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『幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった』

朝の茶畑は、まだ音が少ない。露が葉の背に残っていて、指が触れると冷えた水が皮膚の上で薄く崩れる。崩れた水は、すぐ土の匂いに吸われる。牧之原の土は、湿ると息が深くなる匂いを持っている。吸い込んだ肺の奥で、何かが落ち着くのに、落ち着いた分だけ別のものが浮く。浮いてくるものには、名前が付いていない。

父は畝の端で、摘採機の金具を確かめていた。ネジに指を当てる。手を引っ込める。もう一度当てる。確かめる動きは慎重なのに、迷っている感じはない。迷いがない動きは、ときどき、見ている側を不安にする。どこにも寄りかからずに立っているものは、いつ倒れてもおかしくない気がするからだ。

幹夫は、リュックの肩紐を片方だけ握り直した。握り直す癖がある。誰にも見られていないのに、つい、そうしてしまう。握り直すたび、肩紐の硬さが「ここにいる」を教える。目に見えないものより、硬いものの方が信用できる日がある。

祖母が家のほうから声を投げる。

「幹夫。茶ぁ冷めんうちに飲んでけ」

その呼び方には、余計な色がない。叱るでも、慰めるでもない。生活の一部として、ただ音が落ちる。落ちた音は、畳の上で跳ね返らない。湯気に吸われて、体温の場所へ戻っていく。幹夫は、その戻り方が好きだった。好き、と言うほどではない。けれど、嫌いではない、ということを覚えている。

湯飲みを両手で包むと、熱が手のひらに移る。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。甘みは舌ではなく、喉の奥のほうに薄く貼りつく。貼りついているあいだは、何も言わなくていい気がした。

父が「行くぞ」と言ったのは、茶を半分飲んだころだった。どこへ、とは言わない。けれど幹夫は分かっている。今日は街へ出る。茶町で茶を受け取る。午後になったら清水へ行く。潮の匂いのする場所へ。そこに母がいる、かもしれない、という段取りの線が、すでに朝から引かれている。

リュックの中には、紙の封筒が入っていた。祖母が渡したものだ。封筒は軽い。軽いのに、背中の重さが増える。増えた重さは、重力のせいじゃない。封筒が運ぶものが、紙より大きいからだ。

軽トラが畑道を下り、国一へ出るころ、空はまだ白い。雨上がりの白だ。看板の色も信号の赤も、水たまりの上で少しぼやける。ぼやけているのに、確かにそこにある。ぼやけたもののほうが、後から残ることがある。輪郭が薄いぶん、心の中で勝手に形が育つからだ。

新静岡のあたりで父が車を停めると、街の匂いがする。排気とコンクリート、濡れた植え込みの葉の匂い。そこに、どこか焙じた匂いが混ざる。茶町が近い匂いだ。匂いは案内板より先に、目的地を教える。

幹夫はセノバの裏を抜け、しずてつの線路を横目に歩いた。踏切のベルが鳴る。カン、カン、と乾いた音。遮断機が下りる前の一拍が、やけに長い。止まる理由が与えられると、人は止まってしまう。止まっているあいだに、考えてはいけないことが浮く。幹夫は浮いてくるものを、わざと見ないふりをして、線路の向こうへ渡った。

茶町の店は、外から見たより暗い。暗いほうが匂いは濃くなる。蒸した葉の青さ、火入れの熱、乾いた紙袋の繊維の匂い。店の奥で機械が低く唸り、その一定の音が頭の中の余計な言葉を薄くする。薄くなったところへ、茶の匂いだけが静かに座る。

「これで、よろしい?」

店の人の声は柔らかい。柔らかいのに、踏み込みすぎない。幹夫は祖母の封筒を出し、支払いを済ませた。紙袋を受け取る。軽い。軽いのに、手のひらに残る。取っ手の細さが指に食い込み、食い込みが「持っている」を確かにする。持っている、という事実は、ときどき、心より先に身体を大人にする。

午後五時に近づくと、街の影が先に長くなる。光はまだあるのに、影が急ぐ。急いで、地面の上に「終わり」を並べ始める。終わりが並ぶと、家のほうへ帰る人が増える。コンビニの袋、しずてつのホームの人の流れ、歩道橋の下を急ぐ制服の背中。全部が、帰るための速度を持っている。

清水へ向かう途中、風の匂いが変わった。茶の匂いが薄くなって、潮が近づく。潮は外側に貼りつく匂いだ。皮膚の上に膜を作って、息を少し浅くする。浅くなった息のまま、言葉を出すのは難しい。だから港では、人は短く話す。短く話すか、黙る。

堤防の影に、母が立っていた。手提げ袋を両手で抱え、髪の細い毛を耳の後ろへ戻す。戻す仕草が丁寧すぎる。丁寧すぎる仕草は、失敗したくない人の癖だ。癖を見てしまうと、こちらの胸の奥が勝手に硬くなる。

父は母を見て、それから海へ視線を落とした。落とし方が「見られない」の形をしている。父の「見られない」は、怒りではなく、たぶん、怖さに近い。怖さは声にしにくい。声にしにくいものほど、背中に残る。

母が幹夫の名前を呼ぶ。

「……幹夫」

声は小さい。小さいのに、潮風に沈まないように喉の奥で支えているのが分かる。支えている声は、聞こえる。聞こえると、返さなければならない気がする。返す言葉が見つからないとき、人は黙る。黙ると、世界の音が急に増える。波、フェンス、遠くの汽笛、ターレーの腹に来る音。

幹夫は、返事の代わりに紙袋を差し出した。茶町の紙袋。指に食い込む取っ手。紙の角の硬さ。軽いはずの袋が、港の風の中では少し硬く鳴る。母が受け取ると、紙が小さく鳴った。その鳴り方が、堤防の上では妙に大きい。大きい音は、約束みたいに残る。

「……ありがとう」

母は袋を胸の前に抱えた。落としたくないものを持つ抱え方だった。落としたくないものは、物だけじゃない。そう思った瞬間、幹夫の胸ポケットの封筒が、急にそこにある感じが強くなった。紙の角が胸骨に当たる。痛いほどではない。ただ、「いま言えばいい」と、身体が言っているような当たり方。

けれど幹夫は封筒を出さなかった。出せば、説明が始まってしまう。説明が始まると、答えが要る。答えを受け取る場所を、自分がまだ持っていない気がした。

母が言った。

「……少し、歩ける?」

その問いは短い。短い問いは、断りにくいから短いのではない。短い問いは、相手の中の余白に触れるから短い。余白に触れられると、人は反射で逃げるか、残るかを選ぶ。

幹夫は頷いた。頷きは自然に出た。自然に出たことが、自分でも少し怖い。自然に出るものは、後から取り消せないからだ。

三人で堤防沿いを歩く。靴底がコンクリートを叩く音が、少しずつずれて重なる。揃わないリズムが、いまを確かにする。確かなものが増えると、胸の奥の言葉も増えそうになるのに、増えた言葉は喉の手前で止まる。止まった言葉は重くなる。重くなって、背中のリュックみたいに、静かにそこに居座る。

堤防の端で母が立ち止まった。海面に、光が細い道を作っている。触れられないのに、遠くまで続いている道。道は誰のものでもないのに、誰かを連れて行ってしまいそうに見える。

母の手提げ袋が風で少し揺れ、持ち手が指に食い込みそうになった。幹夫は一歩だけ前へ出て、持ち手に指先をそっと添えた。奪わない。支えきらない。ただ、触れていることが伝わるくらいの重さで。

母は何も言わなかった。言わない代わりに、握る力がほんの少し緩んだ。緩んだ、ということだけが、返事の形になった。返事が言葉じゃないことが、今日は助かった。言葉の返事は、また言葉を呼ぶからだ。

遠くで汽笛が鳴った。誰の名前も呼ばない音。けれど「戻る」と「行く」の両方を含んでいる音。幹夫はその音を、胸の奥のどこかに置いた。置いた場所は、まだ重さを持っていない。けれど、いつか重くなる場所だと、なぜか分かった。

帰りの軽トラの中、父が前を見たまま短く言った。

「……幹夫」

名前だけ。語尾も、理由も、続きもない。でも、その呼び方は、茶畑の露より確かに身体に触れた。呼ばれた、という事実は、軽いのに、世界のほうを少しだけ動かす。

幹夫はすぐに顔を上げず、短く返した。

「うん」

返事は軽い。軽い返事のままでも、今日は沈まなかった。沈まなかったのは、うまく言えたからじゃない。持ち手に添えた指先の感触が、まだ掌に残っていたからだ。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、重さの“予感”だけは、いくつか拾ってしまった。紙袋の取っ手の食い込み。封筒の角の当たり方。潮の膜みたいに外側に貼りつく匂い。しずてつのベルが鳴る前の一拍の長さ。それらは全部、答えの代わりに、静かに残った。

そして残るものがあるかぎり、世界はいつか、少年に重さを教える。急がず、説明もせず、午後五時の影みたいに、先に伸びてくるのだろう。

 
 
 

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