top of page

Bucharest


坂道の入り口に立った瞬間、ブカレスト中心部の冬が、私の頬を薄い紙やすりみたいに撫でた。空気は乾いていて、息を吸うと胸の奥がきゅっと縮む。遠くでトラムの金属音が高く鳴り、車の走行音が低い帯のように街を敷いているのに、ここへ一歩入った途端、音が少しだけ遠のく。石段が続く。踏みしめるたび、靴底が硬い感触を返してくる。雪はもうほとんど残っていないが、日陰の縁にだけ薄い氷がしぶとく張りつき、白い筋を引いている。私は転ばないように歩幅を小さくしながら、それでもなぜか急いでしまう。寒さは人を早足にするのに、同時に心の中だけをゆっくりにする。

丘の上に出たとき、視界がぱっと開けた。冬の青空は、飾り気のない青で、雲は薄い綿のように遠い。そこで、白い塔が三本、等間隔に立っているのが見えた。三つの塔は、どれも同じように背が高く、象牙色の壁が朝の光を受けてやわらかく膨らんで見える。縦に細い窓――いや、窓というより穴の列が、規則正しく穿たれていて、その穴の影が塔の曲面に点々と落ち、冷たいのに不思議と温かい模様に見えた。上部の縁には、刺繍のレースみたいな幾何学の彫りが巡り、屋根は青灰色の金属で、冬の光を鈍く返している。そして塔の頂には十字架がある。十字架はただ立っているだけではなく、細い金属の線で引かれ、張られて、風と拮抗しながら空中に保たれている。小さな球が点々と付いていて、凍った星座みたいだ。私は首を痛めそうなくらい見上げた。見上げるほど、寒さが頬の内側に入り込み、目の奥が少しだけ潤む。それが冷気のせいなのか、感情のせいなのか分からない。

塔の下の壁面には、金色のモザイクが帯のように並んでいた。アーチ形の枠の中に、聖人たちが一人ずつ座り、あるいは書物を抱え、指先を静かに上げている。金箔の背景は、太陽の角度で微妙に色を変え、派手なのに品がある。金はただ明るいだけではなく、冬の光を受けると少し青みを帯びて、むしろ静けさに寄り添う色になる。私はその列を、端から端まで目で辿った。顔の表情は、怒りでも笑いでもない。淡いが確かなまなざしが、私の視線を受け止めて、通り過ぎることを許してくれるように見えた。観光のつもりでここに来たはずなのに、急に、自分が何かの前で試されている気がして、息が浅くなる。私は信心深い人間ではない。けれど、こういう場所に立つと、信じることより先に「信じてきた時間」の厚みを感じてしまう。時間の厚みの前では、私の悩みも、旅の予定も、紙切れみたいに薄い。

境内は思ったより静かで、人の足音が石に吸い込まれていく。黒いコートの老女が、胸の前で指を小さく動かしながら祈っていた。若い男が、スマートフォンをポケットにしまい、帽子を取って頭を下げた。誰も私を見ない。なのに私は、ここでは自分の輪郭が少しはっきりするのを感じる。街の中心にいるのに、ひとりでいることが、恥ずかしくない。むしろ、ひとりだからこそ、音も匂いも細部まで染みてくる。

扉を押して中に入ると、空気が変わった。外の乾いた冷気が消え、少し湿った温かさが肌に触れる。蝋の匂いが鼻の奥にまとわりつき、どこかで香が焚かれているのが分かる。薄暗い空間に、金色の装飾が浮かび上がり、壁には幾層もの絵が重なる。私は無意識に声を落とし、歩く速度をさらに遅くした。誰かが小さく歌うように祈りの言葉を口にしていて、その声は天井のどこかで柔らかく反射し、私の胸の中へ落ちてくる。言葉は理解できないのに、声の抑揚だけで、ここが「願いの集積地」だと分かる。願いはいつだって、言語を越える。

私は蝋燭売り場の前で立ち止まり、細い蝋燭を一本買った。指先で持つと、体温がすぐ奪われるほど冷たい。火をもらって灯すと、炎が頼りなく揺れ、私の呼吸に合わせて震えた。自分が息をするだけで揺れる炎を見ると、私は急に、普段どれほど無造作に生きているかを思い知らされる。蝋燭を立てる場所に近づき、私は何を願うべきか分からなくなった。健康、無事、幸福。どれも言葉としては簡単で、だからこそ嘘っぽく聞こえる。しばらく迷って、私は、願いではなく「ありがとう」を置くことにした。理由はない。旅をしている今の私が、ここまで来られたこと、寒さの中で誰にも急かされず立っていられること、それだけで十分だと思った。火が安定すると、胸の奥のざわざわが少し静まった。私の中にある小さな焦り――見逃したくない、時間が足りない、もっと効率よく回らなければ――そんな薄い焦げつきが、香の煙の中で薄まっていく。

外へ出ると、冬の風がまた頬を叩いた。けれど、さっきまでの寒さと違う。寒さは同じなのに、身体の内側に小さな火種が残っている感じがする。私は塔をもう一度見上げ、今度は少しだけ笑った。見上げる行為は、祈りに似ている。信じていなくても、見上げるだけで心が整う瞬間がある。

丘を下り、再び街の中心へ戻る。車の音、話し声、信号の電子音、コーヒーの匂い。ブカレストは現代の顔を取り戻し、私は観光客の歩幅に戻る。旧市街の石畳を踏むと、靴の裏が小さく跳ねて、身体が軽くなる。路地のカフェからは湯気が漏れ、窓ガラスが白く曇っている。その曇りの向こうで誰かが笑っていて、私はその笑いに、知らないのに救われた気がした。旅先での孤独は、寂しさではなく、受け取るための余白だ。今日、丘の上で感じた静けさも、塔の白さも、モザイクの金の揺らぎも、その余白にするりと収まっていく。

夕方、空が濃い青に深まるころ、私はもう一度振り返った。街の中心にあるはずのその場所は、遠目には静かな影に見える。けれど私は知っている。近づけば、白い塔は空に向かって確かに立ち、十字架は風に張り、金のモザイクは光を受けて息をする。私の中にも、今日の寒さと匂いと沈黙が、ひとつの「中心」として残るだろう。ブカレストの中心を歩いたのは、地図の上の中心ではなく、私の気持ちの中心に触れるためだったのかもしれない。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page