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石上の鉄

矛は祈りを嫌う。祈りというものは柔らかく、柔らかいものは鉄を錆びさせる。私は石上(いそのかみ)の神庫に立ち、天井近くの梁に吊られた古い矛を見上げていた。矛は、乾いた闇の中で黒く光り、光りながら何も言わない。何も言わぬものほど、こちらの胸を急かす。

神庫の匂いは、杉と鉄と、古い血の粉の匂いだ。血は洗えば消えると人は思うが、血の匂いは、鉄にだけは残る。鉄は人間をよく覚える。人間の方が、すぐ忘れる。

私は矛の穂先を布で拭き、指先に微かな金属の冷えを移した。冷たさは正しい。正しい冷たさは、私の中の余計な疑いを叱ってくれるはずだった。だが、叱られるほどに疑いは育つ。疑いは、胸の奥で温度を持つ。

「都では、仏を迎えたそうだ」

廊下を渡ってきた従兄が言った。その言葉は、戸口から入ってきた風のように、神庫の空気を揺らした。仏。外(そと)の神。海の向こうの金属が、こちらの国の闇へ滑り込む。

「蘇我がな」

私は言った。蘇我という名は、口にすると不快な甘さを持っていた。甘さは腐る。腐った甘さの上で、人は正しさを売買する。

従兄は肩をすくめた。

「物部(もののべ)は許さぬだろう。守屋さまが」

守屋。物部守屋の名は、鉄の匂いがする。鉄の匂いは清潔のふりをしない。だから私は、その名を好きだった。好きであることが怖い。好きなものは、いつか失う。

その夜、私は家へ戻ると、妹の沙羅(さら)が火のそばに座っていた。沙羅は私の妹ではない。戦で拾われ、家に置かれた女で、血のつながりがないからこそ、私の胸の内側を無遠慮に濡らした。濡れる胸は、鉄に似合わない。

「都に、仏さまが来たの?」

沙羅は、あまりにも軽く尋ねた。軽い言葉ほど危険だ。軽い言葉は、重い決断の入口になる。

「来た。だからどうした」

私は冷たく返した。冷たく返すのは、守るためだ。守るという行為は、たいてい暴力の顔をしてしまう。

沙羅は笑わなかった。笑わない目で私を見て、掌の中の小さな玉を差し出した。黒に近い茶色の玉。穴があり、紐が通してある。

「百済(くだら)の人がくれたの。『念珠』って」

念珠。その響きが、指先の冷たさを少しだけ鈍らせた。鈍る冷たさは不吉だ。私は受け取らなかった。

「そんなもの、持つな」

沙羅は、小さく息を吐いた。息は温かい。温かい息は、人間の弱さだ。

「怖いの?」

「怖いのは、お前だ」

私は言ってしまった。言ってしまった言葉は戻らない。戻らない言葉ほど、あとで胸を切る。沙羅は眉を寄せ、念珠を胸のところへしまった。

「仏さまは、怖いものじゃないって」

その「って」が、誰の声かを私は知りたくなかった。知りたくないものほど、耳に残る。

都へ呼ばれたのは、数日後だった。疫(えき)が出た。人が倒れる。死体が増える。死体はいつも同じ匂いをする。匂いは平等だ。平等な匂いの前で、氏(うじ)も姓(かばね)も薄くなる。薄くなった世界を、人は必死に「象徴」で縫い止める。蘇我は仏を象徴にし、物部は神庫の鉄を象徴にした。

飛鳥の庭に、例の仏が置かれていた。青銅の肌が朝の光を受け、濡れたように光っている。濡れた光は、若い女の肩に似ていた。似ているから私は憎んだ。憎むと同時に、目が離せなかった。

仏の顔は笑っている。笑いは薄い。薄い笑いは、こちらの怒りを軽んじる。軽んじられた怒りほど危険なものはない。怒りは、正しさの服を着て走り出す。

守屋は庭に立ち、仏を見下ろした。鎧の縁が光り、声は乾いていた。

「これが国を病ませる。外の神を入れたからだ」

蘇我の者が反論した。疫は神の怒りではなく、仏の功徳がまだ届いていないからだ、と。言葉は互いに鋭くなり、鋭くなった言葉は、結局、刃の代わりになる。

守屋は、私たちに目配せした。

「運べ」

運ぶ。運ぶという語は生活の語だ。生活の語で、信仰の対象を運ぶことの不潔さに、私は眩暈を覚えた。だが命令は骨に入る。骨に入った命令は、考える前に身体を動かす。

私は仏の像に手をかけた。青銅は冷たい。冷たさは正しいはずだった。だがその冷たさは、神庫の鉄の冷たさとは違った。鉄は「殺す」ために冷たい。仏の冷たさは「見下ろす」ために冷たい。見下ろされる冷たさは、妙に屈辱的だ。

像を担ぎ、川へ向かった。水の匂いが近づき、私はふいに沙羅の掌の念珠を思い出した。あの玉も、こんな冷たさを持っていたのだろうか。

川べりで、守屋が言った。

「投げ入れよ」

像が空に浮いた瞬間、私は呼吸を止めた。重いものが宙に浮くと、世界の秩序が一瞬だけほどける。ほどけた秩序の隙間から、人間の本音が覗く。私の本音は、卑しいほどに単純だった。

——割れてしまえ。——だが、割れる前に、もう少し光れ。

水が像を呑み、鈍い音がした。鈍い音は骨に来る。骨に来る音は思想を剥ぐ。剥がれた思想の下に、私は自分の美への執着を見た。美は危険だ。美はいつも、殺しを清めた気にさせる。

その夜、仏を置いた堂に火が放たれた。炎は赤い。赤は血の色に似ているが血ではない。血でない赤ほど不吉だ。煙が空へ伸び、私は煙の匂いの中で、沙羅の「怖いの?」を思い出していた。怖いのは仏ではない。仏を壊す自分の指先だ。

戦になった。言葉が尽きると、世界は必ず肉へ戻る。肉は簡単だ。肉は切れば赤い。赤は嘘をつかない。嘘をつかない赤の上で、私は自分が「物部」であることを誇ろうとした。誇りは鎧に似る。似ているから、誇りはしばしば人を窒息させる。

信貴の山へ向かう道で、沙羅が追ってきた。こんなところへ来るなと怒鳴る前に、私は彼女の息の荒さを見た。荒い息は、生の強さだ。

「行かないで」

沙羅は言った。「行かないで」という言葉は卑怯だ。卑怯だから胸に刺さる。刺さる言葉は、鎧の隙間を探す。

「私は物部だ」

私は言った。その言葉の硬さの裏側で、私は自分が何を言っているのか分からなくなっていた。物部とは何だ。神庫の鉄か。守屋の名か。沙羅に冷たくするための方便か。

沙羅は懐から念珠を出し、私の掌に押し付けた。玉が冷たい。冷たさが、私の指に刺さる。

「これ、持って。縁を結ぶためじゃない。ほどけないように、って」

ほどけないように。結び目がほどけないためには、糸は必ずどこかで締まる。締まるのは喉だ。喉が締まれば声が出ない。声が出なければ、命令だけが残る。

私は念珠を握った。握ったことが、沙羅への裏切りにも、救いにも見えた。見えるということが、もう腐り始めている証拠だ。

山での戦は短かった。敵の矢はよく飛び、こちらの盾の木を割り、木の匂いが血の匂いと混じった。混じる匂いは現実の匂いだ。現実はいつでも、神話より臭い。

守屋が倒れたのを、私は見た。倒れる背中は小さい。小ささは弱さではない。重いものを背負いすぎた者だけが持つ縮み方だ。倒れた瞬間、私は「終わり」を感じた。終わりは、音ではなく、空気の密度で来る。密度が変わると、世界は急に他人になる。

私は逃げた。逃げる足音が、自分の耳にだけ異様に大きく響いた。大きい足音ほど恥ずかしい。恥は生き残った者の証拠だ。恥がある限り、私はまだ人間だった。

石上へ戻ると、神庫の闇は変わっていなかった。だが闇の匂いが違った。鉄が、少しだけ遠い匂いになっている。遠い匂いは、もう守れない匂いだ。

私は矛の前に座り、念珠を取り出した。玉の表面が指先で滑る。滑るものは祈りに似る。祈りは形を持たない。形を持たぬものが、国を動かしてしまった。形を持たぬものに負けた鉄は、いまからどう生き延びるのか。

外で、風が木の枝を鳴らした。乾いた音。正しい音。私はその正しさの中で、ふいに理解した。

物部が負けたのではない。物部の「勝ち方」が、時代の匂いに合わなくなったのだ。鉄は、祈りを嫌う。だが国は、いつか祈りを必要とする。必要とした瞬間、鉄の誇りは錆びる。錆びることが怖くて、私たちは火を放った。火は一瞬きれいだ。きれいな炎ほど危険だ。きれいな炎は、罪を清めた気にさせる。

私は念珠を握り、神庫の土間に小さな穴を掘った。穴は暗い。暗さは、何も映さない。映さない暗さだけが、甘い物語を拒む。念珠を穴へ落とし、土をかぶせた。埋めるという行為は、忘却のふりをする。だが埋めたものは、土の中で必ず匂いを増やす。匂いはいつか、こちらの胸へ戻ってくる。

最後に、私は矛の穂先へ額を近づけた。鉄は冷たい。冷たさは正しい。だがその正しさは、もう勝利の正しさではない。敗れた者が、それでも嘘をつかずに生きるための正しさだ。

外では、新しい堂の槌の音が遠くで鳴っていた。音は軽い。軽い音ほど、時代を運ぶ。私は耳を塞がなかった。塞げば、きっと楽になる。楽は甘い。甘い楽は腐る。腐った楽の上で、私はまた火を欲しがるだろう。

だから私は、聞いた。槌の音も、鉄の沈黙も、土の匂いも。そして、自分の中に残った「物部」という名の、あまりに錆びやすい誇りを、錆びるまま抱えて立ち上がった。

祈りを嫌う矛の前で、私は初めて、祈りに似たものを覚えた。——勝つためではない。美談にしないために。この国の始まりが、二度と「清潔な物語」にならないために。

 
 
 

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