『遠くで誰かが呼んでいる』
- 山崎行政書士事務所
- 1月25日
- 読了時間: 6分

遠くで誰かが呼んでいる。そう思ったのは、声が聞こえたからではなく、音が「名前の形」をしていたからだった。
牧之原の畝の上に、まだ夏の光が残っている。夕方の手前、葉の緑だけが少しだけ鈍くなって、土の匂いが前より濃くなる時間。幹夫(みきお)は長靴のまま畝の間を歩き、摘み終えた籠の縁を指先でなぞった。籠の竹は乾いていて、ささくれが小さく引っかかる。その引っかかりが、今日の自分の内側とよく似ていた。
父は軽トラの横で、何かを確認するみたいに荷台のロープを引き直していた。引いて、結び目を見て、また引く。結び目がほどけないことだけを確かめる動き。父の「大丈夫」は、いつもそういう形で現れる。
「……行くぞ」
父が言った。言い方はいつも通り短い。けれど今日は、その短さの奥に、いつもより少しだけ“待っている”色が混じっている気がした。幹夫は「うん」と返して軽トラに乗り込む。ドアを閉めると、車内に土と茶と汗の匂いがぎゅっと集まって、外の空気が遠のいた。
坂を下り、畑道を抜けて、街へ近づく。窓の外の景色はどこまでも同じように流れていくのに、車の中だけが別の時間を運んでいるみたいだった。言葉のない時間。エンジン音だけが一定で、一定の音は、余計なことを考えないための壁になる。
安倍川が見えてきた。白い河原が光を跳ね返して、目の奥が痛む。橋に差しかかると、父がほんの少し速度を落とした。ウインカーも出さない、ただの一拍。川の上に出ると、風が車体を撫でていく。撫でて、去って、また来る。風は何も言わないのに、車の中の空気を少しだけ動かす。
そのとき、遠くからメロディが聞こえた。町のどこかの防災無線が流す、夕方の音。音は薄くて、河原の光に溶けそうなのに、ちゃんと届く。音のあとに続く声は、単語としては拾えない。けれど“呼ぶ”ときの高さだけが分かる。名前を呼ぶ人の、少しだけ上がる音程。
幹夫は窓の外を見たまま、背筋を伸ばした。誰かが呼んでいる。遠くで、誰かが。それは誰かのはずなのに、どこか自分の内側から鳴っているようにも感じる。
父は何も言わなかった。ただ、ハンドルを握る手の親指が一度だけ動く。結び目を確かめるみたいに。
港の近くで車を停めた。潮の匂いが先に来る。海が見える前から、塩と濡れたコンクリートと魚の影の匂いが、肺の外側を薄く撫でてくる。幹夫はリュックの肩紐を握り直した。中には茶の袋が入っている。川根の紙袋。まだ開けていないのに、指が触れるだけで“香りの予感”が立つ。
堤防の影に、母が立っていた。手提げ袋を両手で抱え、風が髪の細い毛をほどくたび、指で耳の後ろへ戻す。戻す仕草が丁寧で、丁寧すぎて、見ていると息が詰まる。丁寧なのは、間違えたくないからだ。間違えたくない人の動きは、いつも少し遅い。
幹夫が近づくと、母は顔を上げた。目が合う。合った瞬間、胸の奥が一度だけ縮む。縮むのに、足は止まらなかった。止まらなかったことが、今日は少し不思議だった。
「……幹夫」
母は、名前を呼んだ。呼んだ声は小さかったのに、潮風に沈まなかった。沈まないように、喉の奥で支えているのが分かる声だった。
父は母を見て、それから視線を海へ落とした。“見る”と“落とす”のあいだにある一瞬のためらいが、いちばん生々しい。父は言葉の代わりに、そのためらいを差し出している。
幹夫はリュックから茶の袋を取り出し、母へ差し出した。紙の角が指に当たる。ざらつき。たったそれだけの触感が、今日はやけに確かだった。
母は一瞬だけ手を止め、それから両手で受け取った。紙が小さく鳴る。堤防の上で、その音はやけに大きい。母は袋を胸の前に抱え、目を伏せた。
「……ありがとう」
ありがとう、という言葉の後ろに、言えなかったものが何枚も重なっているのが分かる。幹夫はその重なりを見ないふりをした。見ないふりをしたくせに、見えてしまう自分がいる。
堤防の向こうで、さっきと同じメロディが、もう一度遠くで鳴った。風の角度が変わったのだろう。今度は少しだけはっきり聞こえる。それは“帰りなさい”の音にも聞こえるし、“こっちだ”の音にも聞こえる。どちらとも決められないまま、音だけがそこにある。
母が言った。
「……少し、歩ける?」
歩ける、という言葉は、ただの提案の形をしている。けれど提案の形をした言葉は、時々いちばん勇気がいる。断られたら引き返せないから。引き返せないことを承知で、相手に近づくから。
幹夫は頷いた。頷き方が、自分でも驚くほど自然だった。自然な頷きは、過去を消さない。消さないのに、いまの一歩を作ってしまう。
三人で堤防沿いを歩く。潮風が服の隙間を通り抜け、肌に薄い塩を残す。遠くでカモメが鳴き、船の汽笛が低く響く。母は小さな歩幅で歩き、父は少し後ろで歩いた。間を埋めるように幹夫が歩く。埋める、というより“受け止める”という感じに近い。
言葉は少ないまま進む。少ないのに、歩く音だけは確かに増える。靴底がコンクリートを踏む音が、三人分、順番に重なる。重なっているのに、ぴったりは揃わない。揃わないから、歩いていることが分かる。
そのうち、母が立ち止まった。視線の先に、夕日の光が海面を細い道にして伸びている。道は遠くまで続いているのに、触れられない。触れられない道を見つめる母の横顔が、少しだけ硬い。
父が、そこで初めて口を開いた。
「……遠いな」
何が、とは言わない。海が遠いのか。時間が遠いのか。取り戻せない何かが遠いのか。説明のない一言は、聞く側に選ばせる。幹夫は選べなかった。選べなかったけれど、選べないまま胸の奥が少しだけ動いた。
そのとき、また“呼ぶ音”が聞こえた。今度はメロディじゃない。誰かがどこかで、ただ声を出しただけの音。港の作業員かもしれない。子どもを呼ぶ親かもしれない。それなのに、幹夫は自分の名前を呼ばれた気がした。
気がしただけ。でも、気がする、というのは体が反応したということだ。体が反応するなら、それは“なかったこと”にはできない。
幹夫は一歩だけ前に出て、母の手提げ袋の持ち手に、自分の指先を軽く添えた。奪わない。支えないほど離れない。ただ、そこに触れていることが伝わるくらいの重さで。
母は何も言わなかった。言わない代わりに、袋を握る指の力がほんの少し緩んだ。緩んだことが、返事みたいだった。
帰り道、車の窓に夕焼けの色が映った。オレンジと薄い紫の境目が、ゆっくり滲んでいく。滲む境目は、はっきりしないのに、確かに移ろう。移ろうものは、説明しない。移ろいながら、次の色を連れてくる。
父が運転席から短く言った。
「……疲れたか」
幹夫は首を振った。疲れていないわけじゃない。けれど、この疲れは、いつもの疲れとは違う。何も起きない一日で溜まる疲れではなく、起きたものを抱える疲れだ。抱える疲れは、どこかで身体が「生きてる」と言ってくる。
家の近くに戻ると、茶畑の匂いがまた戻ってきた。潮の匂いが薄れ、土と葉と、夕方の湿り気が混ざる。遠くで、また防災無線のメロディが鳴った。今度は畑の向こうから聞こえる。さっきまで港で聞いていた音と同じなのに、届き方が違う。音は同じでも、場所が変わると意味が変わる。
軽トラが家の前で停まる。ドアを開けた瞬間、父が幹夫を見ずに言った。
「幹夫」
ただ名前だけ。呼び方も、語尾も、何もついていない。でも、その呼び方には“ここにいるか”が含まれていた。
幹夫は、いつもなら小さく頷くだけで済ませたかもしれない。けれど今日は違った。遠くで聞こえた呼ぶ音が、堤防の上の紙の鳴る音が、歩く靴音が、胸の奥で一本に繋がってしまったから。
幹夫は、短く返した。
「……うん、いる」
声は大きくない。でも、沈まなかった。夕暮れの中で、ちゃんと立った。
家の中から祖母の湯を沸かす音がした。湯気の匂いが、戸の隙間から漏れてくる。遠くで誰かが呼んでいる。その“遠く”が、今日は少しだけ近くなった気がした。




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