『山影の町で、幹夫は立ち止まった』
- 山崎行政書士事務所
- 1月18日
- 読了時間: 8分

山影の町で、幹夫は立ち止まった。それは「疲れたから」でも、「迷ったから」でもない、と自分では思っていた。けれど足が止まるというのは、たいてい自分の思っている理由とは別のところで起きる。心の奥が、ほんの少しだけ先に立ち止まっていて、身体がそれに追いついただけ――そんな気がした。
町は、山に囲まれていた。静岡の地図を目でなぞれば、ただ内陸へ伸びる線の先にある、名前の小さな町。大井川の上流へ向かうほど、道が細くなって、空が狭くなる。その狭さが、苦しくなる日もあれば、救いになる日もある。
幹夫が降りたのは、川根の小さな駅だった。ホームの端には背の低い柵があり、ベンチは木で、古いペンキが剥がれていた。電車が去ったあとのレールは、熱を持ったまま黙っている。遠くで川の音がした。海みたいに広がらない代わりに、音がまっすぐ胸に入ってくる。
駅舎を出た瞬間、温度がふっと変わった。日向の熱はまだ残っているのに、山影がかかると、空気の粒が細かくなる。肌に触れるものが、同じ「夏」なのに別のものになる。夕方が早い。ここでは太陽が、山の向こうへ隠れてしまうのが街より早いのだ。
幹夫は一度だけ空を見上げた。見上げた空は、山の稜線に切り取られて、細長い青になっている。富士を見上げたときのような圧迫感とは違う。山は富士みたいに「見せるために立っている」感じがしない。ただ生活の背後に黙ってある。黙ってあるからこそ、逃げ道をくれるようにも、逃げ道を奪うようにも見える。
幹夫のリュックの中には、折り畳まれた紙が一枚入っていた。母の手紙のコピー。駿河湾で会った日、祖母が黙って台所に置いたままにしていたものを、幹夫が勝手に持ち出した。持ち出したというより、手の中に残ってしまったと言ったほうが正しかった。
紙は軽い。軽いのに、リュックの中でそれだけが重い。
町を歩く。歩くと、足の裏に石の感触が伝わる。舗装の薄い道は、軽トラが通るたび微かに揺れる。家々は低く、軒先には洗濯物が揺れている。揺れているのに、風は強くない。山の谷間の風は、海の風みたいに遠くから一気に来ない。近くで生まれて、近くで消える。
道端の自販機が、古いモーターの声で唸っていた。幹夫は、意味もなくそれを聞きながら歩いた。こういう音は、何かを考えすぎた頭の端を削ってくれる。削ると、痛みが少し鈍くなる。
店が一軒だけあった。「茶」の文字が色褪せたのぼり旗で揺れている。幹夫はふらりと入った。冷房は効いていないのに、店の中は少し涼しい。棚に並ぶ茶葉の袋が、光を吸って深い緑に見えた。
奥から出てきたのは、小さな体の年配の女性だった。手の甲が日に焼けて、皺の間に働いた時間が溜まっている。
「いらっしゃい。……おや、若い子が珍しいね」
幹夫は「こんにちは」と言った。声は普通に出た。普通に出たことが、少し嬉しかった。最近の幹夫は、普通の声を出すだけで、胸の奥がざわつく日がある。
「何か、探しとる?」
「……茶」
それだけ言うと、女性は「ああ」と頷いた。
「川根の茶ぁ、香りが立つでね。熱い湯でも負けん。ほれ、これ。少し若い芽を多めに入れたやつ」
袋を差し出されて、幹夫はそれを受け取った。指先に、紙のざらつき。中身の茶葉は見えないのに、茶畑の匂いがふっとよみがえる。牧之原の畑の匂いとも似ているし、違う。似ているのは「生きてる匂い」で、違うのは、ここには川の湿り気と木の影が混じっていることだ。
「誰かに、あげるだ?」
女性が訊く。幹夫は一瞬迷って、それから小さく頷いた。
「……うん」
「そりゃいい。茶ぁね、間に置くといいだよ。人と人の間。言葉が出ん時も、茶は湯気を出すでね」
言葉が出ん時も、茶は湯気を出す。その言い方が、なぜだか胸に刺さった。湯気は見える。見えるものなら、そこにあると信じられる。幹夫は、信じられるものが欲しかった。自分の心は、見えないからすぐ揺らぐ。
幹夫は茶を買った。袋を受け取ると、リュックの中の紙の重さが、ほんの少しだけ変わった気がした。重いのが消えるわけじゃない。ただ、重さの形が変わる。
店を出ると、空はもう少し淡くなっていた。山影が町の半分以上を覆っている。山影は、夜のはじまりというより、昼の終わりを丁寧に畳んでいく手つきに似ている。乱暴に奪わない。だからこそ、いつまでも名残が残る。
幹夫は川の方へ歩いた。舗装が途切れ、河原へ続く道になる。大井川は、駿河湾のように広くない。安倍川のように白い石の原っぱでもない。水が、深い色をしている。緑がかった青。底が見えそうで見えない色。
橋の上に出たとき、幹夫はまた立ち止まった。手すりに手を置く。鉄が冷たい。昼間の熱は、もう山に吸われてしまったみたいだ。冷たさが掌から入って、腕を伝って、胸の奥に届く前に消える。その消え方が、今の自分にちょうどよかった。
川を見下ろすと、水が黙々と流れていた。音はある。音はあるのに、言葉みたいに主張しない。水はただ進む。止まらない。止まる場所を持たない。だから羨ましい、と幹夫は思った。止まりたいときに止まれないのも苦しいが、止まってしまう自分も苦しい。
――俺は、何を止めてるんだろう。そう考えた途端、頭の中に顔が浮かぶ。父の横顔。母の手の震え。祖母の黙った背中。俊の「十分だら」という雑な優しさ。
幹夫はリュックを下ろし、茶の袋を一度出した。紙の袋は軽い。けれど、軽さの中に「香り」がある。香りは、言葉じゃないのに伝わる。香りは沈みにくい。沈む前に、誰かの中に入り込む。
そのとき、幹夫のポケットのスマホが震えた。通知の短い振動。心臓がそれに合わせて一度跳ねて、すぐに落ち着かなくなる。
画面に出た名前は、母だった。
幹夫は、指を動かせなかった。通話ボタンを押すだけなのに、押したら何かが決まる気がした。決まることが怖い。怖いのに、決まらないままの時間が増えるほうが、もっと怖い。
橋の上を、軽い風が通った。山から降りてくる風。冷えて、少し湿って、木の匂いがする。幹夫の頬に触れて、すぐに去る。その一瞬が、「今だ」と言った気がした。誰も言っていないのに、身体だけがそう感じた。
幹夫は通話を押した。
「……もしもし」
声は震えた。震えたのに、途切れなかった。沈まなかった。
『幹夫? ごめんね、急に。今、大丈夫?』
母の声は、以前より少しだけ強かった。強いというより、「沈まないようにしている」声だった。沈まないように支えている声は、聞く側の胸も支える。
「……大丈夫。今、外」
『どこにいるの?』
「……川根。大井川の……橋の上」
言ったあとで、幹夫は自分に驚いた。自分が「場所」を言えたことに。具体的な場所を言うのは、具体的な自分を相手に渡すことだ。曖昧なままなら傷つきにくい。でも曖昧なままだと、誰も近づけない。
電話の向こうで、母が息を吸う音がした。
『川根……いいところだよね。昔、一回だけ行ったことがある。お茶の匂いが深くて』
「……うん。今日、茶買った」
『誰に?』
母の問いは、怖い問いだった。「私に?」と聞かれている気がする。それだけじゃない。「あなたは私を、まだ受け取る気がある?」と聞かれている気がする。
幹夫は手すりを握り直した。冷たさが少し強くなっている。空がさらに薄くなったせいだ。あるいは自分が、今ここにいる現実を手で確かめているせいかもしれない。
「……母さんに」
そう言った瞬間、胸の奥が熱くなった。熱くなって、喉が詰まりそうになった。詰まったら、声は沈む。沈ませたくない。
『……ありがとう』
母の「ありがとう」は、駿河湾で聞いたときのより少しだけ明るかった。それでもまだ、怖さが混じっている。「ありがとう」を言ったあとに、何を言えばいいのか分からない怖さ。
幹夫は、川を見下ろした。水は相変わらず進んでいる。止まっていない。誰も褒めないのに、ただ進んでいる。
「……俺さ」
幹夫は言いながら、自分の声の行き先を見失いそうになった。だから視線を水に預けた。水はまっすぐだ。まっすぐなものに目を置くと、言葉も少しまっすぐになる。
「……許せるとか、許せないとか、まだ分かんない」
電話の向こうで、母が息を飲む気配がした。
「でも……声、沈ませたくない。今日、そう思った」
自分で言って、自分でその意味を追いかけた。沈ませたくない。何を?たぶん、自分の声だ。母の声だ。父の声だ。それから、言えないままの時間そのものだ。
母はしばらく黙っていた。沈黙が怖いはずなのに、今日は怖さが少し薄い。沈黙の間にも、川の音がある。風の音がある。町の遠い生活の音がある。音がある沈黙は、ゼロじゃない。
『……うん』
母がそう言った。短い「うん」。でも、沈まない「うん」だった。
『幹夫の声、ちゃんと聞こえる。沈んでない』
その言葉が、橋の上の冷たい鉄みたいに、幹夫の中に芯を作った。芯があると、揺れても折れにくい。
幹夫は、何かを言いたくなった。「今度また会う」とか、「父にも伝える」とか、そういう未来の言葉。でも未来の言葉は、今の自分にはまだ重い。重いものは、落としたとき割れる。
だから幹夫は、今の言葉だけを選んだ。
「……また、電話する」
『うん。待ってる』
母はそう言って、通話が終わった。
画面が暗くなったあとも、幹夫はしばらく動けなかった。電話の余韻が、耳ではなく胸に残っている。胸の奥に残る音は、しばらく自分の呼吸を変える。
幹夫はリュックを背負い直した。茶の袋を、今度は丁寧に入れた。紙の手紙のコピーの上に、そっと重ねる。重ねると、重さが散る。ひとつの重さが全部を押し潰すんじゃなく、二つの重さが支え合うみたいに。
橋の上から町を見ると、山影がすっかり町を包んでいた。灯りがぽつぽつ点く。昼の名残は薄い。それでも不思議と、怖くなかった。
山影の町で、幹夫は立ち止まった。けれどその立ち止まりは、もう「止まること」そのものじゃなかった。一度立ち止まって、息をして、声を沈ませない練習をした。それだけで、足元の石の感触が少し変わる。冷たさの中に、温度が混ざる。
幹夫は歩き出した。山は変わらず背後にある。川は変わらず前へ進む。変わったのは、たぶん自分の中の、ほんの小さな部分だ。
その小さな部分が、これから先、どこまで動けるのか。幹夫はまだ知らない。知らないけれど、今日は一歩だけ、確かに動いた。




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