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砂の字

 駅から帰った日の夕方、家の中はいつもより静かだった。 静かなのに、音が少ないわけじゃない。鍋のふたが鳴り、箸が器に触れ、湯呑みが畳に置かれる。そういう生活の音はある。あるのに――言葉だけが少なかった。

 祖母は味噌汁をよそいながら、「今日は風ぇ弱いで、煙も真っ直ぐ上がるら」と言った。 母は「そうかね」と返した。 会話がそれきり終わると、湯気だけが残った。

 幹夫は味噌汁の表面を見た。具は少ない。汁が多い。 汁は多いのに、寂しさは薄まらない。汁で薄まるのは味だけで、胸の奥は薄まらないのだと、幹夫は思った。

 母は箸を持ったまま、何度か自分の上着のポケットに指を当てた。 石の場所を確かめるみたいに。 確かめるたび、母の指がほんの少しだけ震えた。

 幹夫は、その震えを見てしまう。 見ないふりができない。 見たくないのに、見てしまう。 見てしまうと、自分の胸の中の小さな警報が鳴る。鳴ると、手が動きたくなる。声が出たくなる。

 でも、駅の紙の前で母の目が「今じゃない」と言っていたのを思い出すと、幹夫は口をつぐんだ。 母の「今じゃない」は、怒りじゃなくて、守るための「今じゃない」だった。 守られていると分かるほど、幹夫は何も言えなくなる。

 食べ終わって、祖母が片づけに立ち上がった。 母も立ち上がり、台所へ向かう。 幹夫も何かしようと思って湯呑みを持ったが、手の中で湯呑みが少し揺れた。揺れたぶんだけ、心も揺れる。心が揺れると、器も揺れる。器が揺れると、壊れる気がする。

「幹夫、いい。座ってな」

 母はそう言った。 優しい言葉なのに、幹夫の胸は少し痛んだ。 座っているだけでいい、と言われると、胸の中の音が大きくなる。自分が何もできないまま、時間だけが進む感じがするからだ。

 夜、布団に入ってからも、幹夫は眠れなかった。 眠れないのは怖いからではない。怖いのに慣れてしまうと、人は眠れなくなる。胸の奥が、いつも起きている。

 隣の部屋で、母と祖母の声がした。 声は低くて、壁の向こうで布が擦れるみたいに曖昧だった。

「……まだ、ないかね」

 祖母の声。 母の返事は聞こえない。聞こえないのに、返事があるのは分かる。息を吸う音がしたからだ。息を吸う音は、言葉の前の痛みだ。

「……あの紙、増えるばっかで」

 母が言った。 紙。駅の壁。黒い字。指で追う指。泣き声のない嗚咽。 幹夫の頭の中に、全部が戻ってくる。

 幹夫は布団の中で、指先を握り込んだ。 握り込むと、指が少し熱くなる。 熱くなると、何かができる気がする。 できる気がするだけで、実際には何もできないのに。

 幹夫は、目を閉じたまま思った。 自分があの紙を読めたら、母の目があんなふうに走らなくても済むかもしれない。 母が背伸びをしなくても済むかもしれない。 母の喉があんなふうに動かなくても済むかもしれない。

 読めないのが悔しい。 悔しいのに、その悔しさを誰にも言えない。 言うと、母の眉間が固くなる気がするからだ。

 だから幹夫は、決めた。 言わずに覚える。 覚えて、次に同じ紙があったら、母の目の代わりに自分の目を出す。

 翌朝、幹夫はまだ日が高くならないうちに家を出た。 母は台所で湯を沸かしていて、祖母は竈の灰をかき寄せていた。幹夫が戸を開けても、ふたりは何も言わなかった。言わなかったのが、行ってこいの合図みたいに思えた。

 浜へ向かう道は、朝の匂いがした。 潮の匂い。湿った土の匂い。竈の煙の匂い。 全部が混ざって、胸の奥が少しだけ落ち着く。

 浜辺に着くと、波が砂をならしていた。 昨夜の足跡は消えている。 消えているのに、浜は何事もなかった顔をしている。 何事もなかった顔をできる場所があるのは、時々、救いだ。

 幹夫は流木を拾った。細い枝。先が少し尖っている。 それを持つと、胸の中の音が「それ」と言った。 幹夫は砂の上にしゃがみ込み、まず、自分の名前を書こうとした。

 幹夫。 幹――木へんに、幹。 夫――夫。

 頭の中の「形」はあるのに、手はそれを知らない。 一画目がどこから始まるのか、どこで止めるのか。止めたあとの余白がどうあるべきなのか。砂の上に線を引くたびに、線はすぐに崩れた。砂は素直すぎて、素直に崩れる。

 それでも、幹夫は何度も書いた。 書き直すと、少しだけ形が近づく。 近づくと、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 次に、母の「母」を書こうとした。 母という字は、幹夫にとって母そのものみたいに難しかった。 母はいつも、家の形を整える。形が崩れないように整える。整えるから、崩れないふりができる。 そのふりの難しさが、母という字の難しさに似ている気がした。

 幹夫は砂に「母」と書こうとして、途中で止まった。 止まったところが、傷みたいに残った。 幹夫はその傷を見て、急に腹が立った。腹が立つのは、砂にじゃない。自分にだ。

 幹夫は棒を握り直した。 握り直すと、手のひらが少し痛い。 痛いのは嫌じゃない。痛いと、いま自分が何かをしていると分かる。

 そのとき、背後で砂が鳴った。 足音。 振り向くと、あの男が立っていた。空っぽの袖の男。今日は帽子を深くかぶっている。朝の光が帽子の影を作って、目が少し見えにくい。

「字ぃ、書いとるだか」

 男はそう言って、幹夫の砂の上の線を見た。 幹夫は急に恥ずかしくなった。下手な字。途中で止まった傷。消えかけた線。 見られたくないのに、見てほしい気持ちもある。見てほしい気持ちがあるのが、さらに恥ずかしい。

「……うん」

 幹夫は小さく頷いた。 男は笑わなかった。笑わないかわりに、砂の上にしゃがんだ。片腕でしゃがむのは少し不安定なはずなのに、男は体の重心を上手に使っていた。慣れている動きだった。慣れているという事実が、幹夫の胸をちくりと刺した。

「何を書きたい」

 男が聞いた。 幹夫は言葉を探した。 探している間に、「父」という言葉が喉の奥に浮かんだ。浮かんだのに、出てこない。出したら、母の喉みたいに自分の喉が動き続けてしまいそうだった。

「……名前」

 幹夫はそれだけ言った。 男はそれで分かったみたいに、小さく頷いた。

「駅の紙か」

 男が言った。 幹夫は驚いて男を見た。驚きは「当てられた」驚きじゃない。「言ってくれた」驚きだった。言葉にしにくいものを、誰かが先に言葉にしてくれると、胸が少しだけ楽になる。

「……読めんかった」

 幹夫が言うと、男は砂の上の線を指で軽くなぞった。なぞると線が崩れる。崩れるのを見て、男は「そうだな」と言った。

「読めんのは、恥ずかしいことじゃねぇよ。読む必要が来たんだ」

 読む必要。 その言い方が、幹夫の胸に落ちた。 必要が来た。来たなら、迎えに行けばいい。迎えに行くために、足を出せばいい。

 男はポケットを探った。 出てきたのは、短くなった鉛筆だった。木が剥けて、芯が少し露出している。使い込まれた鉛筆。削る余白がもう少ない鉛筆。

「これ、やる。砂じゃすぐ消える。紙の上に残したほうが、ええ」

 幹夫は鉛筆を受け取った。受け取った瞬間、指先に重さが来た。 木と芯の重さだけじゃない。男の時間の重さだ。削って、使って、短くしてきた時間。短くなったものは、頼りないのに、頼りになる。

「……いいの?」

 幹夫が聞くと、男は「いい」と言った。

「短いけどな。短いもんほど、ちゃんと持たんといかん」

 男は笑って、空っぽの袖のほうを少し持ち上げた。袖は、風に揺れて、何も入っていないのに、ちゃんとそこにあった。

 幹夫は鉛筆を握りしめそうになって、慌てて力を抜いた。握りしめたら折れそうだった。折れたら、きっと胸の中の何かも折れる。

「ありがとう」

 幹夫は言った。 言うと、声が少し震えた。 震えは嫌だった。震えは弱いみたいだから。けれど男は、その震えを笑わなかった。

「おう。……覚えたら、誰かの役に立つ。役に立つってのはな、腹が減ってても、心が少し持つ」

 腹が減ってても、心が少し持つ。 幹夫はその言葉を、胸の奥で握り直した。

 男が去っていくと、浜辺には波の音だけが残った。 幹夫は鉛筆を見た。短い鉛筆。 短いのに、やけにまっすぐに見えた。

 幹夫は、砂の上にもう一度「幹夫」と書いた。 今度は、さっきより形がはっきりした気がした。 気がするだけかもしれない。 でも、気がするがあると、人はもう一回できる。

 波が寄せて、線が少しずつ崩れた。 崩れるのが悔しくて、幹夫は急いで書き直した。 書き直すと、また波が崩した。 崩されるたび、幹夫は書いた。

 消えるから書く。 届かないから、残す。 残すために、手を動かす。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、鉛筆は届いた。 男の言葉も届いた。 そして、幹夫の「読めるようになりたい」という小さな決心も、ちゃんと幹夫の中に届いた。

 幹夫は砂の上に「母」と書いた。 今度は、最後まで書けた。 形は歪んでいる。線も揺れている。 それでも、最後まで書けたという事実が、幹夫の胸の奥を少しだけ温めた。

 幹夫は、流木の棒をそっと置いた。 代わりに鉛筆を上着の内ポケットに入れた。 胸の近くに入れると、鉛筆の硬さが心臓のそばに触れる。硬さは、支えになる。

 次に駅へ行くとき、幹夫はあの紙の前で、母の横に立てるだろうか。 母の目の代わりに、少しだけ目を出せるだろうか。 分からない。

 分からないけれど、幹夫は浜辺を歩き始めた。 鉛筆の重さが胸にあるだけで、歩幅がほんの少しだけ大きくなった気がした。

 
 
 

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