさ。
「それの字……読める?」
母は紙を見て、頷いた。
「読めるよ」
言ってから、母は幹夫のほうへ控えの紙を少しだけ寄せた。 寄せる、という動きが、幹夫の胸をふっと軽くする。寄せるだけで「一緒」ができる。
「ここ。これが“控”」
母は指先で、紙の中の一字を軽く叩いた。 叩く指が、ほんの少しだけ震えた。震えは寒さじゃない。紙の字が、胸の奥の何かを叩く震え。
「控……」
幹夫は口の中で繰り返した。 控、という音は、口の中で止まりやすい。大声にならない音だ。大声にならない音は、母に似ている。
母は新聞紙の裏を一枚引き寄せて、鉛筆を持った。
「書いてみるか」
幹夫の鉛筆を、母が持つ。 竹の継ぎ目を母の指が越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。自分の大事なものが、大事な用事に使われるちくり。誇らしいようで、少し怖い。
母は、ゆっくり書いた。
控。
「これな、左に“手”があるだろ」
母は字の左側を指でなぞった。 なぞると、鉛筆の黒が少しだけ指に移る。母は拭わない。拭わない指先は、言葉を逃がさない指先だ。
「右は……“空”だに」
空。 幹夫の胸が、ふっと沈んだ。 空は、浜の空の空じゃない。家の中の、空っぽのほうの空に聞こえた。
「手と空で、“控”。……手で、空を押さえる字だら」
母の言い方は軽いのに、幹夫には重かった。 手で空を押さえる。 空っぽを押さえる。 押さえないと、空っぽが広がってしまうから。
幹夫は、母の手を見た。 針を持つ指。湯呑みを拭く指。砂糖を割るときの指。 その指が、ずっと空っぽを押さえてきた指なのだと思うと、喉の奥が熱くなった。
「……母ちゃんも、空、押さえてる?」
幹夫は、言ってしまってからしまったと思った。 言葉がまっすぐすぎる。まっすぐすぎる言葉は、母の眉間を固くすることがある。
でも母は、眉間を固くしなかった。 代わりに、鉛筆を置いて、小さく息を吐いた。吐いた息は湯気みたいに薄いのに、幹夫の胸にはちゃんと届いた。
「……押さえとらんと、家が散るでな」
母はそれだけ言った。 散る、という言葉が、紙が飛ぶ風の日の匂いを連れてきた。 散るのは怖い。散ると戻らない。戻らないものが増えると、家が家でいられなくなる。
幹夫は鉛筆を握り直した。 握り直すと、竹の継ぎ目が掌に当たる。硬さが、背中を押す。
「ぼくも……書く」
幹夫は小さく言って、紙に「控」を真似した。 左の手へんが、少しふらつく。ふらつくと、字がすぐ子どもになる。 でも、右の「空」の形が入ると、字が急に大人の顔をする。空っぽの形が入ると、大人の字になるのが不思議だった。
書けた「控」を見ながら、幹夫は思った。 空っぽを知っているから、大人になるのだろうか。 空っぽを押さえる手があるから、家が続くのだろうか。
母が、幹夫の書いた字を覗き込んだ。 覗き込む目が、探る目じゃない。見届ける目だ。
「よし。……上手い」
母が言った。 その「よし」が、幹夫の胸をふわっと温めた。 温めると同時に、胸の奥で小さな警報が鳴る。嬉しいときに鳴る音は、逃げたくなる音じゃない。守りたくなる音だ。
夜更け、家が眠る匂いになってから、幹夫は縫い箱のほうを見た。 縫い箱の下は、返事の場所。 折り畳まれた声が集まる場所。
幹夫は紙を一枚切り、封筒の形を描いた。 宛名のところに、「おかあちゃんへ」と書く。 中に、何を書くかで迷った。
控、という字のことを、母に言いたかった。 母の手が空を押さえる手だ、と思ったことを言いたかった。 でも、それを言うと、母の手を重くする気がした。重くするのが嫌だった。
だから幹夫は、いちばん小さい形にした。 いちばん小さい形は、母の「ありがと」みたいに、最後の「う」を落とす形だ。
> ぼくも て だす
「手」を漢字で書けなかったので、ひらがなにした。 ひらがなは弱いようで、やさしい。やさしいほうが届くときがある。
最後に、丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。 受け付けの印でもない。 ただ「ここに置く」という丸。
幹夫は紙を丁寧に折り畳んで、縫い箱の下へ差し込んだ。 差し込む指先が少し震えた。震えは恥ずかしさだ。恥ずかしさは、手を出した証拠みたいで、嫌いになれない。
布団に戻って目を閉じると、母の針の音が遠くで続いている気がした。 返し縫い。 一回戻って、また進む。 戻るのは負けじゃない。ほどけないための戻り。
幹夫は胸の内ポケットの鉛筆に触れた。 硬い。 硬さがあれば、明日も書ける。明日も押さえられる。空っぽを、少しだけ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、控えの紙は残る。 残る紙の字の中に「空」があることを、幹夫は今日、手のひらで覚えた。 手で空を押さえる――その手を、ひとつ増やしていくみたいに。





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