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『あの日、答えは必要なかった』


あの日、幹夫は胸ポケットに小さな紙を入れていた。折り目が何本もついたメモ帳の切れ端で、鉛筆の芯が紙をこすった跡だけがやけに濃い。

「どうして」そこまで書いて、止めた痕。

続きを書けば、文字は簡単に並ぶはずだった。どうして出ていったのか。どうして何も言わなかったのか。どうして、いまになって連絡をしてくるのか。どうして、どうして。けれど幹夫の指は、鉛筆を持つといつも同じところで止まる。紙の上に言葉は落ちない。落ちないまま、紙だけが軽く、胸だけが重くなる。

その朝、牧之原の茶畑は、雨上がりの匂いを抱えていた。葉の表面にはまだ水が残り、陽が当たるたびに小さな粒が光っては消える。風は涼しいのに、土の中には昨日の熱が潜んでいる。長靴の底が畝の間の湿りを踏むたび、空気が少しだけ動いた。

父は畑の端で、摘採機の部品を黙って確かめていた。ネジを一つ触って、手を引っ込める。その動きに無駄がない。無駄がない動きは、いま何を考えているのかを隠してしまう。父の背中はいつもそうだった。

「……行くぞ」

父がそう言った。行く、という言葉には説明がついていない。どこへ、何をしに、誰に会いに。でも今日は、幹夫にも分かっていた。港の堤防。潮の匂い。コンクリートの影。午後の光が斜めになる場所。

幹夫は「うん」と返した。返事は軽く出る。軽く出る返事の中身がいつも空っぽに思えて、幹夫は時々、返事をするたびに自分が少し薄くなる気がする。薄いまま、外へ出たら風にほどけてしまいそうで、無意識に拳を握る。

家へ戻ると祖母が湯を沸かしていた。やかんが小さく鳴き、湯気が台所の天井へ上がっていく。湯飲みの底が畳に触れる音が、いつもと同じ順番で鳴った。順番が決まっている音は、身体の芯を少しだけ落ち着かせる。

「幹夫、茶ぁ飲んでけ」

祖母が言う。名前が混ざった声は、いつも生活の匂いがする。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただそこに置かれる声。置かれる声は、拾う側を急かさない。

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。指先に温度が移る。温度は言葉にならないのに、確かに「いま」を作る。ひと口。苦味が先に立ち、遅れて甘みが残る。遅れて来るものがある、という事実だけが、その朝は少しだけ助けになった。

リュックの中には、川根で買った茶の袋が入っている。紙のざらつきが指先に残る袋。まだ開けていないのに、香りの予感だけがある袋。幹夫は湯飲みを置き、リュックのチャックを閉める手つきだけを丁寧にした。

胸ポケットの紙は、そこにある。薄いシャツ越しに、紙の角がわずかに当たる。当たるだけで、文字にならない問いが押し返してくる。

軽トラの荷台が小さく跳ねるたび、道路の継ぎ目が身体に伝わった。父は運転しながら、ラジオの音量を少し下げた。指先の動きが慎重で、余計な音を立てない。ラジオの声が遠くなって、エンジンの一定の音だけが残る。一定の音は、頭の中の余計な言葉を薄くする。薄くなれば、胸のポケットの紙も軽くなる……はずなのに、紙の存在感だけは薄くならない。

安倍川を渡るとき、河原の白い石が眩しかった。昼の白は目に刺さる。けれど午後の白には、少しだけ影が混ざり始める。白い石の隙間に、青い影が溜まっていく。青い影は黒よりやさしく見えるから厄介だった。やさしいのに、確かに冷たい。

父がほんの少し速度を落とした。ウインカーも出さず、ただ一拍。その一拍が「ここを覚えている」という感じに見えて、幹夫は窓の外から目を離せなかった。

港に近づくと、潮の匂いが先に来た。海が見える前に、塩と濡れたコンクリートと魚の影の匂いが肺の外側を撫でる。茶畑の匂いは内側へ沈むのに、潮の匂いは外側に薄い膜を作る。膜ができると、息が少し浅くなる。

父は堤防の手前に車を停めた。コンクリートは乾いていて、ところどころ白い塩が吹いている。風は思ったより強く、フェンスがかすかに鳴った。金属の鳴り方は、いつも少し怒っているように聞こえる。怒っているわけじゃない。ただ風に反応しているだけなのに。

堤防の影に、母がいた。手提げ袋を両手で抱え、髪の細い毛を耳の後ろへ戻す。戻すたび、指先が躊躇っているのが分かる。丁寧すぎる仕草は、間違えたくない人の動きだ。

幹夫が近づくと、母は顔を上げた。目が合う。その瞬間、胸の奥が一度だけ縮んだ。縮んだのに、足は止まらなかった。止まらなかったことが不思議で、幹夫は自分の靴先だけを見た。

「……幹夫」

母が名前を呼んだ。声は小さい。でも潮風に沈まないように、喉の奥で支えているのが分かる声だった。幹夫は返事をしなかった。しなかったのではなく、返事の形を探しているうちに、風が間に入り込んでしまった。

父は母を見て、それから海へ視線を落とした。“見る”と“落とす”の間にある一瞬のためらいが、いちばん言葉に近い。父の言葉はいつも、そのためらいのところにある。

幹夫はリュックから茶の袋を取り出した。紙のざらつき。角の硬さ。袋の中で眠っている香り。それを母へ差し出す指先が、一度だけ震えた。震えは隠せない。隠さないで差し出した。

母は一瞬、受け取る手を止めた。止めて、それから両手で受け取った。紙が小さく鳴る。堤防の上で、その音はやけに大きい。

「……ありがとう」

母は袋を胸の前で抱えた。抱え方が、落としたくないものを持つ人の抱え方だった。

幹夫の胸ポケットに入っている紙が、急に熱を持ったみたいに感じた。「どうして」の続きが、いまなら言えるかもしれない。言えたら、答えが返ってくるかもしれない。答えが返ってきたら、次は何をすればいいのか。

考えた瞬間、潮風が強く吹いて、母の髪が頬にかかった。母がそれを直す。直す指が少しだけ震えている。震えを見たとき、幹夫の胸の奥の紙が、少し湿った気がした。

母が言った。

「……少し、歩ける?」

質問は短い。短い質問ほど、断れない。断れないからではなく、短い質問の中に「一緒にいる」を詰め込んでいるのが分かるからだ。

幹夫は頷いた。頷き方が、自分でも驚くほど自然だった。自然な頷きは、過去を消さない。でも、いまの一歩を作ってしまう。

三人で堤防沿いを歩いた。靴底がコンクリートを叩く音が、順番に重なる。揃わないリズムが、かえって「いま」を確かにする。遠くで船の低い汽笛。カモメの声。どこかの作業員の呼び声。声はたくさんあるのに、誰も説明しない。説明しないまま、音だけが行き来する。

母がふと立ち止まった。海面に、光の道が一本伸びている。遠くまで続いているのに触れられない。触れられない道を見つめる横顔が、少しだけ硬い。

父が、小さく言った。

「……遠いな」

何が、とは言わない。海か、時間か、取り戻せない何かか。言わない言葉は、聞く側の中で勝手に形を増やす。幹夫の胸ポケットの紙も、同じように膨らもうとしていた。

幹夫は紙に触れた。胸ポケットの上から、指でそっと押さえるだけ。紙の角が指に当たる。「どうして」の続きが、喉の奥まで来かけて――来る前に、風の中の靴音がそれをほどいた。

母が、袋を持ち替えようとして手提げ袋を少し持ち上げた。持ち手が指に食い込み、力が入る。その小さな負担が見えたとき、幹夫は一歩だけ前へ出た。

母の手提げ袋の持ち手に、自分の指先をそっと添えた。奪わない。支えきらない。ただ、触れていることが伝わるくらいの重さで。

母は何も言わなかった。言わない代わりに、袋を握る指の力がほんの少し緩んだ。緩んだことが返事みたいだった。

その瞬間、胸ポケットの紙の存在感が薄くなった。紙が軽くなったのではなく、紙が必要としていた場所が、別のところにできた感じだった。答えを聞く場所ではなく、ただ並んで歩く場所。

遠くで、また誰かが誰かを呼んだ。名前かどうかは聞き取れない。けれど“呼ぶ”という高さだけが分かる。幹夫はその音を、胸の奥で受け取った。言葉にならないまま。

帰りの軽トラの中、夕焼けがゆっくり滲んだ。オレンジと薄い紫の境目がほどけていく。ほどける境目は説明しない。ただ移ろいながら、次の色を連れてくる。

父は運転席から短く言った。

「……疲れたか」

幹夫は首を振った。疲れていないわけじゃない。けれど、この疲れは、何も起きない日で溜まる疲れとは違う。抱える疲れだ。抱えたままでも走れる疲れ。

家に着くと、祖母の湯の音が先に聞こえた。戸の隙間から湯気の匂いが漏れて、潮の匂いを少しだけ押し返す。玄関で靴を脱いでいると、祖母が台所から言った。

「幹夫。茶ぁ冷めんうちに飲め」

呼ばれる。名前が混ざった声は、届こうとしていないのに、心に落ちる。落ちたことだけが分かる。湯飲みを両手で包むときの温度みたいに。

幹夫は部屋に戻って、シャツの胸ポケットから例の紙を取り出した。指先が湿っていたのか、紙の角が少し柔らかくなっている。折り目のところに汗が滲んで、鉛筆の線が薄く擦れていた。

「どうして」

その文字が、少しだけ読みにくくなっている。読みにくいのに、幹夫は指でなぞらなかった。なぞれば、線はもっと崩れる。崩れたら、問いが消えてしまう。消えるのが怖い――はずなのに、今日はその怖さが、前ほど鋭くない。

幹夫は紙を折り直して、机の引き出しの奥ではなく、机の上に置いた。見える場所に。置いたままでもいい気がした。置いたまま、答えを待たなくてもいい気がした。

窓の外で、蝉が一匹だけ鳴いて、途中で途切れた。途切れたあとに、別の虫の小さな声が続く。季節が黙って入れ替わっていく音。

幹夫は、湯飲みの縁に口をつけた。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがある、というだけで、今日は十分だった。

あの日、答えは必要なかった。必要だったのは、紙の続きではなく、袋の持ち手に添えた指先の重さと、名前を呼ぶ声が沈まなかったという事実――そういうものだけが、あとからゆっくり腑に落ちてくる。

 
 
 

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