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ひまわりは風のほうを向く

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月20日
  • 読了時間: 8分

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静岡市の夏は、空がまるくふくらみ、午後になると海からの風がまっすぐ街へと差し入ってきます。幹夫はその風が好きでした。校庭の砂がさらさら鳴るのも、浅間通りの旗がいっせいに鳴子のように鳴るのも、ぜんぶその風のしわざだからです。

 放課後になると幹夫は、安倍川の堤へまわり、小さな空き地でひまわりに水をやります。そこは去年の台風のあと、川原の砂利と土がまざったままの、どこか未完成の島のような場所でした。誰が蒔いたのでもないのに、春の終わりごろからまるい葉が兆し、今では十数本のひまわりが、ばらばらの背丈で風見のように立っています。


 その日も、幹夫はペットボトルの水を注ぎながら、花たちに近況を話しました。テストが終わってうれしいこと。おばあちゃんが日本平からの富士の形は干物の扇みたいだと言ったこと。安倍川花火が近いこと。

 いちばん背の高いひまわりが、ゆっくり首を鳴らしました。

「幹夫くん、きみの言葉は水みたいだね」

 幹夫はびっくりして、ボトルを落としそうになりました。花がしゃべるなんて、教室の地理では習いません。でも、この堤の風はときどき、ふつうでないことをこっそり運んできます。

「ぼく、幹夫。君の名前は?」

「私はまだ種の名簿に載っていない。けれど、ひまわりはどれも太陽の弟子。きみが呼ぶなら、風羅(ふうら)でいいよ」


 風羅は、花びらの端をすこしだけたわませました。

「きみ、知っているかい。ひまわりはいつも太陽を追っているように見えるけれど、本当は風の流れを読んで立っている。太陽は姿勢の先生、風は足もとの地図。どちらが欠けても、私たちは倒れる」

「風の地図?」

「そう。駿河湾からの潮の風、山から降る砂の風。今日は海の風が勝つ日。だから街は少し塩の匂いがして、雲は右の肩をすこし上げている」


 幹夫は空を見上げました。入道雲が、ほんとうに片方の肩だけ持ち上げて歩いているように見えます。

「じゃ、ぼくの水やりは、地図とは関係ない?」

「大ありだ。私たちは光で絵を描き、土で文章を書き、そして水で声を出す。きみの水があったから、私は背丈をもうひと指ぶん延ばせたよ」


 幹夫は、胸のあたりが明るくなるのを感じました。

「ねえ風羅。今度の花火、いっしょに見たい?」

「見たい。けれど、その前にやることがある。台風が来るんだ。進みは遅いが、川は騒ぐ。ここはできたての島だから、根がまだ浅い。いくつかの仲間は倒れてしまうかもしれない。——幹夫くん、手伝ってほしい」

「何を?」

「星を守るんだ。私たちの頭の奥には、細い螺旋の星がぎっしり詰まっている。台風の夜に倒れれば、星は砂に散って読めなくなる。星が読めない種は、来年、道に迷う」


 幹夫はうなずきました。翌朝、学校へ行く前に空き地へ寄り、裂け始めた花の種を紙封筒に集め、日付と場所を書きました。帰り道には浅間神社に立ちよって、石段の涼しい日陰で封筒を乾かし、夕方には家の縁側でおばあちゃんの古い扇風機にあてました。

 その作業を、三日続けました。封筒は十をこえ、黒い小舟みたいな種が音符のように並びます。

「幹夫くん」風羅が言いました。「ありがとう。もう、だいじょうぶだ。あとは、風に道案内を頼めばいい」


 台風の前夜、日本平の稜線は、暗くなってからもかすかに明るく光っていました。街の窓の明かりと、港の作業灯と、雲の腹に反射した稲光が、山の端で混ざりあっていたのです。幹夫は封筒をリュックにつめ、カッパと長靴で家を出ました。向かう先は、三保の松原のはずれ、海へ出る風と川へ入る風が交差するところ。

 歩道橋の上で、風が幹夫のフードを持ち上げました。風はときどき、犬のしっぽみたいな癖を見せます。

「連れてってよ」幹夫は言いました。「種たちを、倒れない場所へ」

 風は返事のかわりに、街の旗や自転車のスポークや茶畑の細い葉を鳴らして、みんなで笑いました。


 松原の砂はまだ乾いていて、潮の匂いが濃くありません。遠く、清水港のクレーンがゆっくり歩くキリンの骨のように、空の低いところで動きます。

 幹夫は砂に小さな穴をほり、封筒の種をすこしずつ埋めました。松の根に近すぎないよう、風が教える等間隔に。

「ここなら、海の風が歌の練習をしている。倒れても、砂はすぐ乾く。春には、潮の光を知っているひまわりが立つだろう」

 風の声は、松の葉と重なると、かすかな鈴の音になります。

 帰り道、安倍川の堤まで戻ると、雨がぽつりぽつり落ちはじめ、風羅たちは肩を寄せ合っていました。

「きみは星をわけてくれた。こんどは私たちが、きみに地図をわけよう」


 夜の間じゅう、風は街のすべての隅を歩き回って、どこが高く、どこが低く、どこで音がよく響き、どこで言葉が飲み込まれるかを点検しました。台風は朝方に最も近づき、川の色はすこしだけ黒ずみましたが、堤は持ちこたえ、ひまわりは二、三本が折れただけで済みました。折れた花は、幹夫の古い理科のノートで乾かし、栞にしてやりました。


 数日後の夕暮れ、空はすっかり洗われたように青く、駿河湾の方角から透明な風が戻ってきました。

「花火だね」風羅が言いました。「光の砂が空に播かれる日」

 堤には人が集まり、屋台の匂いが川面へ群れていきます。幹夫は、リュックからもう一枚の封筒を取り出しました。それは、風羅自身の種を集めたものです。

「この種はね、街のまんなかに蒔くつもりなんだ」

「街のまんなか?」

「駅の北口の、誰も振り向かないちいさな三角地。夏は土が硬くて、空はいつも列車の金属色を映している。あそこに一本、立ってほしい」


 風羅は少し考えるように、花びらを合わせました。

「いい地図がいる。線路からの風は、きまぐれで速いから」

「ぼくが毎日、水で声を出すよ」

「では、約束しよう」


 花火が上がりました。黒い空の器に、火の粉がこまかい文字でつづり、すぐに消えます。遠い雷のような音が、いくつも遅れて堤の背骨を伝い、幹夫の胸に集まってきました。

 最後の大きな花がひらいたとき、風羅はひそかに種を一粒、幹夫の手に落としました。

「これは、風を読む練習をした種。きみのポケットで、しばらく街の音を覚えさせてやって」


 夏休みが終わるころ、駅北口の三角地には、背の低い芽が一本立ちました。通勤の人たちはだれも見ません。けれど、朝の通学列で幹夫が手をふると、芽は目に見えないほど小さく、しかしたしかに、風のほうへ首を動かしました。

 秋になると、芽は人差し指ほどの太さになり、幹夫の肩の高さまでのびました。冬の間、幹夫は古い毛糸の帽子を棒の先にかぶせ、霜の朝には紙の筒で風よけを作りました。風は相変わらず列車の金属色を運んで来ますが、芽は倒れません。

 春、駅前の喧騒にまぎれて、葉の縁がうすい金色を帯び始めました。幹夫は授業のあと、図書室で風と土の本を読み、帰りに三角地の土をほぐしました。

 五月の末、幹夫がいつものように水をやっていると、見知らぬおばさんが近づいてきました。

「この花、あなたが世話しているの?」

「はい」

「毎朝、見ているよ。ここだけ季節の速度が違うのね」


 六月の雨を越え、七月の光がはっきりと高くなるころ、三角地のひまわりは、駅の屋根よりも高くなりました。朝の列車が入ってくるたび、車輪の風が葉を裏返し、花は大きな耳のようにその音を聴きます。

 ある朝、幹夫が水をやっていると、葉かげから小さな声がしました。

「幹夫くん」

 駅前のひまわりがしゃべるのは初めてでした。

「きみ、もしかして——」

「そう。私は風羅の友だち。きみのポケットで冬を越えた種だよ」


 幹夫は笑いました。すると、駅の構内アナウンスさえ、ひまわりの自己紹介の拡大版みたいに聞こえました。

「ここでも、風の地図は読める?」

「読めるよ。川の風も港の風も列車の風も、どれも毎日ちがう。だから私は毎朝、あらたに向きを決める。——ねえ幹夫くん、きみは今年も種を集めるかい?」

「もちろん。今度は街じゅうでやる。浅間通りにも、巴川のほとりにも、日本平の茶畑の端にも。風の通り道に沿って、星を配ろう」

「いいね。ひまわりの地図が、静岡の上にすこしずつ浮かび上がる」


 その夏、幹夫は封筒の数をさらに増やしました。駅前の花からも、安倍川の空き地からも、三保の砂のうえからも、すこしずつ星を集めました。封筒には日付と場所、それから「風のきぶん」を短く書きました。「南から塩の味」「山から砂の声」「列車の音、速い」——それは、ひまわりのための航海日誌のようでした。


 秋の入口、幹夫は三保へ行き、春に埋めた場所を見に行きました。松原の砂はやわらかく、低い芽がいくつも並び、海の光を小さな皿で受けとめていました。

 浜で風が言いました。

「きみは、太陽の弟子たちに、街の言葉を教えたね。来年、ここは黄色い羅針盤になる。海から来た鳥も、港へ帰る船も、ちょっとだけ迷わずに済むよ」

「ぼく、まだ何もたいしたことしてない」

「そうかな。地図はいつも、だれかが最初の印をつけるところから始まる。きみの印は、目には見えなくても、風はちゃんと読んでいる」


 冬、ひまわりの茎は風の骨のように固くなり、街の色は薄くなりました。幹夫は封筒の束を机の引き出しにしまい、時々取り出しては、紙から立ちのぼる夏の匂いを嗅ぎました。

 春がくるころ、幹夫は考えました。来年は学校の理科委員として、「街の風の地図」を作ろう。種を蒔く場所、風がよく通る筋、土の手ざわり、光の角度。ひまわりは点、風は線、ぼくたちの歩く道は面。——そうやって描けば、静岡市は大きなページになる。


 やがてまた、駿河湾からの風が軽くなる日が来ました。幹夫は堤へ行き、空き地の真ん中に立つ若葉を見ました。

「風羅、今年も会おう」

 若葉はまだ名前を持たず、ただ青い耳を微かにそばだてていました。

 けれど幹夫にはわかります。ひまわりは風のほうを向き、街はその背中を受けとめる。太陽は先生で、風は地図で、そしてぼくは、声を運ぶ水なのだと。


 その夏の終わり、駅前の三角地で、一本のひまわりがゆっくりと首を回し、夕日のほうを向きました。列車が通り過ぎるたび、花びらは小さく拍手をし、幹夫は心のなかで答えました。

——また種を集めて、また地図をひろげよう。

 駿河の風は、ちょうどそのとき、紙の封筒をそっとふくらませて、すこし先の夏のページをめくりました。

 
 
 

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