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遠い船影




清水港のターミナルで働いていると、いつも潮の匂いに包まれる。その香りは日によって濃淡があり、ときには夏に蒸し上がるような湿気を伴い、別の日には冬の乾いた風に乗って鼻腔をくすぐる。夏実は28歳、この港で事務の仕事をしている。どこにでもあるようなオフィス業務で、貨物船のスケジュール管理や書類の整理をするのが日常だ。

 そんな日々はたいてい同じリズムを持ち、彼女はその無難な安心感を受け入れていた。けれど、朝8時に出勤し、17時に退勤する――そんなきっちりした生活の背後では、心のどこかに「ここで終わるの?」という声が小さく聞こえる気がしていた。本人ですら、あまり意識していなかったけれど。

 ある日、港に停泊中の一隻の船に関する妙な噂を耳にする。上司が書類を運んできたとき、雑談めいた調子で言うのだ。「あの青い船、知ってるか? 乗ったら二度と戻ってこられないって話だ」 夏実は軽く笑い飛ばす。「何それ、ホラーみたいですね」と。だが、その話が頭から離れなかった。「乗ったら戻ってこられない船」とはどういう意味なのか。海外に出て、ずっと帰ってこないということ? それとも、もっと別の何か?

 翌日、いつものようにターミナルの窓口で来訪者の対応をしていると、見慣れない男が現れた。長身に紺色のコートを纏い、視線がやけに真っ直ぐだ。挨拶もそこそこに、彼は言う。 「あの青い船の入港証明が欲しいんですが、手続きについて教えてもらえますか?」 声には妙なこなれ方があり、どこかで聞き覚えがあるようで、ないような――。書類を見せてもらうと、正式な会社名や国籍が書かれていない。何だか不可解だ。 そのとき、夏実はふと思う。「ひょっとして、この人は例の“乗ったら戻れない船”の関係者かも」。とっさにその噂は言わなかったが、男は静かに微笑んでいた。まるで、何かを悟っているかのように。

 日が沈みかける頃、夏実はふとしたきっかけでターミナルを出るとき、彼が港のほうへ歩いていく姿を見つけて後を追った。すると、埠頭の片隅で、男は船を見上げて立ち尽くしている。船体は青い塗装が施されており、暗くなるにつれ深い海の色と溶け合うように見えた。 男は夏実の足音に気づき、肩越しに振り向く。「船に興味が?」と問われ、夏実はどう答えていいか分からなかったが、思い切って「この船、乗ったら戻ってこられないって噂があるんです」とぶっきらぼうに言ってしまう。 男は小さく笑うだけで、否定も肯定もしなかった。そして、**「君はどう思う?」**と問い返す。 夏実は困惑する。「どう思う、って? ただの与太話か、あるいは何かの比喩かも……」と言葉を濁す。

 数日後、男がターミナルのカウンターに再び現れた。名前は守屋と名乗った(ただしそれが本名なのか確信が持てなかった)。守屋は夏実にこう言う。「もしよかったら、一度この船に乗ってみないか?」と。 夏実は思わず笑う。「わたしが? ここで働いてる普通の人間ですよ。船とは関係ないし、旅する余裕なんてないですし……」 守屋は片眉を上げて、「そんなこと言って、本当はこの港が嫌いなんじゃない? ずっと停滞してるように感じてるんじゃないの?」 その言葉は妙に的を射ていて、夏実の胸に深く刺さる。**「自分は何をやっているんだろう」**という停滞感はずっとあったのだ。

 それから夏実は、毎日ように青い船を眺めるクセがついた。午前中の書類作業や昼休みにも、遠目に船を見やり、守屋の姿を探すが、彼がいつ船に乗り込んでいるのか分からない。 ある夜、夏実は衝動的に埠頭を散歩しに出かける。ランプが照らす波止場、潮の匂いが強く漂い、遠くに貨物クレーンの暗いシルエットが浮かぶ。その先に、青い船がぼんやりと灯りを落として停泊している。 近づくと、守屋が甲板で一人シガレットを吸っていた。彼は夏実を見て少し微笑む。「よく来たね。もし本当に乗りたいと思うなら、船はもうすぐ出るんだ」 夏実は「乗ったらどうなるの?」と低い声で訊く。 守屋は煙を吐きつつ、「ここではない、どこかへ向かう。戻るか戻れないかは、正直分からないよ。でも、人生を変えたいなら、こういう船に乗るのは悪くないと思うよ」と言う。

 夏実は港の風が吹き付けるなかで、心の底がざわめくのを感じる。乗るのか、乗らないのか。それは確かに人生を左右する分岐点のようだ。けれど、船に乗るということが一体どんな結果をもたらすのか、まったく予想がつかない。 彼女は立ち止まり、黙って海面を見つめる。波の揺れに、港の明かりが歪んだ光跡を作っている。遠くに見える清水の街並みが、まるで子供の頃から変わらない風景に思えた。**「この港でわたしは何を求めていたんだろう?」**という問いが頭をめぐる。

 そのまま数分が過ぎる。夜風が少し強まる。守屋は何も言わないまま、ポケットから取り出した切符のような紙を差し出した。 「本当に乗りたいなら、これを使っていい。もし来なければ、それでもいい。君の人生だよ」 夏実はその紙切れを受け取り、まるで解読不明なスタンプが押された文字列を見つめる。まるで抽象画のように、何を書いているのか分からない。 「どうするんだら?」と彼女は心のなかで自問するが、答えは出ない。守屋は薄く笑って船内へ消えていく。

 翌朝、青い船は出航していた。桟橋にはその影もなく、港湾事務所で聞いても何も把握していないという。まるで最初から存在しなかったかのように。 夏実は手元の紙を取り出す。そこには異国語の文字がうっすら印刷され、その上に“SHIMIZU”とだけ読めるスタンプの跡がある。ぼんやりとそれを眺めながら「ふーん、この船は行ってしまったのか」と思う。 しかし、それが終わりなのだろうか。彼女が静岡弁まじりの小さな呟きで、「なんだかやれんねぇ」とため息をついた瞬間、風が軽く吹いて、港の匂いが入ってくる。彼女は微笑んで思う――「もしもう一度この船が来たら、そのときはどうしよう?」と。 あるいは、もう二度とその船は来ないのかもしれない。それでも夏実の胸には微かな火が灯っている。“遠い船影”のことが、いつまでも頭から離れない。彼女は再び日常に戻り、貨物書類を整理しながらも、あの夜の香りと、奇妙な切符の感触を忘れられないでいる。

 清水港の朝は忙しい。クレーンが動き、作業員が声を掛け合い、船が汽笛を響かせる。夏実はその雑踏の中に身を置きながらも、いつか自分が別の場所へ旅立つ可能性をほんの少し信じている。 それがいつ来るか分からないけれど、確かに彼女の人生にはかすかな“分岐点”が用意されているように感じられるのだ。**「あの船を見送ったけれど、人生は終わっちゃいない。あの男が言うように、人生には何度でも選択があるんだら」**と、心の中で自分を励ます。 そう、遠い船影は消えてしまったが、彼女はまだ30には遠くない。新しい船が来るのを待ってもいいし、自分からどこかへ足を運んでもいい――そんな期待が、港の風と共に柔らかく胸に広がるのだ。

 
 
 

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