済の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月5日
- 読了時間: 6分

書留を出してから、家の時間は「いつも」に戻ったふりをした。 鍋のふたは鳴るし、祖母は芋の皮をむくし、母の針は布に入って出る。入って、出る。返し縫いの戻りと進みを、何事もない顔で繰り返す。
けれど「いつも」は、どこか薄かった。 畳の目を踏む足が、少しだけ慎重。 障子を開ける手が、少しだけ遅い。 遅いのは怠けているからじゃない。遅くしないと、胸の中の音が追いつかないからだ。
母は、控え帳の端に小さな棒を一本ずつ増やした。 棒は短い。短いのに、増えると列になる。列になると「待つ」が形になる。
幹夫はその棒を、横から数えた。 一本、二本、三本。 数えると、胸の中の警報が少しだけ静かになる。数は、嘘をつかないからだ。
数え終わったあと、幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、数が自分の手の中に入る。
「母ちゃん、まだ?」
幹夫が言うと、母は針を止めずに「まだ」とだけ返した。 「まだ」は、終わりじゃない言葉だ。 終わりじゃないのに、始まりでもない。宛名欄の白みたいに、ぽっかりしたまま立っている言葉。
その朝、ちりん、と鈴が鳴った。
郵便屋の音は、細い。 細いのに、いちばん先に胸を叩く。 胸が叩かれると、息が一拍遅れる。遅れても、逃げないでいる息。
「郵便でーす」
母が立った。 立ち方が、前よりほんの少しだけゆっくりだった。ゆっくりは、怖いのに逃げないでいるゆっくりだ。
母が受け取ったのは、封筒じゃなく、葉書より少し硬い小さな紙だった。 角がぴしっとしていて、紙が「役目」の顔をしている。 母はその場で裏返し、目を走らせた。
走って、止まって、また走って――。
止まったところで、母は息を吐いた。 その息は軽かった。軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、「落ちなかった」の息だ。
母はその紙を、ちゃぶ台の上じゃなく、控え帳の横へそっと置いた。 落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。
祖母が台所から聞いた。
「なんだい」
「……届いた、って」
母は短く言ってから、付け足した。
「“配達済”って書いてある」
済。 み、という音だけが、幹夫の耳に残った。 済む。済んだ。 その音は、口の中で止まりやすいのに、胸の奥を少し冷やす。
「済って……なに」
幹夫が聞くと、母は控え帳を開き、受領証と並べるようにその紙を挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。飛ばない顔になると、母の肩が少しだけ落ちた。
「出したのが、向こうへ届いたってこと」
母は言った。 言い方が、教える言い方だった。 教える声は倒れない。倒れないと、聞くほうも倒れにくい。
幹夫は胸がふっと温かくなるのを感じた。 届いた。 届く。 届の字を思い出す。屋根の下の由。触れるみたいな字。
けれど、その次にすぐ、胸の奥がきゅっとなった。 届いた、のに、まだ答えじゃない。 届いた、は「行った」だけで、「帰った」じゃない。
「……じゃあ、返事は」
幹夫が言いかけると、母は首を横に振った。
「まだ」
たった二文字。 短いのに、ちゃんと重い。 重いのに、刃じゃない。母はいつも、言葉の角を丸める。
「でもな」
母はそこで止まって、控え帳の端の棒を指でなぞった。 なぞる指が丁寧だった。丁寧に触ると、紙が落ち着く。
「“届いた”は、ひとつ前へ進んだってことだに」
進んだ。 嬉しい進んだじゃない。 でも、進んだしかない進み方の中で、ひとつ前へ行けた、という事実。
祖母が鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。
「迷子にならんで済んだ、ってこった」
済んだ。 済が、生活の言葉になってしまう言い方だった。 生活の言葉にすると、少しだけ息ができる。
昼過ぎ、母は新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を、幹夫の前に置く。 継ぎ目の硬さが、今日は少し頼もしい。紙が迷子にならなかった日だからだ。
「今日はな」
母が言った。
「“済”を書く」
母はゆっくり字を書いた。
済
幹夫は目をこらした。 左に、三つの小さな点――水の形がついている。 右は、細かい線が重なっていて、少し騒がしい。
「ここ、見て」
母が左の三つを指でなぞった。
「これは水。川の水の水」
水。 幹夫はすぐ、蒲原の用水の音を思い出した。雨のあとに少し増える、水の早足の音。 水は流れていく。 流れていくものは、止めたくても止められない。
「済むってのはな……流れて、片がつく、ってことだに」
片がつく。 片づく。 祖母が夜に畳の目を揃えるときの手つき。 物の角がそろうと、心も少しそろう。
幹夫は、ふと聞いてしまった。
「……母ちゃんの心も、済む?」
言ってしまってから、しまったと思った。 まっすぐすぎる問いは、門の中の口が刃になることがある。
母はすぐ答えなかった。 答えない間が、また少し長い。 でもその長い間の中で、母は息を一つ入れた。幹夫に教えてくれた「まず いき」の息。
「……紙は、済んでも」
母は静かに言った。
「心は、まだ済まんこともある」
まだ。 ここで「まだ」が出たのが、幹夫には救いだった。 済まない、は終わりに見えるけれど、まだ、は生きている言葉だ。
幹夫は鉛筆を握り直した。 まず、水の三つ。 点を打つとき、三つの点が涙みたいに見えた。涙みたいなのに、これは水だ。水は泣くだけじゃない。流れる。運ぶ。
次に右側の形。 線が多くて、手が震えた。震えると、字が子どもになる。子どもになると、胸の中の警報がちくりと鳴る。
「ええ」
母が言った。 転んでもいい「ええ」。
「済はな、きれいに書かんでもええ。……水がついてりゃ、済だで」
水がついてりゃ。 その言い方が、少し笑えて、幹夫の胸がほんの少し軽くなった。 軽くなるのに、飛ばない軽さだった。
二つ目の「済」が、少しだけ「済」になった気がした。 なった気がしただけで、幹夫は息がしやすくなる。 息がしやすいと、待つ手も少しだけ楽になる。
母は「済」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。受領の丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
「配達済、って書いてあるけどな」
母が言った。
「済んだのは、配達。……返事は、これから」
これから。 これから、は明日より遠い。 遠いのに、置ける言葉だ。
幹夫は控え帳を見た。 棒の列。 そこに、今日、母が小さく「配達済」と書き足した。 書き足す鉛筆の先が、少しだけ落ち着いている。
幹夫は自分の帳面を開いて、今日のページに書いた。
> すんだ > でも まだ
そして、今日の字を一つ置いた。
済
字の左の水を指でなぞると、黒い粉が少し指についた。 汚れじゃない。 届いた証拠みたいな黒だった。
夕方、海のほうから風が入ってきて、障子が少し鳴った。 鳴る障子は、戸口の門みたいだ。 門が鳴ると、胸が一瞬だけ構える。
でも今日は、控え帳の間に「配達済」の紙が挟まっている。 挟まっているだけで、家の中に小さな柱が一本立ったみたいだった。
母は縫い箱の脇に控え帳を戻してから、幹夫の頭に手を置いた。 撫でない。押さえる。 崩れないように押さえる手。
「今日は、よう頑張ったな」
母が言った。 頑張ったのは字じゃない。 待つ手を、逃がさなかったことだと幹夫は思った。
幹夫は、声で返した。
「うん」
声の「うん」はすぐ消える。 でも、消えるのが怖くなかった。 今日、紙の中に「済」が残ったからだ。残る水。残る丸。残る棒。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、配達の「済」は届いた。 済の字の左の水が、幹夫の胸の中で、静かに流れていた。流れながら、まだ、を運んでいた。





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