綴じ糸
- 山崎行政書士事務所
- 2月3日
- 読了時間: 7分

朝、縫い箱のふたが、いつもより早く開く音がした。 かちり、ではなく、息を吸うみたいな小さな音。
幹夫は布団の中で目だけを開けて、座敷の隅を見た。母が縫い箱の前に座っている。背中はまっすぐなのに、肩だけが少し丸い。丸い肩は、重いものを胸の内側で抱えている肩だ。
母の指が縫い箱の下へ入って、昨夜の折り畳みを引き出した。 紙を開く音が、ぱら、と鳴る。 その音は針の音より太くて、でも声より細い。
幹夫は、起きたふりをするか迷って、結局、ふりをしないまま見ていた。 見てしまう。見てしまうと胸がざわつくのに、目は止められない。
母は紙を読んで――すぐ畳んだ。 畳むのが早い。 早いのに乱暴じゃない。早く畳むのは、声が漏れないようにする畳み方だ。
「ぼくも て だす」
幹夫が昨夜書いたひらがなは、母の手の中でいったん消えて、折り目の中へ戻された。戻されると、幹夫の胸の奥がちくりとする。返されるわけじゃないのに、どこかへ行ってしまう気がして。
母は紙を縫い箱の中に入れず、箱の脇にそっと置いた。 置き方が、捨てない置き方だった。
それから母は、縫い箱の奥から糸巻きを出し、針に糸を通した。 糸は白い。真っ白じゃない白。 白い糸が針穴を通るとき、母の指がほんの少しだけ震えた。震えは寒さじゃない。細いものを落とさないための震え。
幹夫は、ここでようやく布団の中で身じろぎした。 起きたと知らせるために。 知らせないまま見ているのが、急に悪いことみたいに思えた。
「起きたか」
母が言った。いつもの声。 いつもの声なのに、今朝は少しだけ折り目がある声だった。
「うん」
幹夫が返すと、母は「顔洗ってこい」と言った。 言い方もいつもどおり。 けれど母の目は、幹夫のほうを一瞬だけ見て、すぐ縫い箱へ戻った。その戻り方が、返し縫いみたいに見えた。いったん戻って、また進む。
朝飯のあと、母はちゃぶ台の上に、新聞紙の白い裏を何枚か並べた。 並べると、白が増える。白が増えると、胸の中が少しだけ静かになる。空っぽが広がるのが怖いはずなのに、白い紙の空っぽは、怖さより「書ける」の顔をする。
祖母が台所から覗いて言った。
「なんだ、帳面でも作るだか」
母は「うん」と短く返して、紙の端を揃えた。 揃える指先が丁寧だった。紙の角を、指の腹で丸めないように。角を守るように。
「幹夫」
母が呼んだ。呼び方が、用事の呼び方だった。 幹夫は背筋が少し伸びた。用事の呼び方をされると、胸の奥が「手を出せる」と言う。
「これ、押さえて」
母は紙の束を幹夫の前へ寄せた。 寄せる、という動きが、また嬉しかった。寄せるだけで「一緒」ができる。
幹夫は両手で紙の束を押さえた。指先が紙のざらつきを感じる。新聞紙の裏は、真っ白じゃないぶん、触るとちゃんと「紙」の手触りがする。
母は針を持ち、紙の端に小さな穴を開けていった。 ぷす。 ぷす。 音はしないのに、穴が増えるたび紙が「綴じられる顔」になる。
「糸、通すで、ちょっと持っとけ」
母はそう言って、白い糸を引いた。糸が紙をくぐるとき、紙が少しだけ鳴る。 擦れる音。 擦れる音は、郵便局の消印の「どん」とは違う。決める音じゃない。結ぶ音だ。
幹夫は、紙の端がずれないように押さえた。 ずれると母の眉間が固くなるかもしれない、と一瞬思って、力が入った。力が入りすぎると紙が皺になる。皺になると、また別の「しまった」が来る。
「力、抜き」
母が小さく言った。 叱りじゃない。教える声。 幹夫は指の力を少し抜いた。抜くと、紙はふわっと呼吸をするみたいに平らになった。
糸が通って、最後に結ばれた。 白い糸の結び目が、小さく紙の端に座った。
「これで、帳面」
母が言った。 帳面、という言葉の響きが、幹夫には大人の道具みたいに聞こえた。道具は、使える人の味方になる。
祖母が「ほう」と言って、鍋のふたを開けた。湯気が立つ。 湯気の白と、糸の白と、紙の白が重なると、家の中が少し明るく見えた。
母は帳面の一枚目に、ゆっくり字を書いた。 鉛筆は幹夫の竹を継いだ鉛筆だった。母の指が竹の継ぎ目を越えるとき、幹夫はまたちくりとした。自分の大事な硬さが、母の大事な用事に使われるちくり。
「これは……控え帳にする」
母が言った。 控え。写し。なくさないためのもう一つ。
母は帳面に「届出控」と書いた。 「届」と「控」の字が並ぶと、紙が急に役場の匂いを持つ。 母の指先が、そこだけ少し硬くなるのが分かった。
次に母は、少し迷ってから、別の欄を作るように線を引いた。 線を引くと、白い場所に区切りができる。区切りができると、空っぽが暴れなくなる。
「……ここに、父ちゃんのことも、書いとく」
母の声は低かった。低いのに、今日は倒れない低さだった。 言葉の置き方が、畳の上に器を置くみたいに慎重だった。
幹夫は息を止めた。 止めると、心臓だけがうるさい。 うるさいのに、目は母の鉛筆の先から離れなかった。
母は父の名前を書いた。 幹夫はその漢字を知らない。知らないのに、母の線の迷いが少ないのが分かった。迷いが少ない字は、母が何度も胸の中で書いてきた字だ。
続けて、生まれの場所、年、分かるだけのこと。 「分かるだけ」という書き方が、母の優しさだった。分からないところに無理に線を引かない。無理に引くと、嘘が混ざるから。
母は最後に、小さく丸をひとつ書いた。 印じゃない。 ただ「ここまで」の丸。
幹夫は、その丸を見て、昨日自分が書いた丸を思い出した。 丸は、届かないときの小さな灯りだ。
「幹夫」
母が言った。 幹夫は「なに」と返す前に、背筋が伸びた。
「真似して書いとけ。……控えだで」
母は帳面を幹夫のほうへ回した。 回す、という動きがまた嬉しい。回されると、自分の番が来る。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬さが頼もしい。 けれど今日は、硬さが少し怖かった。間違えたら、この紙の中の父が崩れる気がしたからだ。
幹夫は、母の字を見て、ひらがなで写した。 漢字は書けない。だから、音のまま。 音のままでも、書けば残る。残るなら、控えになる。
「おとうちゃん」
書いてしまって、幹夫は恥ずかしくなった。自分がその言葉を紙に乗せてしまったことが、急に重い。 でも母は何も言わなかった。 言わないことで、紙を軽くしないでくれた。
母は帳面を取り上げず、幹夫の字の横に、小さく「よし」とだけ書いた。 よし、は、母の返事の仕方だ。声じゃなく、紙の上に置く返事。
幹夫の胸の中の警報が、ふわっと丸く鳴った。
昼過ぎ、あの空っぽの袖の男が戸口に立った。 帽子を手に持ち、いつものように笑いきれない笑いをしていた。
「悪いけど……読むの、手ぇ貸してくれんか」
男はそう言って、紙切れを差し出した。小さな紙。薄い紙。 紙の端が少し折れている。折れた端は、誰かの焦りの跡に見えた。
母は一瞬だけその紙を見て、すぐ幹夫のほうを見た。 見る目が「やってみるか」と言っている。 言葉じゃないのに、届く。
幹夫は胸の内ポケットから、自分の新しい帳面を出した。 出したとき、白い糸の結び目が見える。 結び目が見えると、心が少し落ち着く。ほどけないための戻りがそこにある。
紙の文字は、難しかった。 幹夫は読めない字が多い。けれど、形を写すことはできる。形を写せれば、あとで母に聞ける。控えがあれば、迷子になりにくい。
幹夫は帳面に、紙の字の形を一つずつ真似して書いた。 手が震える。震えるのに、書く。 書くたび、線が残る。残ると「やった」が少し増える。
男は幹夫の手元を見て、黙っていた。 黙り方が優しかった。急がせない黙り方。 急がせないと、字の角が丸くなる。
母が横から、帳面を覗き込んで言った。
「……これは、清水へ来い、って」
清水。 幹夫の胸が小さく動いた。清水は海の匂いが濃い場所だ。港の匂いがする場所。 来い、という字の形が、紙の上で急に立ち上がる。
男は口の端を噛んで、頷いた。
「船が、また入るらしいでな」
船。 帰ってくる船。 帰ってこない船。 幹夫はそのどちらも想像してしまって、胸の奥が少し冷たくなった。
母はそれ以上、話を広げなかった。 広げると、空気が固くなるのを知っているからだ。
男は最後に幹夫の帳面を見て、ぽつりと言った。
「……控え、か」
母が「そう」と答えた。
「控えがあると、怖いとき、少し持つでな」
男の言い方は、祖母の「匂いでええ」と似ていた。 全部は持てない。けれど少しなら持てる。少し持てれば、崩れないで済む。
男が帰ったあと、幹夫は帳面を胸に抱えた。 抱えると、紙の角が体温を吸って少し丸くなる。 丸くなると、刺さらなくなる。
母はちゃぶ台の端を拭きながら、幹夫の帳面を一度だけ見た。 見て、何も言わなかった。 けれど、母の湯呑みの置き方が、少し柔らかかった。 それだけで十分だと、幹夫は思えた。
夜、幹夫は帳面の一番後ろのページに、小さく書いた。
> て だす
「手」を漢字で書けないから、ひらがなにした。 ひらがなは子どもの字だ。 でも、子どもの字でも、残る。残れば、控えになる。控えになれば、なくならない。
最後に、丸をひとつ描いた。 糸の結び目みたいに、小さく揺れる丸。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、白い綴じ糸は届いた。 綴じ糸は叫ばない。 それでも、紙と紙をつなげて、「忘れない」を静かに残していった。





コメント