消印の丸
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 6分

母が「郵便局、寄るぞ」と言ったのは、朝の粥の湯気がまだ細いときだった。 「寄る」という言い方が、幹夫には少しだけ怖い。寄る、は、用事のついでみたいで、でも用事のついでにしかできない大事がある、と知ってしまったからだ。
母は小さな財布を出して、畳の上でいちど閉じた。開ける前に閉じる、という癖がある。中身の少なさを、空気に先に見せないための動きだと幹夫は思う。 祖母は鍋の底を洗いながら、「風ぇ強いで、紙飛ぶら」とだけ言った。
紙。 幹夫の胸の奥の警報が、また小さく鳴った。紙は軽いのに飛ぶ。飛ぶと届く。届くと、戻らないこともある。
外へ出ると、旧街道の空が少し高かった。山の影がまだ冷たく、海の匂いがその冷たさを薄めていた。 幹夫は母の手を握り、握ったまま母の歩幅を数えた。数えると落ち着く。落ち着くと、余計な想像が減る。
郵便局は駅のほうへ行く途中にある。 建物の前に、赤い箱が ――郵便差出箱。 赤は怖い色のはずなのに、この赤は怖くない。竈の火と同じ種類の赤だ。怖くない赤は、何かを動かすためにある。
幹夫は赤い箱の口を見た。 口は暗い。暗いのに、飲み込むための暗さじゃなく、運ぶための暗さに見えた。 運ぶ暗さ。そんな暗さがあることを、幹夫はまだうまく言葉にできない。
局の中は、紙とインクの匂いがした。 新聞の匂いとも違う。駅の掲示の紙の匂いとも違う。 ここは紙が「動く」場所の匂いがした。
窓口の前に、二、三人並んでいた。 誰も大声は出さない。けれど、みんな口の中で何かを握っているような顔をしていた。握っているのは、頼みごとか、待っている名前か。
母は幹夫の手を放さないまま、順番が来るのを待った。 母の手の温度が、今日は少し低い。低いと、幹夫はその低さを自分のせいにしたくなる。自分が何もできないから、母の手が冷える気がする。
窓口に立つと、母は封筒を一枚出した。 茶色い封筒。角が少し擦れている。中には紙が入っているらしい。紙が入っていると、封筒は軽いのに重そうに見える。
「これ……お願いできますか」
母の声は低い。低いけれど、叱る低さじゃない。崩れないように置く低さだった。 局員の男が受け取り、封筒の宛名を確かめた。宛名、と聞くと、幹夫の胸が小さく動く。宛名のない便りの白い欄が、頭の中で開く。
局員は切手の台帳を見て、母に何かを言った。金額の話だろう。母は小さく頷き、財布を開いた。開くとき、母の指が一瞬だけ止まった。 止まる指は、数える指だ。
母が硬貨を出す。 硬貨の音が、台の上で小さく鳴った。鳴る音が、なんだか恥ずかしそうだった。金属はいつも、鳴ると「足りない」を暴いてしまう。
局員は切手を貼り、次に、黒い道具を手に取った。 ゴムの匂い。インクの匂い。 幹夫は、その手元から目を離せなかった。
どん。
局員が封筒に、丸い印を押した。 音は小さいのに、胸に響いた。汽笛の遠さとも違う。サイレンの鋭さとも違う。 「決まった」という音だった。行く、が決まる音。
丸い黒。 幹夫はその丸を見た。黒い輪が二重になっていて、中に細い字がある。読めないのに、読める気がする形。 丸は、幹夫が夜に書いた丸と似ている。けれどこれは、ただの丸じゃない。これは「印」だ。
「……それ、なに」
幹夫が思わず小さく聞くと、母は封筒から目を離さずに答えた。
「消印」
消す印。 消える印。 幹夫の胸の奥で、警報がちくりと鳴った。消す、という字は嫌いだ。砂糖が消える。鉛筆が短くなる。父が消える。 でも、母の声はそれを嫌いな意味で言っていない。必要なものとして言っている。
「……消すの?」
幹夫が聞くと、母はようやく幹夫を見て、小さく息を吐いた。
「切手、もう一回使えんようにするだけだに。……でもな、これがあると“出した”って分かる」
出した。 出したと分かる。 分かる、というのは、残る、ということだ。消印なのに、残す。 幹夫は、その矛盾みたいな優しさに胸を掴まれた。
局の隅に、古い木の棚があって、そこに「配達物」の袋がいくつも積んであった。麻の袋。紐。札。 袋は口を固く縛られていて、中が見えない。見えないのに、中にはきっと名前がたくさん入っている。 名前が入っている袋は、まるで息をしているみたいに見えた。
幹夫は赤い箱の口を思い出した。 暗い口。運ぶ暗さ。 ここも同じだ。見えないところへ運ばれていく。運ばれて、誰かの手に届く。
幹夫は、急に自分の手紙のことを思い出した。 宛名のない便り。母が預かっている四角。白い宛名欄を空けたままの封筒の絵。 もし、あれに消印が押されたらどうなるだろう。宛名がないのに。消す印だけがある便りは、どこへ行くのだろう。
胸の中の警報が、また鳴った。 鳴ると、足が動きたくなる。手が伸びたくなる。 でも幹夫は、母の横にいる。母の横にいるときの幹夫は、散らばらない。散らばると、母の眉間が固くなる気がするからだ。
窓口の向こうで、局員が別の人の葉書に消印を押していた。 どん。 どん。 丸い黒が増えるたび、紙が「行く顔」になっていく。
隣にいた年寄りの男が、局員に小さな声で言った。
「……返送って、来たんだが」
返送。 返ってくる。 帰る。 帰、と同じ匂いの言葉が、局の匂いに混ざった。
局員が封筒を見て、何か説明している。男は頷いたり、頷けなかったりした。頷けないとき、人の首は動かずに、肩だけが落ちる。 幹夫は、その肩の落ち方が見えてしまって、胸がきゅっとした。
母が幹夫の手を、少し強く握った。 さっきより、少し強い。 強いのは「見なくていい」と言う握り方だ。 幹夫は、見てしまう自分が悪い子みたいに思えて、でも目を逸らすこともできなかった。
郵便局を出ると、風が強かった。祖母の言ったとおりだ。 風が強いと、紙は飛ぶ。飛ぶ紙は、どこへでも行ける顔をする。行ける顔をするのに、行けない紙もある。宛名のない便りみたいに。
母は赤い箱の前で一度だけ足を止めた。 止めて、箱の口を見た。 見て、すぐ歩き出した。 その足の速さが、幹夫の胸を少し冷たくした。速い歩幅は、考えが追いつかない歩幅だ。
「母ちゃん」
幹夫が呼ぶと、母は「なに」と言いながら歩き続けた。歩きながら返事をするとき、母は立ち止まれないものを持っている。
「……消印、あると、戻ってくる?」
幹夫は、うまく言えない気持ちを、そのまま言葉にした。 消印があると、戻ってくるのか。 消印があると、帰るのか。 それが聞きたかった。
母は一度だけ、幹夫の顔を見た。 見て、すぐ前を見た。 前を見る目が、海を見る目に似ていた。答えの代わりに、広さを持ってくる目。
「……宛名がなきゃ、返ってくることもある」
母はそう言った。 「ある」という言い方が、幹夫の胸に少しだけ灯りを置いた。 いつもじゃない。保証じゃない。 でも、ある。
「返ってきたら、また……出せる?」
幹夫が聞くと、母はほんの少しだけ困った顔をして、それから困ったまま言った。
「出せるよ。……宛名が分かったらな」
宛名が分かったら。 またその言葉。 幹夫は、白い宛名欄のことを思った。空っぽなのに、ちゃんと場所を取っている白。 空っぽのままでも、捨てない白。
家へ戻る道、波の音が少し強かった。風が強いから波も荒れる。 荒れる波は、怒っているみたいなのに、同じ形を何度も繰り返す。繰り返しは、安心に似ている。
家に入ると、祖母が干物をひっくり返していた。 焦げる匂いがして、母が「火、強い」と言った。 そういう言葉があると、家はちゃんと家になる。 幹夫はほっとして、内ポケットの鉛筆の竹の継ぎ目を指で触った。
夜、母が紙を広げて、幹夫に字を教えた。 「消」の字は難しかった。 難しいのに、母はゆっくり書いて、「これは“消える”の消」と言ってから、少し間を置いた。
「……でもな、消すためだけじゃない。残すために押すときもある」
母はそう言って、丸をひとつ紙に書いた。 幹夫も真似をした。丸は上手く書けた。丸は、字より先に胸に入る。
幹夫は丸を見ながら思った。 届かないものがある。 でも、届く形もある。 丸い黒の印ひとつで、紙が歩き出すことがある。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、どん、と小さく鳴る消印の音は届いた。 その音は命令じゃなく、約束でもない。 ただ「出した」という事実を、静かに残していく音だった。




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