top of page

返の字

 

 木の玉――「みき」と彫られた小さな玉は、朝の光を受けて、うっすらあたたかかった。 あたたかいのに、触るとまだ少し冷たい。 その冷たさが、幹夫には好きだった。 冷たいほうが、今ここがはっきりするから。

 縁側で父が、その木の玉を指で転がしていた。 転がして、止めて、また転がす。 止めるときに、指がいちどだけぎゅっとなる。 ぎゅっとなるのに、壊さない。 壊さないぎゅっは、落とさないためのぎゅっだった。

 路地のほうから、声がした。

「幹夫ぉー、いるかぁー」

 近所の子の声。 夕方の名の字の話が、朝に少し混ざって聞こえた。 呼ばれると、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、もう幹夫の体が覚えてしまった鳴り方だ。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まる。 止まった「間」に、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 母が台所から、生活の声で言った。

「外だに。返事してやれ」

 返事。 その二文字が、畳の匂いを連れてきた。 縫い箱の下の紙の匂い。 返事は紙でもできる。 でも今、外の声は紙を待ってくれない。

 幹夫は喉が少し熱くなって、それでも声を出した。

「いるー!」

 声は少し裏返った。 裏返ったのに、刺さらない。 刺さらないのは、呼ばれた声をちゃんと返したからだ。

 路地の向こうで「おー」と返って、足音が遠ざかる。 遠ざかる足音を聞きながら、幹夫は自分の胸にもう一度、息を入れた。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……返したな」

 返した。 その言い方が、嬉しいのに、少し怖い。 返すと、何かが動く。 動くと、次が来る。 次が来るのが怖い日がある。

 でも今日は、父の声が硬くなりきらなかった。 父は木の玉を、掌の上でそっと止めた。

「……返す、って……戻るみてぇだな」

 戻る。 帰る。 返す。 似ているのに、少し違う匂い。 返すには、相手がいる。 相手がいると、道ができる。

 朝飯のあと、母が棚の上から小さな瓶を取り出した。 中身はもう空で、瓶の底に味噌の匂いだけが残っている。

「これ、隣へ返すだに」

 母が言った。 返す、は生活の言葉だ。 借りたものを返す。 借りた言葉を返す。 借りた息を返す――そんなのはないのに、幹夫の胸は勝手にそこまで行ってしまう。

 父がその瓶を見て、いちどだけ瞬きをした。 瞬きのあと、目が少し遠くなる。 遠くなるときほど、息。

 ――いき。

 母は父を急がせない。 急がせないまま、瓶を布巾で拭きながら言った。

「幹夫、持ってくか?」

 幹夫が頷こうとしたとき、父が先に言った。

「……俺、持つ」

 持つ。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だ。

 母は驚いた顔をしそうになって、しなかった。 驚きを刃にしない顔。

「……ええよ。じゃあ、返してきて」

 返してきて。 命令じゃない。 道を渡す言い方だった。

 父は瓶を両手で受け取った。 受け取り方が、不器用で、でも丁寧だった。 丁寧すぎない丁寧さ。 生活の手つきに近い丁寧さ。

 父が小さく言った。

「……投げねぇ。置く」

 昨日の橋と同じ言葉。 同じ言葉は、家の中に道を作る。

 幹夫はその背中を見ながら、ポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、背中を見送るときの手すりになる。

 隣の家は、近いのに、今日は少し遠く感じた。 遠いのは距離じゃなく、父の足の中の距離だ。

 父は戸口を出て、いちど止まった。 止まって、少し。 歩の字のとおり。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父はゆっくり歩き出した。 歩幅は小さい。 小さいのに、確かだ。 確かだと、胸の中の警報は尖りにくい。

 隣の戸の前で、父はさらにいちど止まった。 止まって、瓶を持つ手が少しだけ震える。 震えるのに、落とさない。 落とさない震えは、戻ってくる途中の震えだ。

 父が、喉の奥で息を整えるのが見えた気がした。 整えるとき、肩がふっと落ちる。 落ちると、息が入る。

 父は戸を、こん、こん、と叩いた。 叩く音は小さい。 小さいのに、家と家の間をちゃんと渡る音。

 中から女の声がした。

「はいよ」

 戸が開いて、隣のおばさんが顔を出した。 顔が見えた瞬間、父の目がいちど遠くなりかけた。 かけたところへ――

 幹夫は、胸の中で息を入れた。

 ――いき。

 父は瓶を少し持ち上げて、言った。

「……これ……返す」

 返す。 声は小さい。 小さいのに、ちゃんと届いた。

 おばさんは瓶を見て、すぐ大げさに笑わなかった。 大げさに笑うと、刃になるのを知っている人の笑わなさだった。 おばさんは、ただ頷いて、両手で瓶を受け取った。

「ありがとね。……助かったよ」

 助かったよ。 その言葉が柔らかい。 柔らかい言葉は、受け取りやすい。

 父は返事の「間」を少し長くした。 その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は、やっと言えた。

「……どうも」

 どうも。 短い。 短いのに、そこに「返した」が入っている。

 おばさんは、瓶を抱えたまま、声を落として言った。

「無理せんでいいからね。……少しずつで」

 少しずつ。 その言葉が、外でも刺さらずに使える言葉になっていた。 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。

 父は、ほんの少しだけ頷いた。 頷きの角が、丸い。

「……ああ」

 その「ああ」が、戻る音だった。

 帰り道、父は何も喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 足音が「居る」足音だった。

 家の戸口が見えてきたとき、父がぽつりと言った。

「……返せた」

 返せた。 過去形。 でも「終わった」じゃない過去形。 次に繋がる過去形。

 幹夫は喉が熱くなって、返事をする前に息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 父はその「うん」を聞いて、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 母が台所から、顔を出しすぎずに言った。

「返せた?」

 父は短く言った。

「……返せた」

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。

 祖母が鍋をかき回しながら、淡々と混ぜた。

「返すもん返せりゃ、腹が減る。飯だ」

 飯だ、で話が終わる。 終わり方が、家を家に戻す。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 返

 幹夫は目をこらした。 右に「反」。 左じゃなく、右にいる反。 そして、左に――道の足みたいな形、辶。

 母は辶を指でなぞった。

「こっちは道だに。歩くとこ」

 次に反をなぞる。

「こっちは“反”。向きを変える、ひっくり返す、の反」

 向きを変える。 ひっくり返す。 その言葉は少し怖い。 向きが変わると、景色が変わる。 景色が変わると、胸が走ることがある。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「返すってのはな……道の上で、向きを変えて戻ることだに」

 道の上で向きを変える。 今日の父の足。 隣の戸口まで行って、戻ってきた足。 向きを変えられた足。

 母は続けた。

「それとな……返事の“返”もこれだに。呼ばれたら、返す。声を戻す」

 返事。 名の字で呼ばれて、返した「うん」。 外の子に返した「いるー」。 全部が、この字の中に入っている。

 父が「返」を見て、ぽつりと言った。

「……返すって、減るんじゃねぇんだな」

 父の声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、底が少しだけ震える。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、静かに言った。

「うん。……返したら、軽くなることもある」

 軽くなる。 軽いのに飛ばない軽さ。 少し、の軽さ。

 幹夫は鉛筆を握った。 辶を書いて、反を書く。 一回目の「返」は、道が大きくなって、反が小さくなった。 道ばかりで、向きを変えるところが弱い字。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「道が大きくなったらな……反を太らせりゃええ。向きを変える気持ち、残す」

 向きを変える気持ち。 止まって少し。 息を入れて少し。 それが、向きを変える前の準備だ。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「返」は、反が少しだけ座った。 座ると、字が「戻れる顔」になる。

 父が新聞紙の端に、そっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の辶は、少し歪んだ。 歪むのに、ちゃんと道の顔。 父の反は、払いが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが「戻ろう」としている尖りだからだ。

 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。

「……返、って字……歩と似てるな」

 母が一度だけ頷いた。

「うん。歩いて、向き変えるだに」

 祖母が鍋の向こうから、淡々と混ぜた。

「向き変えるのに、腹がいる。飯だ」

 飯だ、でまた終わる。 その終わり方が、あたたかかった。

 母は「返」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、行って戻る道の端みたいに見えた。

 夜。 灯りが落ちる前、父が縫い箱の前でいちど止まった。 止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。

 父は縫い箱を持ち上げなかった。 代わりに、布巾を小さく折って、箱の脇へそっと置いた。 さっきまで瓶を拭いていた布巾。 返したあとの、手の匂いの布巾。

 そして父は、小さな紙片に震える字で書いた。

 > へん

 それだけ。 それだけなのに、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > かえす って> みち で むきを かえて> もどる こと なんだね> きょう とうちゃん が> びん かえして> どうも って いった> その へんじ が> ちゃんと とどいた> いき

 最後に、小さく「返」。 丸をひとつ。 戻る道の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは隣の戸の「こん、こん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > かえす は> むきを かえて> もどる こと> へんじ も> かえす だに> いき> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう> びん かえした> どうも いえた> すこし> かるい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな瓶の栓がひとつ。 返した瓶の栓じゃない。 祖母が「予備だ」と言って置いた、余りの栓。 余りなのに、捨てない。 捨てない余りは、「また返せる」を残す余りだ。

 幹夫はその栓を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 返す。 返事する。 向きを変えて、戻る。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「すこしかるい」という父の字は届いた。 届いた“軽い”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、呼ばれたら返せる道を、胸の奥にそっと敷いていった。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page