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そして街に人が来なくなった

  • 山崎行政書士事務所
  • 3 日前
  • 読了時間: 18分
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 雨上がりの午後、川島徹は、東山の高台に建つマンションのロビーでタイムカードもない自分の一日の始まりを確認した。外商は時計よりも顧客の生活リズムで動く。 エレベーターの鏡に映る自分のネクタイを軽く直し、最上階のペントハウスのインターホンを押す。

「はい、川島さん? どうぞ」

 柔らかい声と同時に、オートロックが外れる。 ドアを開けたのは、長年の得意先・鳴海夫人だった。七十代半ば、白髪混じりのボブヘアに、今日もきちんとアイロンのかかったブラウス。足元は、徹が三年前に納めたイタリア製のローファーだ。

「まあ、雨、やんで良かったわねえ。今日は重いもの?」

「いえ、今日はカタログ中心です。新作のバッグがいくつか入りまして」

 リビングに通されると、窓の向こうには、薄く霞んだ青坂市の中心部が見渡せた。かつては雑居ビルの看板が競い合い、街の真ん中には、白い箱のような建物の屋上に「LUMO SQUARE」のネオンが輝いていた。 そのネオンは、もうすぐ消える。

 テーブルにカタログを並べようとしたとき、鳴海夫人がテレビのリモコンを手に取った。ニュース番組のテロップが、静かに流れている。

『青坂ルモスクエア 2027年1月末で営業終了』

 その文字が画面の下段に出た瞬間、夫人は短くため息をついた。

「……やっぱり、本当だったのねえ」

 徹は一瞬、言葉を失った。 社内の朝礼で知らされていたニュース。けれど、顧客の口から改めて聞くと、違う重さを帯びる。

「ご存じだったんですね」

「昨日から、町内会のLINEがそればっかりよ。若い人たちは“まあそうだよね”なんて言ってたけれど……」

 夫人は窓の向こうの街を見下ろした。

「青坂ルモの看板が外れて、違う商業施設になってくれると良いのですが……」

 その言い回しは、まるで独り言のようだった。 徹は相づちを打ちながら、胸の奥にひやりとしたものを覚えた。

 ——看板が外れる。 ——違う何かが入るかもしれない。 けれど、その「違う何か」が、街に人を呼び戻すとは限らない。

 外商という仕事を続けて二十年。彼は、そのことを誰よりも知っていた。

* * *

 株式会社青峯百貨店・青坂本店。 古株の社員は、未だに「青百(あおひゃく)」と呼ぶ。

 ガラス張りの外壁に、白いロゴ。駅北口から続くアーケードの終着点に、どっしりと構えている。 その本館八階、会議室Cで、臨時の店長会議が開かれていた。

 資料の表紙には、太いゴシック体で一行。

『青坂ルモスクエア営業終了に伴う影響分析(暫定)』

 徹は外商部代表として末席に座っていた。 正面のホワイトボードの前に立った経営企画部長が、慣れた手つきでリモコンを操作する。

「——以上が、現時点で判明している情報です。運営会社のアーバンリンク社は、建物賃貸契約の満了と商業環境の変化を理由に、2027年1月末での撤退を決定。テナント取扱高は昨年度で約82億。雇用者数はテナント・派遣・パート含め、推計五百〜六百名」

 ざわ、と空気が動く。 同じフロアの婦人服フロアマネージャーが手を挙げた。

「取扱高八十億って、うちの半分近くですよね。そんな規模のところが抜けたら、街からどれくらい客が減るんでしょうか」

 経企部長は一瞬苦い顔をして、次のスライドを映した。

「その試算がこちらです。あくまで机上ですが、ルモの取扱高のうち、当店に流入し得るのは多く見積もって一割強。残りは、駅ビルのヴェルナや、郊外モール、ECに流れると見ています。 短期的には、当店の化粧品や服飾雑貨、食品で売上増が見込める一方、街全体の来街者数は中長期で確実に減少します」

 スライドには、棒グラフがいくつも並んでいた。 「2028年」「2030年」「2035年」。 青峯百貨店の売上高予測ラインは、最初の数年だけわずかに上向き、その後、なだらかに下り坂になっていく。

「……つまり?」

 店長が低い声で問いかける。

「つまり、ルモの撤退で、当店は三年ほど“おこぼれ”をもらえますが、十年スパンで見ると、街の磁力低下に巻き込まれて減収に向かう可能性が高い、ということです」

 室内が静まり返る。

 徹は、そのグラフを眺めながら、胸のうちで別の数字を思い浮かべていた。 外商顧客リストに並ぶ名前の横に書かれた年齢。 七十代。八十代。六十代後半。

 彼らが十年後、生きている確率。 そのころ、この街に“新しい富裕層”がどれだけ残っているか。

「外商の川島君」

 名前を呼ばれ、徹は背筋を伸ばした。

「はい」

「ルモ撤退に関する、お客様の反応は?」

 店長の質問に、徹は鳴海夫人の言葉を思い出した。

「……“寂しい”というのがまず一つ。 ただ、それ以上に、“空いたあとに何が入るかが怖い”という声が多いです」

「怖い?」

「はい。空きビルのまま放置されるのか、それとも、街に人を呼ぶ別の施設になるのか。 どちらに転ぶかで、青坂の未来が決まる——そんな感覚をお持ちの方が多い印象です」

 店長はしばし沈黙し、やがて小さくうなずいた。

「……だろうな。 看板が外れて、そのまま黒い箱になったら、うちは確実に足を引っ張られる」

 経企部長が続ける。

「市役所や青坂銀行、アーバンリンク側と、中心市街地活性化協議会を立ち上げる動きがあります。当店も参画要請を受けています。外商部からも、川島君に出てもらうことになると思う」

「私が、ですか?」

「外商は街全体を見て回っている。 数字だけじゃなく、顧客の肌感覚を話してくれた方が、机上のプランより説得力がある」

 徹は、資料の束を見つめた。 ルモスクエアの白い箱の写真が、そこに貼られている。 彼が高校生のころ、最初にあのビルを見上げた日の光景が、ふいによみがえった。

* * *

 高校二年の夏。 蝉の声ばかりがやたらと大きくて、アスファルトから立ち上る熱気で視界が揺れていた。

「なあ、これ、東京っぽくね?」

 同級生の田所が、青坂ルモスクエアを見上げて言った。

 白い外壁。ガラス張りのショーウィンドウ。開業を伝える垂れ幕。 「LUMO SQUARE 3.15 GRAND OPEN」

 地方都市に住む十七歳の少年にとって、そのビルは確かに“東京の匂い”がした。

「おまえ、東京行ったことないだろ」

「テレビで見たんだよ、原宿のやつとかさ」

 徹は笑いながら、でも心のどこかで同じことを感じていた。

 ——この街にも、こういうのができるんだ。

 エスカレーターで上がったフロアには、知らないブランドが並んでいた。 カラフルなロゴ。店員の明るい声。音楽。 緊張して何も買わなかったけれど、あの日、徹は確かに「自分もこの街の一部だ」と少しだけ誇らしくなった。

 それから二十年以上。 あの白い箱は、青坂の「若さ」と「都会らしさ」の象徴であり続けた。

 だからこそ、いま、その看板が外れるというニュースは、街の未来から色が抜けるような感覚を伴っていた。

* * *

 中心市街地活性化協議会の初回会合は、市役所別館の会議室で行われた。

 長机がロの字型に並べられ、名札が置かれている。

 青坂市都市政策部、青坂銀行、青峯百貨店、駅ビルヴェルナ、アーバンリンク青坂支社、商店街連合会、地元大学、そして中小の不動産会社。

 徹の名札には「青峯百貨店 外商部課長 川島徹」とあった。 右隣には、青坂銀行の都市開発担当・朝倉の名札。左隣には、ルモテナント会の代表と書かれている。

「本日はお忙しいなか、ありがとうございます」

 市の都市政策部長が、やや硬い挨拶をした。

「ご存じのように、ルモスクエアの撤退は、青坂中心部にとって大きな転換点です。本協議会では、跡地の利活用を含め、今後十年の中心市街地のあり方を議論していきたいと思います」

 最初は形式的な資料説明が続いた。 人口動態グラフ。小売販売額の推移。空き店舗率。 見慣れた数字だったが、ルモの撤退通知が加わるだけで、どのグラフも薄く赤みを帯びて見える。

「アーバンリンクさんとしては、現時点でのお考えは?」

 朝倉が問う。スーツの襟元はいつもきちんとしていて、声も無駄がない。

 アーバンリンク青坂支社長の広田は、少し困ったように笑った。

「契約上、現建物の所有者はオーナー企業でして、当社は運営を受託している立場です。現時点では、契約満了までは現状維持、その先についてはオーナー企業の意向を踏まえつつ、中心街の皆さまと連携しながら検討したいと考えております」

 ——何も決まっていません。 ——でも怒らないでくださいね。

 という、よくある答えだ、と徹は感じた。

「撤退を決められた理由は、やはり収益性の問題でしょうか」

 商店街連合会の会長が、やや食い気味に尋ねる。

「収益がまったく出ていないというわけではありません。ただ、今後の設備更新費用や、周辺商圏の競合状況、オンラインの伸長……そういった要素を総合的に勘案しまして、中長期的な投資効率を鑑みた判断です」

 わかりやすく言えば、「今は黒字でも、十年後には怪しい」。 だから、契約が切れるタイミングで逃げる。 合理的だ。徹ももし投資家なら、同じ判断をするかもしれない。

 都市政策部長が、少しだけ身を乗り出した。

「跡地の利活用として、市としては“人の流れを生む複合施設”を望んでいます。単なるオフィスビルではなく、商業、文化、ホテル、住宅、オフィスが一体となったような……」

 徹は、経企部が作った社内資料を思い出した。 「都市コア構想」と大きく書かれたPDF。 彼自身も、鳴海夫人の一言がきっかけで、それが良いのではと思うようになっていた。

 しかし、朝倉が冷静に言う。

「市の思いは理解しますが、事業採算性が確保できないと、銀行としても融資は難しい。 人口減少、商圏の縮小、オンラインシフト。前提が厳しいなかで、大規模複合開発は相当なリスクです」

 会議室に、重い空気が流れる。

 そのとき、不意に「ルモテナント会代表」の名札の人物が手を挙げた。 二十代後半くらいの女性。黒髪をひとつに結え、シンプルなワンピースを着ている。

「すみません、発言してもよろしいですか」

「どうぞ」

「ルモ四階の服飾雑貨店『aLio』の店長、良村と申します。 今日ここに呼ばれたのは、“テナント側の声も聞くため”と伺っていますが……正直、置いてけぼりにされている気がして」

 都市政策部長があわてて言葉を継ぐ。

「い、いえ、そんなつもりでは——」

「私たちにとっては、“十年後の都市構造”じゃなくて、“来年の仕事”が問題なんです」

 良村の声は震えていなかった。 どこか静かな怒りを含んでいるように聞こえた。

「ルモがなくなったら、スタッフはどうするのか。お客さんはどこへ行くのか。 私たちは、青坂の街が好きで、ここで店をやっているんです。 だから、“もう伸びないから撤退します”“人口が減るから投資しません”って言われるのは……すごく、悔しいです」

 徹は、彼女の横顔を見つめた。 黒目がちの瞳は、まっすぐ前を向いていた。

 ——若いころの自分にも、あんな熱量があっただろうか。

 朝倉が、少しだけ表情を和らげた。

「お気持ちは理解します。ただ、現実として……」

 その先の言葉は、会議室のざわめきにかき消された。

* * *

 その夜、徹は自宅のダイニングテーブルでノートパソコンを開いた。 妻はすでに寝ており、リビングの時計だけが静かに時を刻んでいる。

 Xの画面を開く。 仕事用ではなく、十年前に作った個人アカウント。フォロワーは百人にも満たない。 プロフィール欄には、「青坂在住/本と街歩きが好き」とだけ書かれている。

 スマホで撮った、薄暗いルモの外観写真をアップロードした。 昼間の会議のあと、帰り道に寄り道して撮ったものだ。 白い箱の周囲には、まだ人影があったが、どこか寂しげに見えた。

 キーボードを叩く。

『青坂ルモの看板が外れて、違う商業施設になってくれると良いのですが——。 でも、あそこが単なるオフィスビルになったり、空き箱のままだったりしたら、その瞬間から、少しずつ、街に人が来なくなっていく気がします。 今日、会議でそんな話をしてきました。』

 “ポストする”ボタンを押す指が、少しだけ震えた。 勤務先や実名は出していない。けれど、書いていることの重さは、自分でもわかっていた。

 数分後、「いいね」が二つ付いた。 見知らぬユーザーと、地元の喫茶店のアカウントだった。

* * *

 翌日、外商部のフロアで、後輩の木村が声をかけてきた。

「課長、昨日のポスト、見ましたよ」

「……え?」

「“ルモの看板が外れたら”ってやつです。うち、ああいうの内密なんで、気をつけてくださいねって話じゃなくて……すごく、刺さりました」

 木村は三十代前半。 まだ外商見習いで、主に店内カウンターを担当している。

「なんで知ってるんだ。フォローしてたか?」

「いえ、いま朝からずっと、地元界隈でバズってますよ。リツイートが何千って」

「は?」

 徹は慌ててスマホを取り出した。 Xの通知欄は、真っ赤に染まっていた。 いつのまにかフォロワーが五千人を超えている。

『“街に人が来なくなっていく気がします”って表現、すごくわかる』『青坂ルモ世代としては、マジでつらい』『うちもルモのテナントです。涙出た』『これ、市長に読ませたい』

 見知らぬ人たちの言葉が、次々と画面に流れ込んでくる。 喫茶店、古本屋、若いイラストレーター、高校生、子育て中の母親——。

 徹の胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めていた。

* * *

 数日後、都市政策部から電話が来た。

「川島さん、先日のポスト、拝見しました」

 電話の向こうで、部長が苦笑しているのがわかる。

「すみません、問題でしたか」

「いえ、むしろ……あれを読んだ市長が、“一度、あの外商さんと話してみたい”と言ってましてね」

「市長が?」

「ええ。ルモ問題を、単に『ビル一棟の話』ではなく、『街の物語』として伝えてくれたのが良かった、と。 よろしければ、来週、市長との意見交換の場を設けたいと思います」

 徹は、電話を持つ手に力が入るのを感じた。

「……私でいいんですか」

「むしろ、専門家でもなく、利害のど真ん中にいるわけでもない、街の“当事者”の声を聞きたいそうです。 外商は、その意味で最適だと、私も思いますよ」

* * *

 市長室は、想像していたよりも質素だった。 三人掛けのソファ。小さなテーブル。壁には、青坂の古い鳥瞰図が掛けられている。

 市長の斎藤は五十代前半。 もともとは都市計画コンサルタントだったという経歴の持ち主らしく、ジャケット姿もどこか軽やかだ。

「いやあ、あのポスト、うちの職員もみんな読んでましてね」

 斎藤は開口一番、そう言った。

「“そして街に人が来なくなっていく気がします”——あの一文が、すべてを言い当てていると思いました」

「恐縮です。ただ、私個人の感想です」

「個人の感想に、街を動かす力があることもあるんです。 川島さんは、外商として、どんな風に街の変化を見てこられましたか?」

 徹は、少しだけ考えてから話し始めた。

 駅前再開発で古い市場が消えたこと。 ルモができた日のこと。郊外に大型モールが増えて、中心街の靴屋や電器店が閉まっていったこと。 外商顧客が駅前マンションから郊外の戸建てに移っていった変化。 そして、最近、街へ出る回数そのものを減らしている高齢顧客が増えていること——。

「……ルモができたとき、僕は高校生でした」

 徹は、ふと口にしていた。

「東京に行かなくても、“都会”がここにある気がして、すごく嬉しかった。 たぶん僕と同じ世代の人間は、みんなあそこで何かを買ったり、ただ歩き回ったりして、“街”を覚えたんだと思います。 だから、あの看板が外れるって聞いたとき、胸の中で何かがひとつ、終わってしまったような気がしました」

 斎藤は静かに頷いた。

「私は、ルモより少し上の世代ですがね。 昔は、この街に、百貨店が三つあった。映画館も、一つじゃ足りなかった。 でも、どんどん減ってきた。 今回のルモの撤退は、その流れの“最後の太い血管”が切れるような感覚があります」

「……それでも、市長は、何か作ろうとしている」

「そうしないと、この街は本当に“人が来なくなった”で終わってしまう。 ただ、行政だけでは何もできません。民間の投資が必要だし、銀行の判断もある。 そこで、あなたの“都市コア構想”のポストを見たんですよ」

「都市コア、ですか」

「複合施設の話を書いていましたよね。商業、文化、ホテル、オフィス、住宅を組み合わせた——」

 徹は内心で驚いた。 あれは、会議の帰りに、ふと頭に浮かんだアイデアを、ラフに書いただけだった。

「あんなものは、素人の思いつきで……」

「いいんです。 むしろ、“街の中で生きている人”の素人の思いつきの方が、大型デベロッパーのプレゼン資料よりも、現実に近いことがある。 だから、お願いがあります。 市のプロジェクトチームに、“市民代表”として入ってもらえませんか。 もちろん、本業に支障のない範囲で」

 徹は、答えに迷った。

 百貨店の外商課長という立場。 家のローン。二人の子どもの学費。 変化より安定を望む年齢。

 ——それでも。

 鳴海夫人の横顔。 良村店長のまっすぐな視線。 ルモの白い箱。 Xのタイムラインで、あのポストに共感してくれた無数の声。

「……やらせてください」

 徹は、そう答えていた。

* * *

 それからの数ヶ月、彼の生活は少しずつ変わった。 外商として顧客を回る合間に、市役所でのミーティングに顔を出し、夜はオンライン会議で建築家や若い起業家たちと意見を交わす。

 ルモ跡地に何を作るべきか。 市民からのアンケート。高校生のワークショップ。小さなカフェで開かれる意見交換会。

 ある夜、ルモの近くの路地で開かれたオープンマイクイベントに顔を出したとき、良村がマイクを握っていた。

「——私たちが欲しいのは、新しい“箱”じゃなくて、“行きたい理由”です」

 彼女は言った。

「買い物でも、ライブでも、映画でも、勉強でも、仕事でもいい。 ここに来ないとできないことが、何かひとつでもある場所。 そういう場所があれば、この街に住み続けたいって思える」

 拍手が起こる。 徹も、手を叩きながら、自分の胸の中にも同じ願いがあることを感じていた。

* * *

 しかし、現実は理想のスピードでは動かない。

 アーバンリンクの本社は、慎重だった。 オーナー企業は、リスクを嫌がった。 青坂銀行は、採算性のシミュレーションに首をひねった。

「川島さん、気持ちはわかるんだけどね」

 朝倉が、ある日、喫茶店で言った。

「複合施設っていうのは、投資額が大きいわりに、リターンが読みにくい。 ホテルはインバウンドが戻らないと厳しいし、オフィスはリモートワークの流れで需要が減っている。 住宅だけならまだしも、商業と文化施設を入れたら、維持費がかさむ」

「でも、オフィスビルだけにしたら——」

「街は確実に死ぬ。 それは僕もわかってる。 だから、今、僕らは、数字と“街の寿命”の両方を見ながら、ギリギリの線を探してる」

 朝倉は、コーヒーをひと口飲み、少しだけ笑った。

「君のポスト、家でも話題なんだよ。 うちの中学生の息子が、“なんで大人はすぐ諦めるの?”って聞いてきてさ」

「……なんて答えたんですか」

「“諦めてるわけじゃなくて、怖いんだよ”って。 実際、怖いよ。 でも、怖いままだと、何も変わらないんだろうな」

* * *

 季節は、春から夏へ、夏から秋へと変わっていった。

 ルモの館内には、閉店セールのポスターが増えていた。 エスカレーターの手すりに貼られた「THANK YOU 20 YEARS」の文字。 通い慣れた制服姿の店員たちが、いつもより少しだけ明るく客に声をかけている。

 ある日、徹は妻と高校生の娘を連れて、久しぶりにルモを歩いた。 娘は、スマホであちこちの写真を撮っている。

「なんか、ここで制服のままプリ撮ってる高校生とか見るとさ、変な気分」

「どういう気分だ」

「“まだここで時間が流れてるんだな”って感じ。 でも、終わるんでしょ、ここ」

 娘は、四階の吹き抜けを見下ろしながら言った。

「ねえ、お父さん。 もしこのビルがさ、全部オフィスになったら、街ってどうなると思う?」

 徹は、返事に詰まった。

「人が、来なくなるかもしれないな」

「うん。 なんか、“買い物”っていうより、“行きたい場所”がなくなるって感じ。 私、ここで友達とずっとしゃべってた時間の方が、買ったものより覚えてるもん」

 それは、二十年前の徹自身の感覚と、驚くほど重なっていた。

* * *

 ルモ閉館が近づくにつれ、青峯百貨店には、目に見える変化が出てきた。

 週末の化粧品売り場には、いつもより若い客が増えた。 靴売り場には、ルモで働いていたらしい女性スタッフが彼氏と一緒に来て、スーツを選んでいた。

 しかし、その一方で——。

 紺屋町通りの古い喫茶店が、一つ、また一つと店じまいしていった。 「後継者不在」「体力の限界」という貼り紙。 ルモが消える前から、静かに街の灯りは減っていたのだ。

 鳴海夫人のもとを訪ねたある日、彼女はこんなことを言った。

「私ね、最近、街に出るのが怖くなってきたんです」

「え?」

「昔みたいに、ふらっと歩けなくなった。 見慣れた店がなくなっているのを見ると、心細くて。 でも、川島さんが来てくれるから、まだ“街と繋がってる”気がするのよ」

 外商の仕事が、突然、別の意味を帯びて感じられた。

 ——ものを売るだけじゃない。 ——街と人の間の、最後の細い糸なのかもしれない。

* * *

 2027年1月末。 ルモスクエアの最終営業日。

 吹き抜けのステージでは、ささやかな閉館セレモニーが行われていた。 テナントスタッフと常連客が集まり、拍手と涙と笑いが入り混じる。

「二十年間、本当にありがとうございました!」

 館長がマイクを握りしめ、声を震わせながら挨拶をする。 徹は、少し離れた場所からその様子を見ていた。

 隣には、良村がいた。

「これで、本当に終わりなんですね」

「終わりでもあり、始まりでもありますよ。 あなたたち、次はどこで店をやるんですか」

「まだ決めてません。 でも、青坂で続けたいとは思ってます。 この街が、まだ“やれる”なら」

 徹は、彼女の横顔を見た。

「やれますよ。 少なくとも、俺はそう信じたい」

 閉館のアナウンスが流れ、シャッターが一つずつ下りていく。 照明が落ち、館内のざわめきが少しずつ静かになった。

 最後の一枚のシャッターが閉まる音が、青坂の冬の夜空に響いた。

* * *

 数ヶ月後。 ルモの看板は外され、白い外壁だけが街の真ん中に取り残された。

 工事用のフェンスには、「ABE TOWER PROJECT」の仮称が掲げられている。 新しい計画名だ。 “複合施設”と、“高層オフィス棟”の折衷案。

 市や銀行、アーバンリンクとオーナー企業が、ぎりぎりまで調整した結果だった。

 計画では——。

 一〜三階にカフェや書店、ギャラリーを含む小規模商業。 四〜八階にシェアオフィスとコワーキングスペース。 九〜十八階に中規模のホテル。 十九〜二十五階に都市型レジデンス。

 理想からはほど遠いが、最悪の「全面オフィスビル」でもない。 徹は、それを「引き分け」と呼んだ。

「勝ちじゃないですか?」

 朝倉はそう言った。

「少なくとも、“街に人が来なくなる未来”からは半歩だけ遠ざかった。 あとは、この箱に、ちゃんと“行きたい理由”を入れられるかどうかですね」

 徹は頷きながら、フェンスの向こうの白い箱を眺めた。

 すぐに人が戻るわけではない。 工事は数年かかる。 その間に、また何軒かの店が消えるかもしれない。

 青峯百貨店も安泰ではない。 館内では、フロア再編と人員削減の噂が絶えない。

 ——それでも。

 鳴海夫人は、相変わらずカタログを楽しみに待ってくれている。 良村は、駅近くの細い路地に、小さなセレクトショップを開いた。 Xでは、今も誰かが街のことを語っている。

 徹は、自分のアカウントを開き、新しいポストを書いた。

『街に人が来なくなるのは、一日で起きるわけじゃない。 ある日、看板が外れて、 お気に入りの喫茶店が一つ閉まって、 いつの間にか、バスの本数が減って、 買い物よりECが便利になって—— そうやって少しずつ、静かに起きる。

 その流れを、完全には止められないかもしれない。 でも、半歩でも遅くすることはできると信じたい。 今日も、外商バッグを持って、街を歩きます。』

 “ポストする”ボタンを押す。 画面の向こうで、誰かが読んでくれるかもしれないし、誰も読まないかもしれない。

 それでも構わない、と徹は思った。

 彼の足元には、まだ、人が歩くためのアスファルトがあり、 彼の肩には、街と人をつなぐカタログの重みが乗っている。

 そして街に人が来なくなった——と、いつか本当に言われてしまう日が来るのか。 それとも、ぎりぎりのところで踏みとどまるのか。

 答えは、まだ、どこにも書かれていない。 彼はコートの襟を立て、冬の風の中に一歩踏み出した。

 
 
 

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