茶の香
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 8分

幹夫が呉服町へ出たのは、別に用があつた訣ではない。用といへば用である。併しその用は、彼自身にもはつきりしない種類の用であつた。――即ち、何かを買はねばならぬ気がする、といふ用である。
冬の手前の午後であつた。空は澄み、駿府の街はどこか乾いた明るさを帯びてゐる。幹夫は人混みの中を歩きながら、時々自分の歩き方の癖を意識した。歩く時、右肩が僅かに落ちる。その落ち方が、どこか卑屈に見えるやうで、彼は歩幅を変へてみる。変へれば変へるほど、歩き方は不自然になる。――歩き方一つが、他人に何の印象を与へるものか。さう考へても、幹夫の神経は彼の理性よりも執拗であつた。
彼はふと、古い茶舗の前で足を止めた。店先の暖簾は煤けたやうな深緑で、「茶」と一字だけ白く染め抜いてある。硝子戸の向うには、黒塗りの大きな茶壺が幾つも並び、札の字は毛筆で、しかも少し崩れてゐた。その崩れ方が、幹夫には何かの内輪話のやうに見えた。
幹夫は硝子戸を開けた。
途端に、茶の香が来た。
茶の香といへば、誰でも知つてゐる香である。焙じた葉の焦げと、土の匂ひと、遠い山の湿り気のやうなものが混つた匂ひである。幹夫も勿論、茶の匂ひを知らぬ訣ではない。彼の下宿でも番茶くらゐは飲む。しかしこの店の香は、彼が今まで嗅いだどんな茶よりも濃く、しかも妙に柔らかかつた。柔らかいのに胸の奥を押し返すやうに迫つて来る。幹夫は思はず立ち竦んだ。
――この匂ひを、知つてゐる。
幹夫は一瞬さう思つた。知つてゐるどころではない。彼の中には、この匂ひと結びついた何かが確かにある。その「何か」が、今、戸の隙間から入り込んで来た香に触れ、ふいに目を覚ましてしまつたやうに感じられた。
店の奥から、白髪の主人が現れた。背は低い。袖口の擦り切れた紺の作務衣を着てゐる。主人は幹夫を見ると、何の不思議もない顔で言つた。
「いらつしやいませ」
幹夫は返事をするのを忘れた。返事どころか、自分の舌が口の中で乾くのを感じた。彼は、掌の汗が増すのも分つた。主人は幹夫の狼狽を茶に起る気後れか何かと思つたのであらう。静かに茶壺の蓋を開け、茶葉を小さな木匙で掬ひ、掌の上に少し載せて差し出した。
「香だけでも嗅いでごらんなさい」
幹夫は、差し出された掌の上の葉を見た。細い針のやうな葉が、微かに光つてゐる。幹夫は身を屈め、匂ひを嗅いだ。
その瞬間、景色が変つた。
彼の目の前にあつたのは、茶壺でも主人の掌でもない。――濃い緑の畝が、波のやうに並ぶ丘である。畝の間には赤土が見え、赤土は湿つてゐる。遠くに白い富士がある……筈であるのに、富士は雲の中に隠れてゐる。風が吹く。風は葉を擦り、葉はさらさらと音を立てる。幹夫はその音を、音としてではなく、肌の感触として受け取つてゐた。
そして誰かの声がした。
「幹坊、手を離しちやいけないよ」
女の声である。柔らかいが、命令のやうに確かである。幹夫はその声に従つて、何か細い指を握り締めた。握り締めた指は温かく、しかも少し汗ばんでゐる。幹夫はその汗の匂ひを、茶の香の中に嗅いだ。嗅いだと同時に、胸の奥が痛くなつた。
――母の声だ。
幹夫はまた思つた。併し、すぐ次の瞬間、彼は自分で自分を叱りつけた。
馬鹿々々しい。母は東京で暮してゐた。幹夫の幼年時代も、東京の借家の中にしかない。茶畑など、一度も歩いたことがない。まして「幹坊」などと呼ばれた記憶もない。幹夫の母は、幹夫を「幹夫さん」と呼んでゐた。幼い頃からである。――それが妙な母であることは、幹夫も知つてゐる。併し知つてゐるからといつて、突然母が「幹坊」などと呼ぶ筈がない。
幹夫は顔を上げた。店の中は変りなく薄暗い。硝子戸の外には呉服町の人通りが見える。主人は幹夫の様子を見て、少し笑つた。
「香が強いでせう。こいつは山の方の茶でね。雨に当たつた葉を焙じると、こんな匂ひが出ます」
主人の言葉は現実の説明である。その説明は幹夫を救ふやうで救はなかつた。幹夫は現実の説明を受け取つた瞬間に、いよいよ自分の中の幻が疑はしくなるのを感じた。幻は、現実に似てゐるほど厄介である。
幹夫は茶壺の列の間に置かれた古い写真立てに目を留めた。茶摘み女が並んでゐる。顔はどれも小さく、時代のせゐか表情も硬い。併しその中に、一人だけ、幹夫の見覚えのある輪郭があつた。見覚えがあると言つても、どこで見たのか分らぬ輪郭である。――夢の中で見たやうな輪郭、と言へば近い。
幹夫は主人に訊いた。
「これは……こちらの方ですか」
主人は写真立てを見て、うなづいた。
「昔の家の者です。今はもう、皆いませんがね」
主人はさう言つてから、何か思ひ出したらしく、少し声を落した。
「この中に、私の妹がゐます。――いや、妹ぢやない。妹のやうに育つた子がゐるんです。あれは……名を、幹、と言つた」
幹夫は胸の奥がひやりとした。幹といふ名は、彼にとつて自分の一部である。しかもそれが、この店の、しかもこの写真の、どこかの誰かの名として言はれたのだ。幹夫は自分の頬が僅かに熱くなるのを感じた。
「幹……ですか」
「ええ。幹。女の子でしたがね。変な名でせう。母親が、何でも“幹は根よりも先に折れにくい”とか言つて……」
主人はそこで言葉を切つた。言葉を切つた訣は、幹夫にも分つた。死んだ者の話は、続けるほど話す者の生活に食ひ込んで来る。生活に食ひ込めば、口の中が痛くなる。主人は痛みを避けたのだらう。
幹夫は写真を見た。茶摘み女の中の一人が、たしかに幹夫の「見覚え」と重なつてゐる。幹夫はその顔を――顔と呼ぶには遠い小さな影を――凝視した。凝視すればするほど、その影は幹夫の記憶の中の「母」と似て来る。いや、母よりもむしろ、母を演じた女優のやうに似て来る。幹夫は自分が今、何を基準に似てゐると言つてゐるのか分らなくなつた。
――匂ひが、記憶を作るのではない。記憶が、匂ひを借りて姿を取るのだ。
幹夫は急にさう思つた。その思ひは、彼の中で理屈として成立してゐるやうで、実は何の救ひにもならなかつた。記憶が勝手に姿を取るなら、その記憶は誰のものか。幹夫のものか。写真の中の「幹」のものか。或は主人の語りのものか。――さういふ疑ひが、茶の香のやうにじわじわと幹夫の胸に沁み込んだ。
主人は幹夫の沈黙を、茶の選びかねと解釈したらしい。
「お土産ですか。ご自宅用ですか」
幹夫はやつと現実へ戻るために、無理に言葉を作つた。
「……自分用で結構です」
主人は包紙を取り、手際よく茶を量り始めた。包紙の上には古い店印が押してある。墨の匂ひと茶の香が混り、幹夫はまた胸の奥にあの丘の湿り気を感じた。風の音が聞えるやうな気がした。指を握る温かさが戻つて来るやうな気がした。
幹夫は思はず、自分の手を見た。手はただの手である。指は五本ある。爪もある。掌には浅い線が走つてゐる。併しその手が、さつき幻の中で握つた「細い指」を、今もどこかで握つてゐるやうな気がした。握つてゐるのに、掌には何もない。何もないのに、掌は温かい。
主人が包みを差し出した。
「では、これを」
幹夫は金を払ひ、包みを受け取つた。包みは軽い。軽いくせに、彼の手の中で重く感じた。重いのは茶葉ではない。匂ひである。匂ひの背後に潜む、言葉にならぬものの重さである。
幹夫は店を出た。
外の空気は、店の中よりも乾いてゐる。呉服町の通りは、相変らず人が流れてゐる。幹夫はその流れの中へ紛れ込むやうに歩いた。歩きながら、包みを抱へた腕の内側に、時々茶の香が立ちのぼるのを感じた。香が立ちのぼるたびに、あの声が蘇る。
「幹坊、手を離しちやいけないよ」
幹夫は耳を澄ませた。勿論、声など聞えない。聞えるのは車の音と靴の音と、遠くの子供の笑ひ声だけである。併し幹夫の内部には、確かにあの声が残つてゐた。残つてゐる以上、それは彼の記憶である、と言ひたい。だが彼はその論理を信じ切れなかつた。記憶が彼のものである証拠は、どこにもない。証拠がないのに、痛みだけがある。――その痛みこそ、証拠であるかも知れない。さう思ふと、痛みはますます正体を失つた。
下宿へ帰る途中、幹夫はふと足を止めた。何かに呼ばれたやうな気がしたのだ。呼ばれた気がしただけで、実際に誰も呼んでゐない。幹夫は振り返つた。そこにはただ、通りの角があり、看板があり、空があるだけである。
幹夫はまた歩き出した。歩き出しながら、包みの表の店印を見た。そこには小さく、注文主の名が書いてあつた。主人が筆で書いたのであらう。筆の跡は少し滲み、しかし確かに読めた。
「幹」
幹夫は立ちすくんだ。
それは「幹夫」ではない。「幹」とだけある。偶然である。主人が途中で書き損じたのかも知れない。或は店の帳面に、古い客の名が残つてゐて、それをそのまま写したのかも知れない。――幹夫は理屈を幾つも作ることが出来た。理屈はどれも筋が通つてゐた。併し筋が通るほど、幹夫はますます怖くなつた。
茶の香が、また立ちのぼつた。
香は、どこから立ちのぼるのか。包みからか。幹夫の掌からか。或は幹夫の中の、誰かの記憶からか。
幹夫はその答を出す前に、下宿の細い路地へ曲がつた。路地の影は早く、空はまだ明るいのに、地面はもう暮れかけてゐる。幹夫はその影の中を歩きながら、包みの軽さを確かめるやうに握り直した。
――手を離してはいけない。
さう言つたのは、母か。写真の中の「幹」か。或は茶の香そのものか。幹夫には分らなかつた。分らないまま、彼は握つた。握れば握るほど、掌の中の空虚が温かくなつた。
その温かさが、幹夫には最も不吉であつた。




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