top of page

『幹夫はまだ、言葉を持たない』

朝の茶畑は、声より先に匂いが来る。まだ太陽が高くないのに、葉の青さだけがやけに鮮明で、露が光を抱いたまま揺れている。幹夫はその揺れを見ていると、自分の胸の奥にも同じ粒がある気がした。落ちないように、落ちたら割れそうで、指で触れないままにしている透明なもの。

父は畝の向こうで、黙って手を動かしている。黙っているのに、怒っているわけでもない。笑っているわけでもない。どちらでもない顔が、幹夫にはいちばん難しい。何も言わない顔を前にすると、自分が何を言えばいいのかが分からなくなる。

分からない、のに。胸の中は、いつも何かでいっぱいだ。

溜まっているのは言葉じゃない。言葉になる前の、もっと湿ったもの。温度だけを持ったもの。重さだけを持ったもの。それを「さみしい」と呼べる人もいるのだろう。「むかつく」と呼べる人もいる。「会いたい」と呼べる人もいる。

幹夫は、呼べない。

露の冷たさが指先に移る。その冷たさは、嫌じゃない。嫌じゃないのに、冷たいままの時間が続くと、いつか指がしびれることを知っている。しびれたら、いよいよ何も掴めない。

だから幹夫は、いつも“ちょうどいい”ところを探してしまう。冷たすぎず、熱すぎず。近すぎず、遠すぎず。誰にも気づかれないくらいの場所。でも、本当は気づいてほしいくらいの場所。

そういう矛盾を、幹夫はまだ、言葉にできない。

学校の教室は、茶畑よりずっと乾いている。黒板の粉っぽさ、床のワックスの匂い、窓から入ってくる排気ガス。そこに人の声が重なると、空気はすぐに濁る。濁るから、逆に安心することがある。透明すぎる場所では、自分の中身が見えてしまう気がするからだ。

国語の時間、先生が言った。

「短い作文を書きます。テーマは『いまの気持ち』。原稿用紙一枚。上手に書かなくていい。正直に」

正直に。その言葉が、幹夫の胸の奥にひっかかった。

正直は、どこから出すものだろう。喉から出すのか。胸から出すのか。指から出すのか。出した瞬間に形が変わってしまうものを、どうやって“正直”と言うのだろう。

周りは鉛筆の音を立てはじめた。カリカリ、カリカリ。みんなの言葉が紙に降りていく音。降りていくたびに、そこには“意味”ができていく。意味ができると、安心するのだろう。自分で自分のことを掴めるから。

幹夫の前の原稿用紙は、白いままだ。白いことが恥ずかしい。恥ずかしいと感じること自体が、もう何かの気持ちなのに、その気持ちをどう書けばいいのかが分からない。

鉛筆を持つ指だけが汗ばんで、芯が紙に触れる前に滑る。滑るたび、幹夫は自分の中にある“言いたさ”が逃げていく気がした。

あなたにも、こういう瞬間があったかもしれない。喉の奥まで来ているのに、声にならない。頭の中では確かにあるのに、口に出すと嘘になる気がする。「分からない」と言えばいいのに、「分からない」さえ、うまく言えない。

幹夫は、原稿用紙のいちばん上に、小さく書いた。「いま」

それだけで、手が止まった。“いま”の次に続く言葉がない。“いま”の隣に置ける言葉がない。

先生が教室を回ってくる足音が近づき、幹夫の背中が固くなる。見られたくない。でも見てほしい。見てほしいのに、見られると苦しい。この矛盾のことを、幹夫はまだ、言葉にできない。

放課後、幹夫はまっすぐ家へ帰らなかった。帰れば、祖母がいて、父がいて、いつもの匂いがある。いつもの匂いは安心でもあるし、息苦しさでもある。息苦しさのほうを先に感じてしまう日がある。

幹夫は静岡の街へ向かうバスに乗った。窓の外で景色が変わっていく。茶畑の緑が薄れ、建物が増え、空の広さが少し狭くなる。街の空気は軽い。軽いけれど、軽さが“優しさ”とは限らないことも、幹夫は知りはじめていた。

静岡、午後四時。影が長くなる時間。

ビルの影が歩道に伸び、電柱の影が足首を横切る。影は黒ではなく、濃い藍みたいで、踏んでも踏んでも逃げない。逃げないものがあるというだけで、幹夫は少し安心してしまう。逃げないなら、自分も逃げなくていい気がするからだ。

呉服町のアーケードを歩いていると、潮の匂いが混じった風が来た。駿河湾が遠くにあるのを、匂いだけが知らせる。海は見えないのに、塩は届く。見えないのに届くものがある。それは、怖いことでも、救いでもある。

幹夫は立ち止まり、スマホを取り出した。連絡先の一覧で、母の名前のところまで指を滑らせて止める。押せば、つながるかもしれない。押しても、つながらないかもしれない。つながっても、何を言えばいいのか分からない。

分からない、と言えばいい。そう思うのに、“分からない”さえ、母に言うには重い気がした。分からない、の裏側にあるものまで伝わってしまいそうで。――さみしい、とか。――怒ってる、とか。――会いたい、とか。自分でも整理できていないものを、相手に渡すのが怖い。

怖いから、幹夫は画面を消した。画面が暗くなると、自分の顔が一瞬だけ映る。映る顔は、自分のはずなのに、少し他人みたいに見える。他人みたいな自分を見ると、胸の奥が空っぽになる。空っぽになると、今度は何かで埋めたくなる。

埋めたいのに、埋め方が分からない。この矛盾のことを、幹夫はまだ、言葉にできない。

家へ戻る途中、安倍川の近くでバスを降りた。橋の上に立つと、風が強い。河原は白く、光が跳ねる。まぶしくて目を細めると、世界は少し優しくなる。細めた視界は、輪郭を削ってくれる。輪郭がなければ、痛いところも曖昧になる。

川は、流れていた。当たり前のように。誰かに褒められなくても、誰かに許されなくても、ただ流れる。止まらない。止められない。そのことが、羨ましかった。

幹夫は、手すりに両手を置いた。金属が熱い。午後四時の太陽をまだ抱いている。熱さに触れると、指先の感覚がはっきりする。自分がここにいると分かる。ここにいることは、ときどき苦しい。でも、ここにいないみたいな気分になるよりは、ましだった。

幹夫は、声にならないものを胸の中で探った。父の背中。母の声。祖母の黙った視線。教室の原稿用紙の白。全部が、ひとつの塊になって、胸の奥にある。

その塊に名前をつけられない。つけられないのに、確かに重い。重いものは、いずれどこかへ落ちる。落ちたときに割れる音がするのが怖い。だから幹夫は、落とさないように抱える。抱えていると腕が疲れる。でも、疲れるほうがまだ、自分で選んでいる気がする。

幹夫は深く息を吸った。川の湿った匂いが肺に入る。湿り気は、言葉の手前に似ている。まだ形になっていない。けれど、確かにそこにある。

幹夫は、小さくつぶやいた。誰にも届かないくらいの小ささで。

「……わかんない」

言えた。言えた瞬間、胸の奥の塊が、ほんの少しだけ音を立てずに崩れた気がした。崩れたのに、怖くなかった。崩れた分だけ、呼吸の通り道ができたからだ。

“わかんない”は、きれいな言葉じゃない。答えでもない。でも、答えのないところに立っている自分の位置を、やっと示せた言葉だった。

それだけで、幹夫は少し泣きそうになった。泣くのは恥ずかしい。でも、恥ずかしいと感じること自体が、もう“生きている”証拠みたいにも思えた。

夕飯の匂いがする時間になって、幹夫は家へ帰った。玄関のたたきの冷たさ、台所の湯気、祖母の茶を淹れる音。全部がいつも通りで、いつも通りなのに、幹夫の内側だけが少し変わった気がした。

父は居間でテレビを見ていた。画面の光が父の横顔を照らして、影が薄く揺れる。父の影も長い。父の影の中には、言わなかった言葉が何本も刺さっている気がする。

幹夫は、言いたくなった。母のこと。今日の作文のこと。安倍川の風のこと。言いたくなったのに、言葉はまだ整っていない。

整っていない言葉を、出していいのか。出したら、壊れるのか。壊れたら、戻らないのか。

その不安の前で、幹夫は一度だけ立ち止まった。そして、さっき川の上で言えた言葉を、もう一度拾ってみた。拾えるかどうかを確かめた。

「父ちゃん」

父が顔を上げる。

「……俺、今、自分のことが、よく分かんない」

父の目が少しだけ揺れた。揺れは、言葉より先に出る感情だ。父にもそれがある。父はすぐに何も言わなかった。言わなかったけれど、黙っているだけで終わらせもしなかった。

しばらくして、父が短く言った。

「……そういう時もあるだら」

それだけ。慰めでも、解決でもない。でも、“否定されなかった”ということが、幹夫には大きかった。

幹夫は頷いた。頷いただけで、胸の奥に少しだけ余白ができた。余白ができると、そこにいつか言葉が座れる気がした。まだ座れない。けれど、座れる場所がある。

幹夫はまだ、言葉を持たない。けれど、言葉の手前にあるものを、抱えたまま歩ける日が増えてきた。その歩き方が不格好でも、誰かに伝わらなくても、少なくとも自分だけは、自分の足音を聞ける。

夜、布団に入ると、昼のまぶしさや潮の匂いが少し遅れて戻ってくる。幹夫は目を閉じて、今日の原稿用紙の「いま」を思い出した。“いま”の次の言葉は、まだ分からない。でも、分からないと言えた。

そのことだけを、胸の奥に置いて眠る。置いたものは、露みたいに冷たくも、湯気みたいに温かくもなく、ただ確かに重さがあった。重さがあるのは、まだ生きているからだ。

幹夫はまだ、言葉を持たない。――それでも、いつか持つ。その“いつか”の輪郭だけが、午後四時の影みたいに静かに伸びていた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page