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港の猫




 清水港の埠頭で働いていると、否応なく潮の匂いが鼻腔に染みつく。誠一は三十五歳。ここで港湾作業員として日々コンテナを運んだり、貨物船の荷下ろしを手伝ったりする。朝は早いし、夜は眠気に押されるように休む。それだけの淡々としたルーティン。地味だけれど、そんな暮らしに彼なりの落ち着きを覚えていた。

 ところが、最近ある異変が起こり始めた。いや、異変というほど大げさではないかもしれないが、毎朝、同じ時間に埠頭の近くに一匹の黒猫が現れるのだ。その猫はまるで舞台に上がる俳優のように、きわめて整然とした足取りで歩く。そして、いつも同じ貨物船のそばで立ち止まり、じっと港を眺めている。    最初は「ああ、ただの野良猫だろう」と誠一も流していた。しかし、その猫があまりに規則的な時間、規則的な動きで港に現れるのを目撃するうちに、妙な違和感が芽生えた。そんな猫がいるものだろうか。もしかすると、誰かが飼っているのかもしれない。あるいは港湾当局が飼育している“港の守り猫”かもしれない。だが、誰もそんな話を知らないと言う。

 ある朝、誠一は思い切って猫を追ってみることにした。作業の手を一瞬離れ、猫が貨物船の横をすり抜けて小道に消えていくのを見届け、間合いを保ちながらついて行く。猫はときどき立ち止まって、まるで振り返るように首をひねる。しかし、その仕草さえ淡々としていて、誠一に気づいているのかいないのか定かではない。

 猫を追ううちに、港の入り組んだ区画を通り抜けたり、普段なら足を踏み入れないような裏路地へ案内されることもあった。そこにはかつて栄華を極めたらしい古い倉庫や、今は使われなくなった定食屋の看板が錆びたまま吊り下がっていた。港が活気に溢れていた時代の残り香みたいなものが、ひっそりと立ちこめている。

 いつしか誠一は、猫を追うことそのものにある種の習慣めいた楽しみを感じ始める。早朝、淡い光の中で猫が現れれば、自分の作業服のままスニーカーを履いてついて行く。猫は何かに導くように、同じテンポで歩む。すると、街並みが少しだけ違って見えるのだ。寝ぼけまなこで歩くのとはまるで違う、別の層の世界がその路地にひそんでいる気がする。

 そんな日々がしばらく続いたある朝、猫はいつもと違うルートを選び、港の倉庫街のさらに奥まで誠一を誘った。そこには古い案内板が傾いたまま立っていて、文字が消えかけている。どうやら昔の資料によると、ここはかつて外国船との貿易が盛んで、何隻もの大型客船が清水港に寄港していたらしい。その時代に“失踪した作家”の噂があったと、誠一はふと思い出す。漁師仲間から聞いた程度の、不確かな話だ。 「港に来ては原稿を書いていた作家が、ある晩突然姿を消し、未発表原稿だけが倉庫に放置されていた」と。結局、その原稿も行方不明だと聞く。

 猫がぴたりと止まり、誠一が顔を上げると、そこに小さな木製のドアのようなものが見えた。倉庫の裏に無理矢理増設されたような扉だ。鍵は掛かっていなかった。誠一が恐る恐るドアを開けると、中は狭い物置で、古紙が山積みになっている。 ――「この紙の束は何だろう」 ページの断片をめくってみると、何か文章らしきものが薄い文字で書き散らされている。もしかして、これが“あの作家”の未発表原稿なのか。塩気の混じった湿り気が、紙の表面を波打たせている。 振り向くと、猫はいつの間にか姿を消していた。まるで最初からそこにいなかったかのように。誠一は一人、薄暗い物置の中で古びた文章の断片を手にし、ただ茫然と立ち尽くす。

 それから数日、誠一は何度もその倉庫に足を運んだ。山積みの紙は、物語や詩のようなものが書かれていたが、途中で途切れたり、まるで誰かの夢の風景のように断片的だった。書き手の正体は不明だが、書かれているのは**“港に現れる猫”の描写や、“未知の海へ出発する船”**のイメージが繰り返されている。 「この港は真夜中になると、別の時間帯へと入り込むのだ」とか、「猫が地図を知っている」など、まるで夢の中の出来事を綴ったような文章。作家は何を伝えようとしていたのか?

 誠一は、彼自身がいつしかその物語の内部に足を踏み入れているような感覚を覚える。――猫が、そして海が、彼の内側を覗き込んでいる。昔から、なぜ自分はこの港で生きているのかと疑問に思うことがあった。都会へ出たいとも思わなかったし、でも港でずっと働き続ける理由をきちんと自覚したこともない。 夜の海辺に立って風を吸い込むと、空には星がまばらで、埠頭のランプが淡い光を投げる。その光に、過去の欠片みたいなものがちらりと浮かび、すぐに消える。何かを失くした感覚と、何かが始まる予感が同時にそこにありそうで、うまく言葉にできない。

 そしてある深夜、誠一が再び倉庫裏の扉を開けると、猫が待っていた。明らかに彼を見ている。音もなく、それから猫は飛ぶように路地を駆け出し、彼は慌てて追いかける。路地を抜け、埠頭を走り、工場のフェンスを回り込み、港の入り江へ。息が上がる。猫はさらにスピードを上げて、やがて桟橋の先端まで行き――そこで消えた。 誠一は桟橋の突端に立ち尽くす。黒い海が目の前で上下にうねり、遠くに貨物船の灯が見える。時間が止まったかのように静寂が広がる。なぜか胸がぎゅっと締め付けられるような痛みを感じるが、理由は分からない。

 そのとき、ポケットの中の未発表原稿の一枚が風で飛びそうになり、慌てて掴む。そこには「もし猫が海へ向かったなら、あなたは彼を追うべきだ。あなたの求めるものは、港の風に溶けている」というような文章が書かれている。 「まるで、僕の行動を予見していたみたいだ……」誠一は一種の眩暈を覚えながら、夜の海面を見つめる。波が暗い水底から何かを呼び起こしそうな音を立てている。彼は思わず目を閉じ、深呼吸する。

 朝が近づくにつれ、海が僅かに色彩を取り戻していく。そのころには猫の姿もなく、倉庫のピアノの音も聞こえない。ただ、古い原稿の断片が手の中に残っている。 その後、猫を見かけることはなかった。原稿も中途半端に途切れていて、物語の結末はどこにも書かれていない。誠一は黙って港での仕事を続ける。毎朝、同じ時間に目覚め、コンテナを移動させ、船を誘導する。 でもときどき、彼の耳には“港の猫”の足音が聞こえる気がする。遠くの倉庫から微妙に響くような――あるいは幻聴かもしれない。それでもそれが、彼の心に小さな火をともすのだ。**「いつか再び猫に会えるんじゃないか。いや、もしかして猫はもうずっとこの港に溶け込んでいるのでは?」**と。

 結局のところ、未発表原稿の真相も、猫が示した道も、はっきりした解はないまま。けれど誠一は不思議と、以前より少し生きやすくなったように感じている。まるで港の空気にあった小さな穴が塞がり、一つのストーリーが彼を受け止めてくれたかのようだ。 こうして“港の猫”は、今もどこかで夜の清水港を歩いているに違いない。古い倉庫の合間をすり抜け、波止場でじっと海を見つめ、あるいは次の訪問者に小さな奇跡を示すかもしれない。その影は静かに、誠一の心の中にもまた残り続けているのだ。

 
 
 

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