たんぽぽは風の切手を刷る
- 山崎行政書士事務所
- 2025年8月23日
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丸子川の土手の外れに、小さな菜園がありました。茄子の花は群青で、ねぎの影は糸のように細く、そのあいだに野のたんぽぽが何株も立っていました。幹夫は学校帰りにそこへ寄り、いつもの地図帳をひらきます。 一〜九ページまで、風の地図、水の字、海の拍子、砂のアルバム、光の地図、黄昏の綴じ糸、梅の暦、潮の宛名、そしてトンボの座標。 まだ白い十ページ目の上に、幹夫はそっと題を書きました。〈たんぽぽ——風の切手〉。
そのとき、黒い細身のトンボが一匹、つぼみのてっぺんに止まりました。透明な翅の脈は細い格子で、光を通すと稲の若葉の色が薄く混ざります。「やあ、幹夫くん」トンボが翅を一度だけカチンと鳴らしました。「きみ、空の座標を縫えるようになったんだって? なら、きょうは切手がいる」「切手?」「風の手紙にね。潮のページで宛名を書いたろう。投函するには切手が要る。たんぽぽが刷るんだ」
足もとのたんぽぽが、毛の多い茎をすこしだけのばして言います。「紙は空気。版木はわたしの綿毛。印刷所はここ」 たんぽぽのつぼみはまだ固いのに、奥で白い糸がかすかにふくらみ、ひそやかに笑いました。「作り方を教えるよ」「お願い」
「まず、風の色を決める。今日は南からの四拍子、タン・タン・タン・タン。丸子川は安倍川の子だから、水の字は静か。切手の地は淡い緑。 次に、**価(あたい)**を入れる。距離は畑から用宗の浜まで二つぶんの雲、あるいは駅北口の三角地まで列車五本分。だから〈二雲/五列〉。 さいごに、消印の場所を空けておく。幹夫くんの『名前の影』が来るところだよ」
幹夫はノートの余白に、記号を並べました。〈地=緑〉〈価=二雲/五列〉〈風=南・四拍子〉〈消印=影〉。 トンボは複眼を少し暗くして、空の座標を点検します。「原点は、ねぎの畝(うね)の角。その斜め向こう、菜園の支柱の結び目が東の標。——よし、印刷開始」
たんぽぽは、つぼみの口をほんのわずかに開きました。白い糸が、いっせいに空気の版木へ押しあたります。「刷ッ——」 見えない音がして、綿毛のひと粒が空へと抜けました。根もとのうすい乳白色が、走り書きのように光ります。「一枚めは浜あて」とトンボ。「広野の帯で、泡の手紙に重ねるんだ」 風がちいさくはずみ、綿毛は畑の外へ、丸子川の土手の上へ、そして用宗へ向かう角度で流れていきました。
「二枚め」たんぽぽが言いました。「これは駅前あて。三角地のひまわりへ」「だったら価は五列を濃く」 トンボが空で合図をすると、綿毛は列車の風の高さでふわりと浮き、商店街の屋根に沿って進みます。「三枚めは堀あて。黄昏の綴じ糸で閉じた天文台へ」「なら、余白を多く。堀は読者だから」 綿毛は影の薄いところを選ぶようにして上がってゆきました。
幹夫は十ページ目の下で、作業を追いかけるように書きとめました。〈一=浜/白帯に重ねる〉〈二=駅前/五列濃〉〈三=堀/余白多〉 そして立ち上がり、ねぎ畝の角に自分の影の中心をそっと落とします。 ——カン。 胸の奥で鐘がひとつ鳴り、消印の場所にうすい金色の輪が残りました。
そのあいだにも、トンボは座標を糸で縫い直し、たんぽぽは黙々と刷り続けます。風は四から五へ、タン・タタンに寄り、価の「五列」がすこしだけ重くなりました。 やがて、つぼみの内側がいよいよ明るくなり、綿毛の束は小さな太陽みたいに丸くふくらみます。「きょうはここまで」とたんぽぽ。「印刷は午後の光で乾かす。——幹夫くん、ひとつ頼みがある」「なに?」「切手台帳を作って。どの風で、どの価で、どこへ届いたか。消印の鐘の数も」
幹夫は頷き、ページの余白に台帳の枠を描きました。〈日付/風/価/宛先/消印〉 そこへ、いま刷った三枚ぶんを書き込み、欄の端に小さな点を二つ打ちます。タン・タン——黄昏の綴じ糸の二拍子です。
夕方、丸子川の面は薄い錫(すず)の色になり、畑の支柱の影が長くのびました。 トンボはふいと高く舞い上がり、振り返って言います。「切手があると、手紙は帰り道を覚える。浜からの泡の返事、堀からの光の便り、駅前の影の鐘——ぜんぶ台帳に貼れる」 たんぽぽはうれしそうに綿毛を一つ揺らして、低くささやきました。「明日も刷るよ。風が違えば、色も価も変わるから」
家へ帰って机に地図帳を置くと、窓から駿河の風が入ってきて、十ページ目の「切手台帳」をそっとふくらませました。幹夫は最後の行を一本、置きます。〈風の切手=移動する印紙。価は距離と拍子、消印は名前の影。台帳に貼れば、手紙は帰り道を覚える〉
——風は道しるべ、水は文字、海は拍子、砂は配達、光は時刻、黄昏は綴じ糸、梅は暦、潮は宛名、トンボは座標。 そしてたんぽぽは、風便の切手職工。 ぼくは、その刷り上がりを記録して貼る、野の郵便の台帳係だ。





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