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『心に届かなかった声』

港の防波堤に立つと、声はいつも形を変える。潮の匂いにほどけ、風に薄められ、コンクリートの表面でいちど跳ねてから、どこかへ散っていく。聞こえたはずなのに、耳の中に残らない。残らないから、胸のほうまで降りてこない。

午後五時を少し過ぎた駿河湾は、まだ明るいのに、光の角だけが夕方のものになっていた。海面に道のような反射が一本できて、そこだけ白く、触れられないまま伸びている。幹夫(みきお)はその道を見ながら、ポケットの中のスマホを握った。掌の中の機械が、熱を持っているのが分かる。夏の終わりの熱ではなく、電池の熱。小さくて、逃げない熱。

画面には、母からの留守電が一件。再生を押すと、スピーカーから声が出た。

『……幹夫? 今、出られない? ごめんね、急に……』

言葉は丁寧で、声は静かで、息づかいまで分かるくらい近い。近いのに、幹夫の胸の奥には届かなかった。届かない、というより――届く前に、どこかで折れてしまう。

風が強く吹く。スピーカーの音がいちど揺れ、母の声の輪郭が崩れる。その崩れ方が、幹夫の中の何かと同じで、幹夫は指で画面を押さえ直した。押さえ直しても、声の崩れは止まらない。

『……土曜日、もし……時間が……』

途切れた。電波じゃなく、風のせいで。風は、言葉の端だけを奪うのが上手い。大事な部分ほど軽いから、先に飛ぶ。

幹夫はもう一度再生した。同じところで、同じように途切れた。二回目の途切れは、一回目より重かった。一回目は偶然にできた隙間で、二回目は隙間が形になってしまったからだ。

「……」

幹夫は声を出さなかった。出したところで、風が持っていくと知っている。知っているから、出さない。出さない癖が、声をますます遠くする。

防波堤の向こうで、誰かが大きな声で呼び合っていた。漁具を運ぶ人の声。子どもを呼ぶ親の声。その声は風に負けない。風に負けない声は、いつも急いでいる。届かせる必要がある声だ。必要がある声だけが、強くなる。

幹夫は、母の声の「弱さ」を責められなかった。弱い声は、責めるものじゃない。ただ、弱い声ほど、届く場所を選ぶ。選ぶというより、届いていい場所がないと、そこで止まる。

幹夫はスマホを胸の前に引き寄せて、画面を消した。画面が暗くなると、自分の顔が一瞬だけ映る。顔はそこにあるのに、目の奥がどこにもいないみたいだった。

帰り道、父の軽トラはいつもの匂いを積んでいた。茶と土と、作業着の汗と、機械油の薄い匂い。窓を少し開けると、潮の匂いがその中へ混ざってくる。混ざるのに、仲良くはならない。海の匂いは外側から貼りつき、畑の匂いは内側へ沈む。

父は運転しながら、ラジオの音量を少し下げた。指先の動きが慎重で、余計な音を立てない。音を立てない動きは、言葉を探しているときの動きに似ている。

「……留守電、来とったか」

父は前を見たまま言った。その「か」の軽さが、助けにもなるし、逃げにもなる。幹夫は窓の外の安倍川を見た。夕方の光が、白い河原の石をひとつひとつ照らして、石の影が短く揺れている。流れは細いのに、川幅だけが広い。広い場所は、言葉が散る。

「来てた」

それだけ答えた。それ以上は出てこない。出てこないのに、父は頷かず、否定もしなかった。否定しない沈黙が、車内に薄く残る。

ラジオから、アナウンサーの声が流れた。明日の天気。降水確率。均一な声は、心に届くことを目的にしていない。均一だから、身体だけが受け取って、心は受け取らなくていい。

父が、その均一な声をさらに小さくした。そして、ひどく不器用に言った。

「……風、強かったか」

港のことを言っているのか、母の声のことを言っているのか、分からない言い方だった。分からないまま、幹夫の胸の奥に小さな段差ができた。段差ができると、そこに何かが引っかかる。引っかかったものは、いつか拾える。

「……強かった」

幹夫はそう答えた。答えた声は、沈まなかった。沈まなかったのは、うまく言えたからじゃない。車内の匂いが、言葉の足元を支えていたからだ。匂いは逃げない。匂いは、そこにいる。

安倍川の橋を渡るとき、父がほんの少し速度を落とした。車体が一拍だけ軽く揺れて、夕方の光の線がフロントガラスを横切る。その一拍の中で、幹夫はさっきの留守電の途切れを思い出した。同じ「途切れ」でも、これは怖くなかった。途切れても、次の拍が来ると分かっている途切れだったからだ。

家に着くと、祖母の湯の音が先に聞こえた。戸の隙間から湯気の匂いが漏れて、潮の匂いを少しだけ押し返す。玄関で靴を脱いでいると、祖母が台所から声を投げた。

「幹夫。茶ぁ冷めんうちに飲め」

名前は、いつもそこに混ざっている。怒鳴りでも、呼びかけでもなく、生活の一部として混ざる。混ざる名前は、届こうとしていないのに、心に届く。

幹夫は、その声が胸の奥に落ちるのを感じた。落ちるとき、音はしない。でも落ちたことだけは分かる。湯飲みを両手で包んだときの温度みたいに。

居間の机に座ると、父はテレビをつけたまま黙って湯飲みを並べた。湯飲みの底が畳に触れる小さな音。その音は、声ではない。けれど、声よりも確かに「ここにいる」を言っている気がした。

幹夫はスマホを取り出して、留守電をもう一度再生した。今度は風がない。家の音はある。やかんの鳴き、テレビの人の笑い、祖母の足音。音が混ざっているのに、港よりも声がはっきり聞こえた。

『……土曜日、もし時間があったら、少しだけ歩こう。 言いたいこと、うまく言えないけど…… でも、声だけでも、聞けたらと思って』

最後まで聞けた。言葉も、息も。全部聞こえたのに、胸の奥にはまだ、完全には届かなかった。

届かなかったのは、母の声のせいじゃない。届かない場所が、幹夫の中にまだ残っているだけだ。その場所は、誰かが悪くしてできた穴じゃない。幹夫が守るために厚くした壁の裏に、いつの間にかできた影だ。

幹夫は留守電を止め、しばらく湯気を見た。湯気は形がなく、すぐほどける。ほどけるのに、匂いだけは残る。残る匂いは、言葉よりも長くそこにいる。

父がテレビの音を少し下げた。祖母が湯を足す音がして、湯飲みが軽く鳴った。

幹夫はスマホの返信欄を開いた。短く打つ。

「聞いた。土曜、行く」

送信ボタンを押す指が、ほんの少し遅れた。遅れたのに、押した。押した瞬間、胸の奥のどこかで、小さな振動が起きた。

それは「届いた」という手応えではなく、「届かなかった声が、まだ残っている」という手応えだった。

心に届かなかった声は、消えない。届かなかったまま、次の声のための場所を作る。湯気がほどけたあとに、空気が少しだけ湿るみたいに。

幹夫は湯飲みを口に運び、苦味のあとに来る甘みを待った。甘みはいつも、すぐには来ない。来ない時間があることを、今日は少しだけ、怖がらずにいられた。

 
 
 

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