留の紙
- 山崎行政書士事務所
- 2月4日
- 読了時間: 6分

朝の光は、昨日より少し白かった。 白いのに、冷たい。冷たい白は、紙の白に似ている。書く前の白。決める前の白。
母は起きてすぐ、風呂敷包みを膝に乗せた。 昨日、封筒を入れて、折り目で閉じて、縫い箱の脇へ置いた包み。 包みは軽い。軽いのに、母の指がいつもより丁寧だった。丁寧になるほど、重い。
「幹夫」
母が呼んだ。 呼び方が、用事の呼び方だった。
幹夫は内ポケットの鉛筆に触れてから、母の前に座った。 竹の継ぎ目は、今日も硬い。 硬さは、息の前にいる。
「これ、忘れんなよ」
母が言って出したのは、控え帳だった。 白い綴じ糸。結び目。 ほどけない白は、昨日より少し頼もしく見えた。
「持ってくの?」
「うん。……“出した”って残すため」
母の声は低い。倒れない低さ。 倒れない低さで言われると、「出す」が怖いだけじゃなくなる。出すのは、手を離すこと。手を離すのは怖い。怖いのに、出さないと届かない。
祖母は握り飯を二つ、布に包んで渡した。 握り飯の形が、昨日より少し固い。固いのは崩れないため。崩れないように固くするのは、泣かないのと似ている。
「行ってきな。……風ぇあるで、紙、気ぃつけ」
祖母はそう言って、幹夫の帽子のつばを少し下げた。 つばが下がると、世界が少し暗くなる。暗くなると、目が拾うものが減る。減ると、胸の奥が少し静かになる。
郵便局へ向かう道、母は包みを胸の前で抱えていた。 抱えるというより、押さえる。 押さえるのは、なくさないため。飛ばさないため。
赤い箱が見えると、幹夫の胸の奥の警報が小さく鳴った。 赤い口。暗い口。 運ぶための暗さ。 でも、暗い口に入れたものは、戻らないこともある。宛所不明の封筒が、頭の中で一度だけひらく。
局の中は、紙とインクの匂いがした。 その匂いは、いつも幹夫の背中を少し固くする。固くなるのに、逃げたくはならない。逃げたくない固さがある。
窓口に並ぶ人の背中は、みんな少し前のめりだった。 前のめりの背中は、待つ背中だ。待つ背中は、時間の中にいる背中だ。
順番が来て、母は窓口へ進んだ。 風呂敷を少し開き、封筒を出す。 封筒は茶色じゃない。役場の紙を入れた、白い封筒。白いのに、白い顔をしていない。線の匂いがする白。
「これ……お願いできますか」
母の声は低かった。 低い声は、紙を落とさない声だ。
局員の男が封筒を受け取り、宛名を確かめた。 確かめる目は、紙を見る目。 紙を見る目は、胸を見ないようにしている目にも見えた。
「……大事な書類ですね」
局員が言った。 大事、という言葉が出ると、幹夫は胸がきゅっとなる。大事なものは、軽い顔で持てない。
「書留、にしますか」
局員が続けた。 幹夫は「かきとめ」という音だけを拾って、頭の中で転がした。紙を止める? 書いて止める? 止めると残る?
母の指が、封筒の端を一度だけつまんだ。 つまんだ指が、ほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。数える震えだ。
「……いくら」
母が聞くと、局員が金額を言った。 母は財布を開いて、硬貨を出した。 硬貨の音が、台の上で小さく鳴った。 鳴る音が、恥ずかしそうだった。金属は、鳴ると「足りる」と「足りない」をはっきりさせる。
母は少しだけ迷って、それから頷いた。
「……書留で」
書留で、という声は小さかった。 小さいのに、決めた声だった。 決めた声は、息を一度入れてから出る声だ。
局員は封筒に切手を貼り、次に、別の小さな紙を取り出した。 紙は薄い。薄いのに、局員の手つきが丁寧だった。
どん。
朱肉の匂いと一緒に、丸い印が押された。 消印の丸とは違う丸。消すためじゃない丸。 「預かった」を残す丸。
局員がその小さな紙を母へ差し出した。
「こちら、受領証です。……控えとして持っていてください」
控え。 その言葉が出た瞬間、幹夫の胸の奥がふわっとした。 母が作った控え帳。 役場の控えの紙。 そして今、郵便局の控え。
控えが増えるほど、不安が全部になりにくい。 全部になりにくいから、息が戻ってくる。
母は受領証を受け取り、すぐにはしまわなかった。 一度だけ、目で確かめた。 確かめる目が、少しだけほどけた。
母は受領証を丁寧に折り、控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔になると、母の肩がほんの少し落ちた。
幹夫は思わず小さく聞いた。
「……書留って、なに」
母は控え帳を閉じずに、幹夫を見た。 見方が、教える見方だった。
「留める、って字があるだろ。……留めるって、逃げんようにすること」
留める。 留。 その音が、口の中で止まりやすかった。待つに似ている止まり方。
「紙がどっか行かんように、途中でちゃんと“ここ通った”って残す。……そういう送り方」
残す。 残すために送る。 送ると消えるようで、残す。 幹夫はその矛盾みたいな優しさが、少し好きだった。
母は、控え帳の端を指で軽く叩いた。
「これがあると、“出した”って言える」
言える。 言える、は、息ができる言葉だ。 言えないものが多い家で、言えるものが一つ増えるのは、あたたかい。
帰り道、風が少し強かった。 風が強いと、紙のことが気になる。 でも今日は、控え帳の間の受領証が、見えないところでちゃんと踏ん張っている気がした。紙なのに、踏ん張る。踏ん張る紙は、折り目と同じ匂いがする。
母は歩きながら、幹夫の手を一度だけ握り直した。 握り直しは、返し縫いみたいだった。一回戻って、また進む握り直し。
「なぁ、幹夫」
母が言った。 声は低い。倒れない低さ。 でも今日は、その低さの端が少し柔らかい。
「もし、また紙が来ても……怖いって言っていいで」
幹夫は、喉の奥が熱くなった。 怖い、と言っていい。 言っていい、と言われると、怖さが少しだけ軽くなる。軽くなっても飛ばない軽さになる。
「うん」
幹夫は声で返した。 声の「うん」はすぐ消えるのに、今日は消えるのが怖くなかった。控え帳の間に、もうひとつ「うん」が挟まった気がしたからだ。
家へ戻ると、祖母が戸口で「出したか」と聞いた。 母は控え帳を軽く持ち上げて見せた。
「書留にした」
祖母は「ほう」とだけ言って、鍋のふたを閉めた。 生活の音が、家を家に戻す。 戻る音があると、胸の奥の警報が丸く鳴る。
夜、母は縫い箱の脇から控え帳を出し、受領証をもう一度確かめてから、帳面ごと縫い箱の下へ差し込んだ。 差し込む動きが、いつもの紙の差し込みと同じだった。 違うのは、紙の種類だけ。 同じ動きだと、心が少し落ち着く。
幹夫は自分の帳面を開いて、今日のページに書いた。 母に教わった言葉を、ひらがなで置く。
> とめる > のこす > だした
そして、今日覚えた音の字を、母の真似で一つだけ書いてみた。 留。 うまく書けない。 うまく書けないのに、門の中の口みたいに、字が自分の中で動いた。
幹夫は字の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。 ここまで来た、という丸。
布団に入って目を閉じると、赤い箱の暗い口が思い浮かんだ。 今日入れたのは、封筒じゃない。窓口に渡した封筒。 それでも同じだ。 運ぶための暗さへ、手を伸ばした日。
幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 竹があるから、短い鉛筆が持てる形になる。 竹があるから、「答」も書ける。
そして今日は、竹があるから、送ったことを抱えられる気がした。 抱えるだけでいい。 抱えて、待てばいい。 待つ字の右にいた寺が、時の中で鳴る鐘みたいに、ゆっくりと。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、留めるための小さな紙は届いた。 届いた紙の薄さが、幹夫の胸の中で、ほどけない結び目になっていった。





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