『夏服が似合わなくなる日』
- 山崎行政書士事務所
- 1月22日
- 読了時間: 7分

夏服が似合わなくなる日は、だいたい天気のせいじゃない。暑さはまだ残っているし、空だって青い。蝉も、鳴こうと思えば鳴ける。――それなのに、鏡の前に立った自分だけが、もう夏の輪郭から少しはみ出している。
幹夫(みきお)は朝、襟の薄い白いシャツを指でつまみ、しばらく動けずにいた。洗い立ての布の匂い。糊の乾いた匂い。夏の制服の匂い。袖に腕を通すと、妙に腕が詰まる気がした。気のせいだと思いたいのに、気のせいではない感触がある。いつもより肩が張る。胸のあたりが、ほんの少しだけ窮屈だ。
背が伸びたから?体重が増えたから?そういう説明がつくなら、楽だった。説明がつけば、ただの成長だ。喜べばいい。
でも、窮屈なのは布だけじゃない。シャツの白さが、今日はやけに目につく。白すぎて、子どもっぽい。白いほど、隠せない。胸の奥に溜まっている、言葉にならない濁りまで、透けて見えてしまいそうだった。
台所では祖母が湯を沸かしていた。やかんの鳴く音が、朝の家をいつもの順番で起こしていく。畳の上を歩くと、足裏にひんやりした感触が残る。雨は降っていないのに、空気だけが少し湿っている。夏がまだそこに居座って、でも同時に、少しだけ席を譲り始めた匂い。
「今日は、涼しいら?」
祖母が言う。言い方は軽いのに、その軽さが、幹夫には難しい。涼しい、と言い切るには早い。暑い、と言い切るにも遅い。そういう中途半端な日が、いちばん言葉を奪う。
「……まあ」
返事をすると、祖母はそれ以上聞かなかった。聞かないで、茶を注ぐ。湯気が立ち、香りが先に部屋を満たす。言葉より先に届くものがあることが、今日は少しだけ救いだった。
父は玄関で長靴を履きながら、幹夫のシャツを一度だけ見た。見て、何も言わない。父はいつもそうだ。見ているのに言わない。言わないのに、何かは残る。視線の温度だけが残って、あとから胸の奥でじわじわと意味を増やす。
「行くぞ」
父が言う。段取りの声。段取りの声は、心の話をしなくていいから強い。
茶畑へ出ると、風が葉をなぞっていった。夏の風は押しつけるみたいに熱かったのに、今日は、撫でるだけで去る。撫でたあとに、わずかな冷たさが残る。茶の葉の匂いにも、青さの裏に乾いた感じが混じっていた。二番茶の忙しさが終わり、畑が次の季節のために呼吸を整えている匂い。
幹夫は畝の端で、シャツの裾を指で引っ張った。布が肌に貼りつく。貼りつくのに、冷える。汗をかいているのに、汗が夏ほど明るくない。汗まで、どこか静かだった。
学校へ向かう道で、トンボが低く飛んだ。赤とんぼではない。まだ夏のトンボ。でも飛び方に、迷いがない。川沿いの草の上で、一瞬止まって、すぐまた飛び立つ。その動きが、なんだか“大人”みたいに見えて、幹夫は自分のシャツの白さが急に恥ずかしくなった。
教室に入ると、窓が少しだけ開けられていた。入ってくる風が、教室の匂いを薄くする。黒板の粉、ワックス、誰かの汗、消しゴムの屑。いつもならそれらが混ざって「学校の匂い」になるのに、今日は風が混ざりすぎて、匂いが定まらない。定まらない感じが、心に似ている。
先生が言った。
「来週から、衣替えの期間になります。暑かったら夏服でもいいけど、そろそろ長袖の子も増えるからね」
その瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。誰かが小さく「あー」と言い、誰かが笑い、誰かが腕をさすった。「衣替え」という言葉は、季節の予定表みたいで、予定表があると、ちゃんと進んでいる気がする。進んでいるのに、自分だけ置いていかれるときもあるけれど。
隣の席の子が、幹夫の袖を見て言った。
「まだ半袖なんだ。暑くない?」
幹夫は「暑いよ」と言いかけて、止めた。暑い、と言えば夏側に戻れる気がした。戻れないのに戻ろうとするのは、みっともない。みっともないと思う自分が、もう夏じゃない。
「……まあ、平気」
そう言うと、相手は「そっか」と笑って終わった。終わったことが、ちょっと寂しい。誰かがもう少し引っかかってくれたら、何かを言えたかもしれないのに、と、勝手に思う。勝手に期待して、勝手にがっかりする。そういう自分の面倒くささを、幹夫は知り始めている。
放課後、幹夫は安倍川の橋へ向かった。夏の終わりの気配がある日は、川の広さが少し増して見える。実際の幅は変わらないのに、河原の白が控えめになって、光が落ち着くからだ。白い石はまだ眩しい。でも眩しさの質が違う。目に刺さる眩しさではなく、どこか遠い眩しさ。
橋の上で立ち止まると、風がシャツの中へ入った。肌がぞくりとする。冷える、というほどじゃない。ただ、身体が「ここにいる」と教えられる感じ。夏服は、風を通しすぎる。守ってくれない。守られないと、胸の奥の揺れが直接くる。
ポケットのスマホが震えた。母からだった。
「土曜日、午後で大丈夫? そのあと少し歩けるといいなと思って」
文字は短い。短いのに、胸の奥の“窮屈”が、別の形に変わる。怖い。会いたい。むかつく。嬉しい。分からない。夏のシャツみたいに、薄い布一枚で全部を受け止めようとしている感じがする。受け止めきれるわけがないのに。
幹夫は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。蝉が一匹だけ鳴いて、途中で途切れた。途切れた瞬間、川の音が急に大きくなる。流れる水の音は、説明がいらない。止まらない。進む。説明がいらない進み方が、羨ましい。
そのとき、橋の向こうから軽トラの音が近づいてきた。父だ、と分かった。音で。父は音で分かる存在だ。言葉より先に匂いとエンジン音が来る。茶と土と機械油の匂い。家の匂い。
軽トラが路肩に停まり、父が窓を開けた。
「……いたか」
それだけ。迎えに来た理由も、心配したと言わない理由も、説明しない。説明しないけれど、ここまで来たという事実だけが、妙に重い。
幹夫は助手席に乗った。ドアを閉めると、車内の匂いが一気に肺へ入る。夏服の薄さの中に、その匂いが染み込む。染み込むと、シャツが少しだけ重く感じた。重いほうが落ち着くことがある、と幹夫は思った。
走り出してしばらくして、父がぽつりと言った。
「……土曜な」
幹夫は頷いた。
「うん」
父はそれ以上言わなかった。でも、アクセルの踏み方が少しだけ丁寧になった。言葉じゃない返事。父の言葉はいつも足りない。でも足りないなりに、何かを運んでいる。
幹夫は、スマホに視線を落とし、返信欄を開いた。指が止まる。止まったまま、夏のシャツの袖口を見た。袖口が、少しだけ頼りない。頼りないものを着ていると、心の頼りなさが目立つ。
だから、短く打った。
「大丈夫。父ちゃんも一緒に行く」
送信。矢印が上へ飛ぶのを見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方を、幹夫は最近、少しずつ覚えている。
父は、前を見たまま言った。
「……暑かったら、無理すんな」
無理すんな、は季節の話みたいな言い方だった。でも幹夫には分かった。暑さのことだけじゃない。薄い夏服一枚で、全部受け止めようとするな、という意味が混じっている。
幹夫は小さく「うん」と答えた。その“うん”は、いつもより少しだけ重みがあった。
夜、風呂上がりの肌に、廊下の空気がひんやり触れた。冷たい、と言うほどじゃない。けれど確かに、夏の手触りではない。幹夫は自分の部屋で、白い夏服をハンガーから外し、畳んだ。
畳んだシャツは、薄い。薄いのに、今日一日を吸って重い。汗と風と、言えなかった言葉と、送った短い文字。シャツの白さは相変わらず白い。でも、白さがもう「夏そのもの」には見えなかった。白さは、夏の終わりの光にも似ている。眩しいのに、どこか遠い。
幹夫は畳んだシャツを引き出しの奥へ押し込む手を、一度止めた。押し込んだら、終わってしまう気がした。終わることは怖い。でも、終わらせないと始まらないものがある。
引き出しを閉めると、部屋が少しだけ静かになった。静かになったのに、寂しいだけじゃない。胸の奥の“窮屈”が、ほんの少し形を変えている。窮屈はまだある。怖さもある。でも、薄い布一枚ではない場所に、少しだけ足がついた気がした。
夏服が似合わなくなる日。それは、気温のせいじゃない。鏡の中の自分が、もう「何も起きていないふり」をするのが下手になった日。言葉が足りないままでも、誰かに向かって短い矢印を飛ばしてしまった日。
幹夫は布団に入り、目を閉じた。窓の外で、蝉が一匹だけ鳴いて、すぐ途切れた。途切れた音のあとに、虫の小さな声が続く。季節が、黙って入れ替わっていく音。
その音を聞きながら、幹夫は思った。夏が終わる前に、間に合ったかどうかは分からない。でも――“間に合わせたい”と思った自分は、確かにここにいる。
それだけで、今日は十分だった。





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