逆さ富士
- 山崎行政書士事務所
- 2025年4月3日
- 読了時間: 22分

第一章
澄みきった春の午後、幹夫は富士の麓に広がる湖のほとりの停車場で汽車を降りた。肌に触れる空気は東京の埃っぽいそれとは違い、ひんやりと透明である。見上げれば、紺碧の空を背景に真っ白な富士の頂が悠然とそびえていた。湖畔のあちこちには桜の木が淡い薄紅色の花を満開にし、その花びらが風に乗ってひらひらと水面に舞い落ちている。静かな湖面には逆さ富士がくっきりと映り込み、まるで現実と幻が溶け合う鏡の国に迷い込んだかのような錯覚を幹夫に与えた。
幹夫は浅い呼吸を一つして、そっと瞬きをする。湖に映る富士山と空の青さ、舞い散る花びらの光景があまりに美しく、長旅の疲れも忘れてただ立ち尽くした。幼い頃、この地を訪れた記憶が脳裏にかすめる。「なんと懐かしい景色だろう」——胸の内でそう呟くと、都会で積もった心の澱が少しずつ薄らいでいくようだった。幹夫はトランクを引き寄せ、湖畔沿いの道を歩き始める。行く先には今回逗留する古びた旅館が佇んでいるはずだった。
湖からの風に乗って、水と若葉の匂いが運ばれてくる。道端には名も知らぬ小さな花々が春の日差しに揺れていた。遠くで子どもの笑い声が聞こえ、一瞬はっとする。幹夫は足を止め、耳を澄ませた。しかし、それはすぐに静寂に吸い込まれてしまう。錯覚だったのかもしれないと苦笑し、彼は再び歩を進めた。胸の奥に小さな痛みがよぎる。——かつてこの地で出会った少女の笑い声を、ふと幻聴したのかもしれない。幹夫は苦い甘さのような感情を噛みしめながら、旅館への坂道を上っていった。
古い木造の旅館は、湖に面した小高い丘の上にひっそりと建っていた。玄関先には掃き清められた石畳が続き、軒先には春の陽射しに透ける暖簾が静かに揺れている。幹夫が戸を開けると、木の床板がぎしりと音を立てた。その音に応えるように、中から落ち着いた声が聞こえてくる。「いらっしゃいませ」。現れたのは穏やかな笑みを浮かべた女将だった。彼女は幹夫を見ると、一瞬驚いたように目を見開き、しかしすぐに柔らかな笑みに戻った。
「もしかして…幹夫坊ちゃんでいらっしゃいますか?」女将は首をかしげつつ問うた。幹夫は意外に思いながらも頷く。「はい、そうですが…」女将は嬉しそうに目を細めた。「やはり。まあ、なんということでしょう。昔、ご両親とこちらにいらした幹夫坊ちゃんではありませんか。まあまあ、こんなにお大きくなられて…」彼女の言葉に、幹夫の胸にぱっとあたたかなものが灯った。この旅館に来るのは幼い日の一度きりだったはずだが、女将は彼のことを覚えていてくれたのだ。
「お久しぶりです」と幹夫は控えめに微笑んだ。女将は「まあ、よくぞまた来てくださいました」と手を合わせるようにして喜んだ。「さあさ、中へお入りください。長旅でお疲れでしょうに…」促されるまま上がり框で靴を脱ぎ、上がると、懐かしい畳の香りが鼻をくすぐった。幹夫の脳裏に、遠い日の情景がふっと浮かぶ。——まだあどけない少年だった自分が、この廊下を駆けていく。玄関先で見送る女将に手を振りながら、誰かを追いかけて…。
「幹夫様?」女将の声に現在へと引き戻された。幹夫は我に返り、「失礼しました」と小さく頭を下げた。女将はにこやかに笑って、「いえいえ、お懐かしいでしょう。この旅館も大分年季が入ってしまいましたが…どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」と言いながら奥へ案内してくれた。磨き込まれた廊下には光が差し込み、板の間に古い年月の艶を与えている。柱時計がコチコチと時を刻み、館内は静まり返っていた。
二階の一番奥まった部屋に通された。窓を開けると、湖と富士山が一望できる。幹夫は思わず感嘆の息を漏らした。遠く青い湖面に逆さ富士が揺れている。窓辺には小さな卓と座布団が用意されており、その脇には硯箱と便箋が置かれていた。幹夫が文筆業だと知っての心遣いだろうか。女将は「何か必要なものがございましたら何なりとお申し付けください」と部屋を下がろうとした。
「あの…」幹夫は呼び止めた。「はい?」女将が振り返る。幹夫はためらいがちに尋ねた。「もし、この近くに古い桜の木があれば教えていただきたいのですが…。以前こちらに来たとき、湖岸に大きな桜があった記憶がありまして」女将は少し考えてから「ああ、ございますとも。湖岸沿いに少し歩いたところに古い一本桜がありましてね。村の者は『御神木の桜』なんて呼んでおります。幹夫坊ちゃんがおいでになった頃からありますよ」と答えた。「ありがとうございます。一度訪ねてみようと思います」幹夫がお礼を言うと、女将は「ぜひ、きっと綺麗でございますよ」と微笑んで襖を静かに閉めた。
残された幹夫は畳に正座したまま、しばらく窓の外の景色に見入っていた。東京での忙しない日々が嘘のように感じられる静けさである。湖面は午後の日を受けてまぶしく輝き、富士山の稜線がそのまま水の中に描き写されている。幹夫はそっと目を閉じ、深呼吸をした。幼かった自分、そしてあの少女の面影が、まぶたの裏に浮かんでは消える。まだ自分が文学の道に進むことなど想像もしていなかった頃——無邪気で、未来に何の疑いもなかったあの頃。
ふと、一羽の鳥の声がして幹夫は目を開けた。窓辺に小さな山雀がとまり、首をかしげてこちらを見ている。幹夫が動かずにいると、山雀はちょんちょんと木の枝を飛び移り、すぐに青空へと飛び去った。その後ろ姿を見送り、幹夫は微笑む。かすかに感じていた胸の痛みが、鳥の囀りに紛れていったような気がした。
幹夫は卓上の硯箱に目を落とした。久しく筆を執っていない指先がわずかに疼く。しかし今はまだ書けそうにない、と彼は筆に触れず立ち上がった。かわりに上着を取り、散策に出ることにした。旅館に閉じこもっているより、少し歩いて風景に溶け込んでみたかった。部屋を出る際、机上の便箋がそよ風で一枚ひらりと舞い落ちた。幹夫はそれを拾い上げ、そっと元の位置に戻す。まるで何かが「書いてほしい」と囁いているようにも感じられたが、彼は軽く首を振って部屋を後にした。
第二章
湖畔の道を、幹夫はゆっくりと歩いていた。日は西に傾きかけ、柔らかな光が湖面を桃色と黄金色に染め始めている。遠くには薄紫の山並みが霞み、空には一番星がかすかに瞬いていた。昼間は賑やかだった鳥たちも静まり、代わりに草むらから虫の声が聞こえ出す。幹夫は足を止めて、茜色に染まる富士を振り仰いだ。その堂々たる姿は夕暮れ時にも変わらず、しかし山影は次第に紺色に沈んでゆく。
彼が向かっているのは、女将に教えられた湖岸の一本桜だった。ゆるやかな坂道を下り、湖に近づくにつれ、ひんやりした湿り気のある空気が漂ってくる。やがて、湖畔にぽつんと立つ大きな桜の木が視界に入った。幹夫の胸が高鳴る。その古桜は満開の花を湛え、夕暮れの光を受けて幻のように浮かび上がっていた。幹夫はそっとその幹に手を触れる。ごつごつとした樹皮の感触が手のひらに伝わり、はるかな歳月を生きてきた木の息遣いを感じる。
桜の木の下に立つと、湖からの風に乗って花びらがひらひらと舞い降りてきた。幹夫は手を差し出し、そのうちの一片を掌でそっと受け止めた。薄紅の小さな花びら——その冷たい感触に、遠い記憶が鮮やかによみがえる。
...まだ幹夫が少年だった頃、この桜の木の下で出会った少女がいた。幹夫が両親とはぐれて泣きそうになっていたとき、「どうしたの?」と声をかけてくれたのが彼女だった。年は幹夫と同じくらいか、少し下だったかもしれない。白いリボンでまとめた髪と、桜色の着物姿——まるで桜の精がそのまま人の形をとったような愛らしい子だった。彼女は泣き虫の幹夫の手を引いて、「大丈夫、旅館はあっちだよ」と笑った。その笑顔の眩しさに、幼い幹夫の胸はどきりとしたのを覚えている。
二人は夕暮れまで一緒に遊んだ。湖畔の小径を走り、草の上に寝転んで雲の形を指さし合い、そしてこの桜の木にも登ろうとした。高い枝に咲く花を幹夫が取ってあげようと必死によじ登ったものの、途中で怖くなって降りられなくなってしまった。少女は下から「無理しなくていいのよ」と心配そうに声をかけてくれたが、幹夫は意地になってしまい、手に届いた花を一房、ようやく掴んだ。だがその拍子に足を滑らせて落下しかけたところを、偶然下の太い枝に引っかかって難を逃れた。駆け寄った少女に抱きつかれて「良かった…」と震える声で言われた瞬間、幹夫は顔が真っ赤になったのを今でも覚えている。
夕闇が迫る頃、遠くから両親と女将が幹夫を呼ぶ声が聞こえてきた。幹夫は名残惜しかったが、「もう行かなくちゃ」と少女に告げた。少女も寂しげにうなずいた。「今日はありがとう。これ、あげるね」と言って、彼女は幹夫に小さな桜の枝を差し出した。幹夫が木の上で苦労して取った花の一房だった。幹夫はそれを受け取り、喜んでポケットにしまった。「また来年も来る?」と少女が聞いた。幹夫は「うん、来るよ。絶対に」と力強く答えた。彼女はほっとしたように微笑んで、「約束ね」と小指を差し出した。二人は指切りをして、別れたのだった。
しかし——幹夫がその約束を果たすことはなかった。あの旅行以降、家の都合でこの地を再び訪れる機会はなく、歳月は流れた。少女の名前すら聞きそびれていたことに気づいたのは東京へ戻った後だった。桜の枝は押し花にして大切に取っておいたが、それを見るたび胸がきゅっと切なくなった。当時の幼い幹夫には、それが初めて芽生えた恋情であるとは理解できなかった。ただ、なぜだか大切な何かを置き去りにしてきてしまったような喪失感だけが残ったのだ。
・・・幹夫は現実に引き戻された。掌の花びらはいつのまにか手の熱でしおれ、指先に貼りついている。彼はそっとそれを地面に落とした。「すまない…」と心の中で呟く。それが誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりとは分からなかった。約束を守れなかったあの少女にか、それともずっと彼女を想い続けながら忘却の片隅に追いやっていた自分自身にか。
日がとっぷりと暮れ、湖畔には淡い紺青の帳が降りていた。遠く旅館の方角から、か細い明かりが漏れている。幹夫は来た道を引き返そうと足を踏み出した。そのとき——ふいに背後から誰かの気配を感じて振り向いた。しかし薄暗がりの中、桜の木の下には誰の姿もない。ただ、先ほどまで幹夫が佇んでいた場所に、今は白く儚い霧が立ち昇っているだけだった。湖から流れてきた夜霧だろうか。幹夫は軽く首を振り、気のせいだろうと自分に言い聞かせた。微かに胸によぎった期待——もしかしたら彼女が現れるのではという淡い幻想——をそっと振り払うように。
霧の帯が湖面を覆い始め、逆さ富士は次第に輪郭を失っていく。幹夫はポツリと呟いた。「また、会いたいものだな…」。それは夜の静けさに吸い込まれ、自分の耳にも届かぬほど小さな声だった。
旅館へ戻るころには、辺りはすっかり暗くなっていた。玄関先の灯りが幹夫を出迎えた。女将が心配して待っていたのか戸口に立っており、「お帰りなさいませ。夜は冷えますからどうぞ中へ」と声をかけてくれた。幹夫は「ありがとうございます」と頭を下げ、中に入った。ぽかぽかと暖かな灯火と囲炉裏の残り火の香りが、冷えた身体に心地よい。女将は「お夕飯をご用意しておりますよ」と食堂へ案内してくれた。
夕食は質素だが心のこもった内容だった。山菜の炊き込みご飯に、川魚の塩焼き、味噌汁と香の物。それに手作りの葛餅が添えられている。幹夫は静かに箸を取り、ひと口ごとに滋味を味わった。都会の洗練された料理とは異なるが、一つ一つが優しく身体に染み渡るようだった。女将は傍らに控えて、「口に合いますか?」と気遣ってくれる。幹夫は「ええ、とても。懐かしい味がします…」と微笑んだ。女将は嬉しそうに頷き、「それは良うございました」と安堵した様子だった。
ふと、幹夫は尋ねてみた。「女将さん、あの…昔こちらで私と遊んでくれた少女のこと、ご存じありませんか。私と同じくらいの年で…」自分でも唐突だとは思ったが、どうしても気になっていた。女将は意外そうな顔をした後、ゆっくりと思い出すように口を開いた。「まあ…幹夫坊ちゃんと遊んだ女の子…。ああ、ひょっとして、お隣の神社の宮司さんのお嬢さんではなかったでしょうか。確かあの年頃の子がおりましたよ」幹夫の心がはやる。「その方は、今…」女将は申し訳なさそうに首を振った。「いえ、それが…その後お父上の転勤でご一家は東京の方へ引っ越されたと聞きました。もう十年以上も前になりますでしょうか。それきり私も…」
「そう、でしたか…」幹夫はかすかに落胆するのを覚えた。東京へ引っ越した——それならば、同じ都に居ながら、自分は彼女のことを知らずに過ごしてきたのかもしれない。人混みのどこかですれ違っていた可能性すらある。その考えに胸がざわめいた。しかしそれ以上聞くこともできず、幹夫は礼を述べて箸を置いた。
部屋に戻ると、窓の外に冴え冴えと月が昇っていた。湖には薄く霧がかかり、月明かりに照らされたその上を一艘の小舟が滑っていくのが見える。漁でもしているのだろうか、淡い篝火がちらちらと瞬いていた。幹夫は障子を少し開け、冷たい夜気を部屋に入れた。そうして卓上の硯箱を引き寄せる。先ほどまでずっと心の奥底で疼いていたもの——それが今、言葉となってほとばしり出しそうな予感がしていた。
幹夫は筆を手に取り、墨をする。硯に水を落とし、ゆっくりと磨るたびに、心が鎮まっていくようだった。墨の香りがほのかに立ち上り、記憶の底に沈んでいた情景や心情が、ふわりふわりと浮かんでは形を成していく。幹夫は清らかな心持ちで筆先を紙に下ろした。
最初の一文字を書いた途端、すらすらと文が紡がれていく。まるで筆がひとりでに走るかのように、止めどなく言葉が紙面に現れては消えていく。幹夫は時折顔を上げ、窓の外の静寂に耳を澄ませた。虫の音すら聞こえない深夜の湖畔、遠くかすかな水の音だけが世界の輪郭を形作っている。その静寂がかえって幹夫の心には声高に響いた。——おまえは何を書こうとしているのか、何のために書くのか、と。
幹夫の筆は一瞬止まった。何のために書くのか——東京で仕事として原稿を書いていた日々、締め切りと評判に追われ、自分が本当に書きたいものを見失いかけていたことを思い出す。しかし今、紙に記しているのはそうした打算や虚飾の産物ではない。胸の底にずっとしまい込んでいた大切な想い、その結晶のようなものだ。少女との記憶、富士の美しさ、湖畔で感じた静けさと孤独、そして郷愁と喪失——そういったものが渾然となり筆先から滴り落ちていく。
「文学とは、所詮は過ぎ去ったものに手を伸ばす行為なのかもしれない」ふと、幹夫はそう思った。過去の想い、失われた時間、美しい一瞬——それらをどうにか形に留めようとして、人は物語を紡ぐのではないか。自分もまた、あのとき置き去りにしてきた何かを、言葉をもって取り戻そうとしているのかもしれなかった。だが言葉に綴ることで過去が蘇るわけではない。むしろ、二度と戻らないからこそ書かずにはいられないのだろう。
幹夫は筆を置き、肩の力を抜いた。窓の外に目をやると、さきほどの小舟はもう見えず、霧がますます濃く湖一面を覆っている。富士の姿も月の光も、その白い帳の向こうに隠れていた。彼は軽く瞬きをする。暗闇の中に浮かぶ白紙が、月明かりを反射してぼんやりと光っていた。書きかけの原稿用紙には、幹夫自身にもまだ終わりの見えない物語が綴られている。だが不思議と不安はなかった。物語はきっと、どこかに辿り着くのだろう——そんな予感が静かに胸に満ちていた。
第三章
朝まだき、幹夫はふと目を覚ました。鳥のさえずりが近くで聞こえ、障子の向こうが白み始めている。どうやら机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。顔を上げると、昨夜書いた原稿が几帳面に積まれていた。その上に一枚の布が掛けられている。いつの間にか女将が気を利かせて夜半に様子を見に来てくれたのだろうか。幹夫はありがたく思い、そっと布を取り除いた。墨の乾いた原稿用紙には、乱れた筆致でびっしりと物語が綴られている。その文字たちが朝の光の中でどこか眩しく見えた。
幹夫はゆっくりと立ち上がり、障子を開け放った。ひんやりと清冽な朝の空気が流れ込む。東の空は紅に染まり、夜明けのグラデーションが湖面にも映り込んでいた。今朝は霧も晴れて、富士山がくっきりと姿を現している。湖は鏡のように穏やかで、逆さ富士もまた朝焼けに赤く染まっていた。
宿の庭先では、掃除をする若い仲居がほうきを動かす音がする。幹夫は縁側に腰を下ろし、しばし茫然と朝焼けの風景に見入った。空気が肌を刺すように冷たいが、その冷たささえ心地よかった。遠くで「カァ」と烏の一声が響き、朝の静寂をかすかに震わせる。
幹夫の胸に、ある種の満足感が静かに広がっていた。長らく塞がっていた心の底に、一筋の光が差し込んだような感覚——昨夜筆を走らせたことで、何かが自分の中で確かに変わったように思えた。物語はまだ完結していない。しかし、それでいいのだと彼は思った。人生そのものが未完の物語であり、自分はその一節を書いただけに過ぎないのだから。
朝食の席で女将と言葉を交わしたとき、彼女が「表情が柔らかくなられましたね」と微笑んだ。幹夫は少し照れくさくなり、「昨夜はお世話をおかけしました」とお礼を言った。女将は首を横に振り、「いいえ、墨をする音がしておりましたから、きっと何かお書きになっているのだと…。どうぞお気になさらず」と優しく答えた。幹夫は湯気の立つ味噌汁を啜りながら、温かな気持ちで満たされている自分に気づいた。
朝食後、幹夫は宿帳のページを繰った。数日の逗留予定だったが、東京から離れ、もう少しこの地に留まりたい気持ちが湧いていた。女将に頼んで滞在を延長してもらおうか——そう考えつつ帳場を見ると、女将は心得たように微笑んで「お部屋はいつまででも空いておりますから」と言った。幹夫も笑みを返し、「では、もう少しお世話になります」と頭を下げた。
その日は町を散策して過ごした。湖畔から少し歩くと、小さな商店や郵便局、そして一軒の書店があった。木造の古本屋で、店先には文庫本や雑誌が並んでいる。幹夫がふらりと入ると、中には若い店主がいた。二十歳そこそこの青年で、幹夫に気づくと元気よく挨拶した。「いらっしゃいませ!」本棚には所狭しと本が詰まっている。東京で見慣れた新刊書からこの地方の郷土史まで様々だ。
幹夫が棚を眺めていると、店主の青年が話しかけてきた。「ご旅行の方ですか? 何かお探しでしょうか。」幹夫は背表紙を指でなぞりながら答えた。「ええ、少し読み物をと思いまして。できればこの土地にまつわるものか、静かに考えられるような詩集などあれば…」青年は目を輝かせ、「それでしたらこちらに」と店の奥から一冊の詩集を持ってきた。「この詩集は当地の風景を歌ったものなんですよ。大正のはじめ頃に作られたものですが…」幹夫は受け取ってページをめくった。素朴だが美しい抒情詩が並んでおり、富士や湖、桜に取材した詩もある。知らない詩人の名前だったが、言葉に込められた静かな情熱が伝わってきた。
「良い本ですね」と幹夫が感想を漏らすと、青年は嬉しそうに頷いた。「ええ、僕のお気に入りなんです。静かな情景の中に強い想いが感じられて…。こういう詩を書く人がいたんだと思うと、自分も頑張らなくちゃって思います」幹夫は青年の言葉に心を打たれた。「あなたも詩を書かれるのですか?」と尋ねると、青年は顔を赤らめて「い、いえ、僕なんかまだ」と謙遜したが、その瞳には明らかに情熱の光が宿っていた。
「書くことはお好きなんですね」と幹夫が微笑むと、青年ははにかみながらも力強く頷いた。「はい。いつか自分の詩集を出すのが夢で…でも、この町じゃ変わった奴だって笑われますけど」幹夫は首を振った。「笑う人もいるでしょうが、分かってくれる人もきっといますよ。大切なのは書きたいという気持ちでしょう。」自分自身に言い聞かせるように幹夫はそう言った。青年は目を丸くした。「お客様、もしかして作家の方ですか?」幹夫は少し迷ったが、嘘をつく必要もないので静かに告げた。「一応、東京で文章を書く仕事をしています。」
「やはり!」青年はぱっと顔を輝かせた。「実は、もしかしてと思ってたんです。先日雑誌で見たお名前に似ていたものですから…」幹夫は少し驚いた。自分の書いたものを読んでくれている人がこんな所にいるとは思わなかったからだ。「お恥ずかしい限りですが…」と頭を下げると、青年はぶんぶんと首を振った。「とんでもない! 東京で活躍されている方にお会いできるなんて…僕、感激です!」そして憧れの眼差しで幹夫を見つめ、「もし差し支えなければ、少しお話を伺えませんか?」と恐る恐る尋ねてきた。
店内に他の客はいなかった。幹夫は微笑んで「ええ、もちろん」と答えた。青年は恐縮しつつも嬉しそうに、自分も文筆の道を志したいこと、けれど家業もあり悩んでいることなどをぽつりぽつりと打ち明けた。幹夫は静かに耳を傾け、ときおり自分の経験を交えながら言葉少なに助言をした。東京での暮らしが全てではないこと、地方であっても書き続ける道はあること、そして何より、心に浮かぶ思いを大切にするべきこと——そんなことを話しただろうか。
気づけばかなりの時間が経っていた。青年は「長話をしてしまいすみません!」と恐縮したが、表情は晴れやかだった。「いえ、私も大切なことを思い出させてもらいました」と幹夫は心から礼を言った。青年は不思議そうに首を傾げたが、「ありがとうございます。頑張ってみます」と力強く微笑んだ。
幹夫は詩集を一冊と、蔵書票の美しいノートを購入した。それは表紙に小さな富士山と桜の模様があしらわれた上品な和綴じのノートだった。宿に戻りがてら幹夫はそのノートを抱え、ふと胸の内が温かくなるのを感じていた。若い頃の自分も、あの青年のように純粋な情熱を持って文学を志していたはずだ。それを忘れかけていたが、再び思い出すことができた。
旅館に戻る途中、幹夫は小さな神社の前を通りかかった。この町の鎮守の社だろうか。ふと足を止める。境内の片隅に、石造りの祠と、その傍らに一本の桜の幼木が植えられているのが目に留まった。薄紅の花はつけていない。まだ若木なのかもしれない。幹夫は近づいてみた。祠には小さな木の札が立てかけてあり、「水神様」と書かれていた。その文字はかすれて消えかけている。その下に、「昭和○年○月○日 ○○ (少女の名前) 之霊」と読める文字が刻まれていた。
幹夫の胸が強く揺さぶられた。かつて女将が言っていた神社の宮司の娘…もしや彼女のことなのだろうか。札に刻まれた名前——それは記憶の中で名を聞かずにいた少女の名と重なるような気がして、幹夫の心臓は早鐘のように打った。昭和○年とあるから、幹夫が旅館を訪れた数年後、彼女は…幹夫は目を瞑った。静かな境内に、鳥居越しの空から桜の花びらが一枚、ひらりと舞い降りてきた。
長い間忘れていたつもりでも、ずっと自分の中で生きていた面影。それが今、確かな形で哀しい現実とともに胸に迫っていた。幹夫はそっと手を合わせ、小さく祈った。言葉は出てこなかった。ただ、心の中で謝罪と感謝を繰り返した。彼女と過ごしたあの短い時間が、自分にどれほどの影響を与えたか。そして自分が約束を果たせなかったことを、どうか許してほしいと。
顔を上げると、頬に涙が一筋流れていた。幹夫は手の甲でそれを拭い、静かに神社を後にした。悲しみと安堵が奇妙に入り混じった気持ちだった。あの少女はもうこの世にはいない——それは胸を裂くように辛い事実だったが、同時に彼の中で迷子になっていた想いが行き場を得たようにも感じられた。彼女の記憶を、これからは自分が生きることで伝えていけばいい。書くことで、その面影を物語に刻めばいい。幹夫は空を仰いだ。青空の高み、富士山のいただきが光を浴びて白く輝いている。まるで彼女の微笑みが天上から降り注いでいるかのように——幹夫にはそう思えた。
最終章
幹夫が旅館を発つ朝が来た。滞在は当初の予定を超えてしばらく延びたが、東京での仕事もあるため帰らねばならない。トランクには彼がこの地で書き上げた原稿と、書店で買ったノート、詩集が収まっていた。女将は玄関先で名残惜しそうに見送ってくれる。「お元気で。そしてまたいつでもお戻りくださいまし」幹夫は深くお辞儀をして、「本当にお世話になりました」と感謝の言葉を述べた。女将は「いえいえ、幹夫坊ちゃんが来てくださって本当に嬉しゅうございました。またお会いできる日を楽しみにしております」と目を細めた。
汽車の時間まで少し余裕があった。幹夫は最後に一人で湖畔を歩くことにした。朝の光が水面に跳ね返り、きらきらと無数の銀の鱗のように輝いている。富士山は相変わらず堂々とした姿で空に座し、逆さ富士もまた揺らぐことなく湖に佇んでいた。桜の花は既に大半が散ってしまったが、新緑の葉が初々しく枝を彩っている。季節は移ろい、すべてが少しずつ姿を変えていく。それでも富士の山並みと湖の静けさは何も変わらないように思えた。
幹夫は湖岸の石に腰を下ろし、しばらく鷹揚に風景を眺めた。小さな波がさざ波となって寄せては返し、そのたびに逆さ富士がゆらゆらと形を歪める。遠くで漁師の舟が一艘、ゆっくりと岸辺に向かっているのが見えた。朝餉を終えて戻るところなのだろう。聞こえてくるのは水音と風の音、そして時折鳥の鳴く声だけだった。
東京での喧噪が嘘のようだった。人混みや車の音に囲まれていた日々——あの中では自分の心の声さえ掻き消されていた気がする。しかしこの湖畔で過ごした静かな時間の中で、幹夫はようやく自分自身の声を聴くことができたように思う。それは懐かしい記憶の声であり、これから進むべき未来の声でもあった。幹夫はそっと目を閉じ、胸いっぱいに清冽な空気を吸い込んだ。
「ああ、生きてゆける」——言葉にならない想いが、心の底でそっと囁いたような気がした。悲しみも後悔もすべて引き受けて、それでも自分は生きてゆく。そして書き続けるだろう。郷愁を湛えた物語を、喪失の彼方にある光を求めて。
幹夫は立ち上がり、湖へと歩み寄った。足元に波が静かに打ち寄せ、靴の先を濡らす。しゃがんで水面を覗き込むと、自分の顔が逆さ富士と並んで映っていた。歳月を経て少しやつれた自分の顔。その隣に巨大な富士の姿。逆さ富士は風に揺れてゆらめき、やがて一瞬、凪いだように静止した。その鏡の中で、幹夫の顔と富士が一つに溶けあうように重なった。幹夫は思わず息を呑んだ。富士はどこか父親のようでもあり、また永遠の友のようでもあった。自分は今、この大いなる自然に抱かれ、過去も未来も越えて存在している——そんな不思議な安心感があった。
遠く汽笛の音がした。発車の時刻が近づいているのだろう。幹夫は静かに立ち上がった。湖面に向かい、最後に一礼する。「ありがとうございました」と心の中で告げる。それはこの土地と人々、そして亡き少女の思い出に対する感謝の言葉だった。
幹夫はゆっくりと駅への道を歩き出した。振り返れば、富士山が見守るようにそびえている。湖畔の静けさはこれからも変わることなく続いていくだろう。心に沁み入るような静寂と、美しい風景。そして数々の想い——それらを後にして、幹夫は再び自分の人生へと旅立っていく。
湖岸には、ただ波の音だけが優しく響いていた。幹夫が立ち去った後も、富士の頂は雲一つない空に白く輝き、その姿は静かな湖の水面に寄り添っている。桜散る湖畔の町に、新しい朝の光が満ちていた。幹夫は一度足を止め、振り返ることなく前を見据えた。胸の内には静かな充実感とともに、言い知れぬ寂しさが同居している。それでも彼は微笑み、そっと呟いた。「さようなら…そして、ありがとう。」
それは風に乗って消え、何事もなかったかのように静寂が戻った。湖畔の静けさの中で、幹夫はしばし立ち尽くす。そして再び歩き始めると、やがてその姿は朝の光の中に溶けていった。
(了)





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