聞の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 9分

朝の潮の匂いは、台所の味噌の匂いと混ざると、少しだけ丸くなる。 丸くなると、胸の奥の角が立ちにくい。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。
縁側で父が、昨日の小さな紙切れ――障子の桟に挟んだやつ――を指で撫でていた。 角が丸い。 丸い角は刺さらない。 父は刺さらないものを、少しずつ増やしている。
そのとき、路地のほうから声が来た。
「みきぼー! 踏切、見に行くー?」
近所の子の声。 踏切、という言葉は、音を連れてくる言葉だった。 門が下りて、鈴が鳴って、線が走る。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、行きたい鳴り方だ。
でも、行きたいの奥に、もうひとつある。 父の肩が上がるかもしれない、の奥の、細い怖さ。
幹夫は返事をする前に、息を入れた。
――いき。
「……行きたい」
言いながら、父の横顔を見た。 見た瞬間、父の眉の間が、ほんの少しだけ寄った。 寄ると、空気が少し硬くなる。
母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。
「踏切は、音が鳴るだに」
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえ、息を入れた。
――いき。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「鳴るもんぁ鳴る。行くなら“鳴る”って分かって行け。分かってりゃ、驚きが減る」
分かってりゃ、減る。 減る、は救いの言葉になる日がある。
父はしばらく黙って、畳の目を見ていた。 黙りは長い。 でも今日は、長さが怖くない。 父の黙りの中に、昨日の隙間の光がまだ残っている気がしたからだ。
父が、ぽつりと言った。
「……行く」
その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばないけれど、喉の奥が熱くなる。
――いき。
父は続けて、少し照れたみたいに言い直した。
「……見に行く。……遠くから」
遠くから。 余地。 たわみ。 きつくしない線。
母は驚きを刃にしない顔で頷いた。
「ええよ。止まったら止まってええ。……“間”置け」
父が小さく頷いた。
「……間、だな」
踏切までの道は、海の匂いと、線路の鉄の匂いが、少しずつ混ざっていく。 鉄の匂いは硬いのに、朝だとまだ冷たくて、どこか澄んでいる。
父の歩幅は小さい。 小さいのに確か。 確かな足は、音の前でも転びにくい。
踏切の手前で、父は立ち止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
近所の子が先にいて、目をきらきらさせている。
「もうすぐ来るよ! 黒いやつ!」
黒いやつ。 蒸気機関車のことだろうか。 幹夫は見たことがあるような、ないような。 思い出の端が、ふわっと揺れる。
揺れるときほど、息。
――いき。
線路の向こうの空が、いちどだけ、変な静かになった。 静かが来ると、次に音が来る。 次が来る前の静かは、胸をきゅっとさせやすい。
カン。
遠くのほうで、最初の一つ。
カン、カン。
踏切の鐘が鳴りはじめた。 小さいのに、決まったリズム。 決まったリズムは、逃げ道がないみたいに聞こえる日がある。
父の肩が、ふっと上がった。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて、息を入れた。
――いき。
父の喉がごくりと動く。 目が、少し遠くへ飛びかける。 飛びかけたところで――父は、口を開いた。
「……踏切の音だ」
踏切の音。 名前がついた。 名前がつくと、音は音のままでいられる。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
遮断機が下りる。 棒が下りる音は、思ったより柔らかい。 ごとん、じゃなく、すう、っと落ちる。
父が、それを見てぽつりと言った。
「……下りるの、遅いな」
遅い。 遅いのは、助かる。 急じゃないと、胸が走りにくい。
近所の子がはしゃぐ。
「来るよ! 来るよ!」
線路の向こうから、黒い塊が近づいてくる。 風が先に来て、頬を撫でた。 撫でる風は刺さらない。
次に、音。 ごう、という腹に落ちる音。 でも父は、今日、声を出した。
「……機関車だ」
機関車。 言えた。 言えると、胸の奥の警報は尖りきらない。
幹夫は父の袖を、指先でほんの少し掴んだ。 掴むのに、引っぱらない。 ただ、ここにいる、の合図。
――いき。
機関車が目の前を通る。 黒い鉄。 窓の小ささ。 煙の匂い。 煤の匂いが、潮の匂いと混ざって、苦いのにどこか甘い。
音は大きい。 でも、父は叫ばなかった。 眉の間が寄っているのに、折れない。 折れないまま、息を吐いた。
ふう……。
吐く息は見えないのに、父の肩が少し落ちた。 落ちると、世界が少し丸くなる。
機関車の後ろの客車が続く。 続く線。 たわんで、続く線。
最後尾が過ぎると、鐘の音が止まった。
カン、が消える。 消えたあとに、耳の中に、まだ少しだけ残る。
残るものがあるとき、幹夫は思い出す。
――いき。
父が、ぽつりと言った。
「……聞けた」
聞けた。 それは勝ち負けの言葉じゃなくて、戻れた、の言葉だった。
幹夫は頷いて、喉の奥の熱さを走らせないように、息をひとつ入れてから言った。
――いき。「……父ちゃん、聞いた」
父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、その上がり方が丸い。
「……聞いたな。……俺も」
俺も。 その“も”が、幹夫の胸をあたためた。
帰り道、近所の子が、線路脇の小石を拾って見せた。 黒っぽい石。 煤がついたのか、手が少し汚れる。
「これ、機関車のだよ!」
幹夫は欲しくて、でも父の顔を見た。 父は少し考える顔をして、それから短く言った。
「……一つだけ。……袋に入れろ。鳴らんように」
鳴らんように。 守りの言葉。
幹夫は黒い小石を一つ拾って、布の袋じゃなく、冊子を包んでいた布の隅にくるんで、ぎゅっとしないで結んだ。 ほどける結び。 余地のある結び。
――いき。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
聞
幹夫は、その字を見た瞬間、踏切の鐘の音を思い出した。 カン、カン。 でも今日は、刺さらないカンだった。 名前がついたカンだった。
母は字の外側を指でなぞった。
「これ、門だに」
門。 昨日の「間」の門と同じ。 同じ門の中に、今日は別のものが入っている。
母は門の中を、指でそっとなぞった。
「こっちは耳だに。……耳が門の中におる」
門の中の耳。 幹夫は障子の隙間の光を思い出した。 門を少し開けて日を入れるのが間。 門を少し開けて耳を入れるのが聞。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「聞くってのはな……門の中で耳を立てる字だに。閉めきらんで、入れて、でも出られるようにしとく」
出られるように。 余地。 たわみ。 きつくしない。
母は続けた。
「聞こえる、は勝手に来るだに。……でも“聞く”は、自分で選べる。怖い音も、名前つけたら、聞き方が変わる」
聞き方が変わる。 父の「踏切の音だ」。 それが、今日の一番の変わり方だった。
父が新聞紙の「聞」を見て、ぽつりと言った。
「……間は日で、聞は耳か……」
父は小さく笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。
「……耳のほうが……俺には要るな」
要る。 その言葉は、恥じゃない要るだった。 暮らしの要る。 守りの要る。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「聞くなら、口閉じろ。……口閉じるのも間だに」
口閉じるのも間。 間と聞が手をつないだ。
幹夫は鉛筆を握った。 門を書いて、耳を書く。
一回目の「聞」は、門がきつく閉まりすぎて、耳が窮屈そうだった。 窮屈だと、音が出られなくて、胸の中で暴れそうになる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「門がきついときはな……少し広げりゃええ。耳が座れる場所、作るだに」
耳が座れる場所。 それは、踏切の手前で立ち止まった父の「少し」だった。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「聞」は、門に少し余地ができて、耳が落ち着いた顔になった。 落ち着いた耳は、刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「聞」は、門の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 耳の最後の線を書くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……聞、って……外の音が入っても……戻れる字だな」
戻れる字。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
母は「聞」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、門の中の耳の形みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書き足した。
> ふみきり > きけた > いき
“いき”は、父も丸く書いた。 丸いと、刺さらない。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……今日の鐘、俺……怖かった」
怖かった。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。
幹夫はすぐ返事をしなかった。 言葉は、ときどき尖る。 だから、間を置く。
――いき。
「……うん。……でも、父ちゃん、聞いた」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……聞いたら……終わった。……鳴りっぱなしじゃなかった」
鳴りっぱなしじゃなかった。 それは、音に“終い”があるってこと。 終いがあると、夜は刺さりにくい。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「音は通るだに。……聞けたら、通して終い」
祖母が淡々と言う。
「終いにできりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
きょうふみきり の かん かんおと おおきいでもとうちゃんふみきり の おと って いえたきけたおわった って いえたぼくくろい いし ひとつならない ように つつんだいき
最後に、小さく「聞」。 丸をひとつ。 門の中の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは鐘の余韻。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
きく はもん の なか の みみしめきらんよち の ある ききかたなまえ つけてここ に もどるいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうふみきり の おとこわかったでもふみきり って いえたきけたおわったすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――黒い小石がひとつ。 煤の匂いが、まだかすかに残っている。 布に包まれて、鳴らない。 包みの端に、父の震える字で小さく、
きく
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
聞く。 門の中に耳を座らせる。 名前をつけて、通して終いにする。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、鳴らない黒い小石の「きく」は届いた。 届いた“終いにできる音”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、音と自分のあいだに、刺さらない聞き方の余地を、そっと残していった。





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