『幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった――茶の香る町と清水の風のあいだで』
- 山崎行政書士事務所
- 1月30日
- 読了時間: 7分

第二章 袖の裏の塩
夜は、音が少ない。少ないはずなのに、幹夫(みきお)の部屋には、昼間の音が遅れて残っていた。港のフェンスが風に擦れる音。紙袋が鳴った硬い音。汽笛の低さ。――耳に残っているというより、掌に残っている。
制服をハンガーに掛けると、袖口の内側がわずかにざらついた。清水の風が置いていった塩の感じ。見えないのに、指の腹が分かってしまう。幹夫はその部分をもう一度だけ触れて、触れたことをなかったことにするみたいに、すぐ手を引っ込めた。
机の上には、祖母の封筒が置いてある。中身はもうない。ないのに、角の硬さだけが残る。封筒は軽い。軽いものは、目を離すとどこかへ行ってしまいそうで、だから置き場所を決めたくなる。決めたら、決まってしまう気がして怖いくせに。
スマホが、枕元で短く震えた。画面を開くと、母からのメッセージが一件。
「さっき、ありがとう。茶の匂い、久しぶりだった」
“ありがとう”は、薄い言葉のはずなのに、今日は厚みがあった。厚みは言葉の数じゃなく、言葉の背後にある“時間”が作る。時間は見えない。見えないのに、重くなる。
幹夫は返信しなかった。しないまま、画面を消して、スマホを伏せた。伏せると、鏡みたいに暗い画面に自分の眉だけが映る。眉の形はいつも通りなのに、どこか「帰ってきた人」の顔をしていない気がした。
窓の外で虫が鳴いた。蝉じゃない、もっと小さい声。夏の途中の夜にしかいない声。その声を聞きながら、幹夫は布団の中で片手を握った。指先の内側に、紙袋の取っ手の細さがまだ残っている。残っていることが、少しだけ助けだった。残るものがあると、今日が一日だったと分かる。
朝、台所のやかんが鳴る前に目が覚めた。雨上がりの朝は、光が先に入ってくる。カーテンの隙間から伸びた白い線が畳の目に沿って走って、部屋の端を少しだけ明るくする。明るいのに、軽くない。
幹夫は洗面所で制服の袖口を水に当てた。水道水は冷たい。冷たいのに、塩はすぐほどける。ほどけて、指の腹のざらつきが消える。消えるのが、少し惜しい。惜しいと思ってしまう自分が嫌で、幹夫は蛇口をひねって水を強くした。強い水は、迷いを洗い流すふりが上手い。
朝飯の席で、祖母が湯飲みを置いた。
「今日は暑くなるら」
暑くなる、というのは天気の話の形をしている。でも“暑い”という言葉には、夏の続きが入っている。続きは、いつも勝手に来る。
父は新聞を折り、箸を持ったまま言った。
「学校、遅れんなよ」
それだけ。名前は呼ばれない。名前が呼ばれないことに、幹夫はもう驚かなくなっている。驚かないことのほうが、たまに怖い。
バス停へ向かう道で、茶畑の端が光っていた。露がまだ残っている。残っている露は、昨日の雨とは違う透明さをしている。透明さは、何かを隠さない。隠さないから、見たくないものまで見えてしまう。
バスの窓から、安倍川の白い河原が見えた。日差しの角度が変わったのか、石の白さが昨日より落ち着いて見える。白が落ち着くと、影が目立つ。目立つ影は、どこか「止まれ」の形をしている。
教室に入ると、窓が開いていた。風が通り抜け、黒板の粉の匂いを薄める。薄められた匂いの中で、誰かの声だけが浮く。
「幹夫、提出」
先生が言った。名字じゃなく、名前。クラスでは珍しい呼び方だった。幹夫は返事をしながら、自分の名前が口に乗る瞬間の手触りを確かめた。名前は軽い音なのに、呼ばれると重さが出る。重さは、その人がそこにいることの証拠になる。
プリントを出しながら、幹夫は袖口を見た。洗ったはずなのに、塩の気配がまだ残っている気がした。気配は、洗っても落ちない。
放課後、幹夫はまっすぐ帰らなかった。帰らない理由があるわけじゃない。ただ、帰る速度に自分の中身が追いついていない気がした。
しずてつの線路沿いを歩くと、レールが午後の光を拾って薄く光る。踏切のベルが鳴る前の一拍が長い。遮断機が下りる前、世界が「止まる理由」を用意するあの一拍。幹夫はその一拍が好きでも嫌いでもない。ただ、身体がそこで立ち止まってしまう。
電車が通り過ぎる。窓の中に買い物袋。制服の肘。スマホを見下ろす目。生活は、いつも通りの顔で流れていく。流れていくものは、こちらに答えを求めない。求めないから、胸の奥の問いが余計に浮く。
幹夫のポケットで、スマホが震えた。表示されたのは、知らない番号だった。手が止まる。止まったまま、踏切の警報が鳴り始める。カン、カン、という乾いた音が、耳の奥に段差を作る。
出なかった。出なかったのではなく、指が動かなかった。画面が暗くなり、数秒後、留守電の通知だけが残った。
幹夫はその場で再生しなかった。歩きながら、再生ボタンに指を置いた。置いて、離した。踏切の音はもう止んでいるのに、体の中ではまだ鳴っている。
安倍川の堤防まで来て、ようやく再生した。スピーカーから、母の声が出た。
「……もしもし。急にごめん。昨日……ちゃんと、言えてない気がして」
言えてない、という言い方が、声の端で揺れた。揺れた端から、風が入りそうになる。幹夫はスマホを耳に近づけて、風を避けるみたいに手で覆った。覆う仕草が、誰かの声を守る仕草に見えて、自分で少し驚いた。
「また、無理じゃなかったらでいいんだけど……茶町、覚えてる? あの匂いのところ」
それだけ言って、母は言葉を切った。続きがないのに、切り方だけが「続きがある」を含んでいる。留守電が終わると、川の音が急に大きくなった。水の音は、説明をしない。説明をしないまま、先へ行く。
幹夫は返信しなかった。しないまま、堤防の草に目を落とした。草の先に、光がまだ残っている。残っている光は、夕方の準備をしている。準備をしている光は、急がないのに確実だ。
ポケットの中で、祖母の封筒の角を思い出した。紙の角。紙袋の取っ手。持ち手に添えた指先。全部、小さな“重さ”の入口だった。
家に帰ると、台所からだしの匂いがした。祖母が鍋を見ている匂い。黒い汁の匂い。青のりと削り粉が混ざる前の匂い。テレビの音が小さく鳴っていて、父がリモコンで音量を一段下げた。下げる動作が慎重で、余計な音を立てない。言葉を探す手つきに似ている。
「遅かったな」
父が言った。責める声じゃない。確認の声でもない。ただ、時間を数えた声。
幹夫は靴を脱ぎながら、短く言った。
「……川、見てた」
安倍川、と言わない。言わないほうが、話が大きくならない気がした。話が大きくなると、説明が要る。説明が要ると、答えが要る。答えが要る場所を、まだ自分の中に用意できていない。
祖母が言った。
「茶ぁ飲みな。冷めんうちに」
湯飲みを両手で包むと、熱が移る。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがあることが、今日の最後の救いみたいだった。
父は箸を持ったまま、幹夫を見ずに言った。
「……電話、来とったか」
幹夫は一拍、湯気の向こうを見た。湯気は形がなく、でも確かにそこにある。形のないものを、形のないまま答えるのは難しい。
「来てた」
それだけ言った。父は「そうか」と言って、それ以上は聞かなかった。聞かない沈黙は、逃げにもなるし、足場にもなる。どちらなのかは、その夜の湯気が消えるまで分からなかった。
食卓の上で、祖母が鍋から黒い汁のものを取り分けた。串が並び、静かに湯気が立つ。幹夫はその湯気の上で、留守電の「茶町、覚えてる?」を反芻した。覚えている。匂いは覚えている。匂いはいつも、言葉より先に残る。
その夜、部屋に戻ってから、幹夫は返信欄を開いた。短く打つ。
「覚えてる」
それだけ打って、止めた。止めた指先のまま、さらに一行足した。
「今日、しずてつの踏切、鳴った」
送信ボタンの上で指が止まり、止まっているあいだに窓の外で虫が鳴いた。鳴いた声は小さく、途切れず続く。続くものがあるなら、短い文でも倒れない気がして、幹夫は送信を押した。
押した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方を覚え始めていることが、少しだけ怖くて、少しだけ――明日へ続く感じがした。
スマホを伏せる。暗い画面に、自分の目だけが映る。目はいつも通りなのに、どこか「聞いた人」の目をしていた。
幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、重さが“増える手前の音”だけは、少しずつ聞こえるようになっていた。踏切が鳴る前の一拍みたいに。湯が沸く前の、やかんの小さな気配みたいに。





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