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みかん畑の小さな声


第一章 晩秋の畑で

昭和二十五年、晩秋の午後。幹夫は、家族とともにみかん畑へ向かっていた。山裾に広がる畑には、秋の日差しを受けて橙色に輝くみかんの実が鈴なりになっている。澄んだ青空の下、冷たい風が時おり吹き抜け、木々の葉をさらさらと揺らしていた。

幹夫は七歳、小学一年生だ。大家族の末っ子に近い存在で、兄や姉が何人もいる。兄姉たちは元気いっぱいで、畑仕事も遊びもいつも賑やかだ。その中で幹夫だけは、どこかおっとりとしていて、心が優しく繊細だった。小さなことにもすぐ心を動かされ、人の気持ちや風の音、空の色の移ろいにさえ敏感だった。

周りの兄弟たちは、木登りをしたり駆け回ったり、笑い声を上げながらみかんを収穫している。幹夫も籠(かご)を持って手伝おうとするが、まだ背が低く、高い枝のみかんには手が届かない。兄の一人が木に上って脚立の上から器用に実をもぎ取り、ぽとりと下に落とした。それを幹夫が拾って籠にそっと入れる。みかんの肌に触れるとひんやりして心地よく、手に残る柑橘(かんきつ)の香りに幹夫は思わず微笑んだ。

しかし、賑やかな兄弟たちに囲まれていると、幹夫はときどき胸の奥がきゅっとするのを感じる。自分だけが少し違う。皆のように元気いっぱいにはしゃぐことができず、一人静かに空や木々を眺めてしまう自分。「どうして僕はみんなと同じようにできないのだろう」――そう思うことが幹夫にはよくあった。それでもその気持ちを誰かに打ち明けることはできない。大好きな家族を悲しませるのが怖かったし、自分でもうまく言えなかったのだ。

この日も、兄弟たちの輪から少し離れて畑の隅で実を拾っていた幹夫は、ふと足を止めた。背後で母や姉たちが楽しそうに話す声がする。遠くでは父が荷車に木箱を積み込む音がかすかに聞こえた。そんな人々の気配の中にいても、幹夫の心は静かに周囲の別の音に耳を澄ましていた。

ふいに、幹夫の耳に小さな声が届いた気がした。「…き…お…」――今、誰かが自分の名前を呼んだだろうか? 幹夫ははっと顔を上げ、左右を見回した。近くには誰もいない。兄弟たちは反対側の木陰にいるし、ここには幹夫一人のはずだ。首をかしげていると、またか細いささやきが聞こえた。今度は名前ではなく、何か歌のようにも聞こえる。低く抑えた調子で、「ひゅう、ひゅう…」と風が唸っているのかもしれない。

幹夫は籠を地面に置き、音のする方へ歩み寄った。みかんの木々の間、少し奥まったところに古い大木が一本立っているのが見えた。おそらく柿の木か何かだろうか、枯れかけた枝にわずかな葉を残すその木のあたりから、先ほどの声が聞こえた気がする。幹夫は心臓を高鳴らせながら、そろそろと大木に近づいた。

「……幹夫…」確かに聞こえた。今度ははっきりと。誰かが自分を呼んでいる! 幹夫は驚いて立ちすくんだ。だが、不思議と怖くはない。優しい、しかし寂しげな響きを含んだ声。その声は幹夫にだけそっと語りかけているようだった。

「ここよ…」声が言った。幹夫は「ここって、どこ…?」と小さくつぶやき、木の周りを見渡した。しかし人の姿など見当たらない。ただ、晩秋の風が吹き抜け、乾いた草がカサカサと音を立てた。

幹夫は思い切って、大木の根元に歩み寄った。と、その時――足元で柔らかな光がきらりと揺れたように見えた。幹夫は目を凝らした。木漏れ日が揺れたのだろうか。いいや、違う…光る何かが木の根元にいる?

「幹夫。」またあの声がした。少年とも少女ともつかない、中性的な優しい声。幹夫はそっと膝をつき、地面に目線を近づけた。「……誰?」恐る恐る尋ねる。すると、落ち葉の間から小さな影がぴょこんと飛び出した。

それは不思議な生き物だった。橙色の小さな着物のような衣をまとい、頭には緑色の葉っぱの冠を載せている。まるで人形ほどの大きさだが、はっきりと生きているように動いていた。顔立ちは幼い子供のようにも見えるし、小さなお婆さんのようにも見える。優しくしわがれた笑みを浮かべ、その生き物は幹夫を見上げた。

「まあ、幹夫じゃないか。」小さな生き物が口を開いた。幹夫は息をのむ。「やっぱり…僕を呼んでいたのは…あなたですか?」震える声で尋ねる。生き物は可愛らしく笑ってうなずいた。「そう、私よ。よく来てくれましたね。」

幹夫は不思議と怖さよりも懐かしさを感じていた。その声はまるで、遠い昔から知っている友達のように胸に響いたのだ。「あなたは…誰?」幹夫はゆっくり尋ねた。木漏れ日の中に立つ小さな存在は、柔らかな光に包まれて見えた。

「私はみかんの精。」生き物は胸に手を当て、小さくお辞儀をした。「この畑のみかんの木々や実に宿る者です。」みかんの精――幹夫には信じられない響きだった。しかし目の前の存在を否定することなどできない。確かにこうして話し、動いているのだから。

「みかんの…精?」幹夫は驚きながら繰り返した。「はい。幹夫が毎日お世話してくれているでしょ? いつもありがとう。」精はにっこり笑う。その笑顔は、夕陽に色づく橙色のみかんのように暖かだった。

「僕、夢を見ているのかな…」幹夫は頬をつねってみた。少し痛い。夢ではない。おとぎ話のような出来事に胸がどきどきする。「どうして僕のこと知ってるの?」思い切って尋ねると、みかんの精はくすくす笑った。

「私はいつも見ているのです。幹夫が優しく木に触れ、実を大切に扱ってくれるのをね。他の兄弟たちは元気いっぱいだけど、ときどき荒っぽくして枝を痛めてしまうこともある。でも幹夫は違う。あなたはとてもやさしい子。」

やさしい――その言葉を聞いた瞬間、幹夫の胸がじんと熱くなった。やさしい。自分でもそうありたいと願っていた。しかし兄弟たちからは「幹夫は泣き虫だ」とからかわれることもあるし、内気で何も言えない弱虫だと思われているのではないか、そんな不安があった。それでも、この小さな不思議な存在は、自分を「やさしい」と言ってくれた。

「ありがとう…」幹夫は少し涙ぐみながら言った。みかんの精は「どういたしまして」と頷いた。

「今日はあなたに伝えたいことがあって出てきたの。」精は幹夫に手招きをした。幹夫はそっと耳を傾ける。「伝えたいこと…?」

その瞬間、一陣の風が畑を吹き抜け、木の枝がざわざわと揺れた。幹夫ははっとして顔を上げたが、恐ろしい風ではない。先ほどの優しい声に似た、どこか楽しげな風の音だった。みかんの精は笑って続けた。「ええ。もうすぐ他の者たちもあなたに会いたがるでしょう。風の子や土の精霊たち…みんなあなたに話したいことがあるの。」

「風の子…土の精霊…?」幹夫は、不思議な名前の響きを心の中で繰り返した。みかんの精は静かにうなずく。「そう。あなたは特別な子。だから自然の声が聞こえるのでしょう。」そう言って、精は幹夫の手を小さな両手で包んだ。幹夫の手のひらに、ほのかな温かさと、みかんの香りが広がる。

「幹夫、自分が少し他の子と違うと感じているでしょう?」唐突にそう尋ねられ、幹夫はどきりとした。図星だったからだ。恥ずかしさにうつむく幹夫の指に、精の小さな指が触れる。「大丈夫。それは悪いことではないわ。むしろ、とても素敵なこと。」

「素敵なこと…?」幹夫は顔を上げた。精の瞳は澄んだ琥珀(こはく)色に輝き、まっすぐ幹夫を見つめている。「ええ。自分と違う誰かを思いやることができる。小さな声にも気づいてあげられる。それはね、やさしさの芽生えなのよ。」

やさしさの芽生え――幹夫はその言葉を胸の中で繰り返した。「芽生え…僕の中に、やさしさが芽生えているの?」みかんの精は微笑んでうなずく。「そう。そしてその芽を、大切に育ててほしいのです。」

幹夫は知らず知らず涙をこぼしていた。長い間、胸にひっかかっていたものが、少しだけほどけたような気がした。自分のやさしさ、それは弱さではないかと恐れていたけれど、そうではないのかもしれない。

そっと涙を拭う幹夫に、みかんの精は優しく言った。「さあ、もう行きましょう。他の者たちが待っています。」幹夫が立ち上がると、精はひょいっと幹夫の肩に飛び乗った。その体は小鳥ほどの重さしかなく、幹夫の肩にちょこんと座る。「案内してあげるわ。」

幹夫は夢見心地のまま、古い大木の裏手へと歩き出した。普段は入らない畑の奥へ、一歩、また一歩と足を進める。みかんの木々が作る緑の小径は、先へ行くほどに薄暗く静かになっていく。聞こえるのは幹夫の足音と、肩の上の精のかすかな息遣いだけだ。先ほどまで聞こえていた家族の声や荷車の音は、いつしか遠のいていた。

やがて、木々の間にぽっかりとひらけた空間に出た。そこだけぽつんと草原のようになっており、夕方の空が大きく顔を覗かせている。幹夫が立ち止まると、肩のみかんの精が指さした。「あそこを見て。」

幹夫は指さす方を見た。見ると、草原の真ん中に小さな旋風が立っている。落ち葉や草の葉がくるくると宙に舞い、何かがその中で踊っているようだった。すると、その竜巻のような渦がふっとほどけ、中から一人の子どもが現れた。

第二章 風と遊ぶ子

草原に現れたのは、幹夫と同じくらいの背丈の少年だった。年齢も幹夫と同じか、少し上くらいに見える。風の子――そう直感した。少年は淡い青色の着物に身を包み、髪はまるで秋の草原の穂のようにふわふわと風になびいている。瞳は澄んだ空の色。彼は楽しげに笑うと、ぴょんと宙に浮かびあがった。

「待ってたよ、幹夫!」少年は風のように軽やかな声で叫んだ。幹夫の肩のみかんの精が、「彼が風の子よ」と耳元で囁いた。幹夫は目を丸くする。「風の子さん…?」つぶやくように言うと、少年はころころと笑った。

「『さん』なんてつけなくていいよ! 僕は風の子。君が来るのをずっと待ってたんだ。」そう言って、少年は空中でくるりと一回転すると、ふわりと幹夫の前に降り立った。

間近で見る風の子は、不思議な雰囲気をまとっていた。笑顔は屈託なく明るいが、その瞳の奥にはどこか孤独な光も宿しているように幹夫には思えた。それは、幹夫自身の心にあるものと同じような…説明できないけれど、何か共鳴するものを感じた。

「一緒に遊ぼう!」風の子は手を差し出した。幹夫は戸惑いながらも、「うん…」と頷いてその手を取った。すると次の瞬間、風が二人の周りに渦巻き始めた。立ち上る風に乗って、幹夫の体がふわっと宙に浮く。驚いて手を離しそうになる幹夫を、風の子はしっかりと支えていた。

「怖くないよ、大丈夫!」風の子が笑いながら叫ぶ。幹夫は目をぎゅっと閉じていたが、恐る恐る開けてみた。すると、自分が地面から少し浮き上がり、ゆっくりと風に運ばれているのがわかった。

「すごい…!」幹夫は思わず歓声を上げた。見ると、肩にいたはずのみかんの精は、いつの間にか幹夫の胸ポケットにちょこんと収まっている。精はにこにこと笑い、「行ってらっしゃい」とでも言うように手を振っている。幹夫は安心して、風の子に身を任せることにした。

風の子は幹夫の手を引きながら、宙をゆっくりと舞っていく。草原をぐるりと回り、そして高く高く舞い上がった。幹夫の足元には、先ほどまで自分がいた畑が小さく広がって見える。オレンジ色のみかんの列、曲がりくねった畦道、遠くには木造の家々と煙を上げる煙突も見えた。更に向こう、陽が傾いた空の下には、海がきらきらと光っているのがうっすらと見える。駿河湾の海だろうか。そのずっと向こうには、うっすらと富士山の影も浮かんでいるように思えた。

幹夫は風に乗りながら、こんな高い場所から故郷を眺めるのは初めてで、胸が躍る思いだった。恐怖は不思議となかった。風の子が支えてくれている安心感、そして何より、世界がこんなにも美しく見える驚きが勝っていた。

「ねえ、幹夫!」風の子が横に並んで、同じ景色を見下ろしながら話しかけてきた。「君は自分が他の人と違うって思ってるんだって?」

唐突な問いだった。幹夫はびっくりして風の子を見つめた。風の子はいたずらっぽく笑っている。「え…どうして…」幹夫が尋ね返すと、風の子は鼻先で笑った。「僕にはわかるよ。風は何でも知ってるんだ。君がときどき一人で寂しそうにしてるのも、心がちくっと痛むのも、ぜーんぶお見通しさ。」

幹夫は恥ずかしくなった。風に自分の心を見透かされているような気がしたのだ。「…うん、僕は…兄さんたちみたいに強くないし、みんなと同じことができない。すぐ嫌なことがあると泣きたくなるし…。変だよね、僕。」

勇気を出してそう吐き出すと、風の子は首を横に振った。「変じゃないさ。違うってことは、悪いことじゃない。」風の子は手を広げて自分の体を示した。「ほら、僕なんて姿も決まってない。風は形がなくて、見えもしないだろう? でも誰もそれを悪いなんて言わない。」

「うん…風は見えないけど、みんな感じてる。」幹夫は風に吹かれながら答えた。風の子はにっと笑った。「そう! 見えないけど、確かにそこにいる。君のやさしさも同じだよ。形に見えなくても、ちゃんと周りに届いてる。」

幹夫ははっとした。やさしさも、見えないけれど届いている…?「僕のやさしさが…周りに?」自分では気づかないうちに、何かが届いているのだろうか。

風の子は、ふわりと幹夫の周りを回りながら言った。「そうさ。例えばね――」風の子は手をひらひらと振った。その瞬間、耳元に懐かしい声がよみがえったような気がした。「去年、お前が拾ってきてくれたあの花、綺麗だったよ」……それは、祖母が幹夫に優しく言ってくれた言葉だった。

幹夫が五歳のとき、野原で小さな野菊の花を摘んで祖母に贈ったことがあった。恥ずかしがり屋の幹夫は言葉少なに差し出したのだが、祖母はとても喜んで「まあ、幹夫がこんな綺麗な花を摘んでくれたの」と目を細めてくれたのだ。それ以来、毎年秋になると祖母は「あの野菊は今年も咲いているかな」と言ってほほえむ。それが幹夫は嬉しかった。

「あれも、君のやさしさが届いたからだよ。」風の子はにっこりと笑った。「君は覚えていなくても、優しくした相手は覚えているものさ。」

「…そうなのかな。」幹夫は胸が温かくなるのを感じていた。自分では取るに足らない、小さな恥ずかしい思い出だと思っていた出来事も、祖母にとっては嬉しい記憶だったのかもしれない。

風の子は空を指さした。「見てごらん、幹夫。」夕焼けが空を染め始めていた。茜色と橙色が混ざり合い、雲は金色に光っている。「あの雲、一つとして同じ形のものはないんだ。」風の子の声は少ししんみりとしたものになった。「風が吹けば姿を変え、日が沈めば色を変える。それでも誰も『雲が変だ』なんて言わない。違うということはそういうことさ。みんな違って、当たり前。」

幹夫は夕空を流れる雲を見つめた。確かに、一つひとつ形も色も違う雲が、空いっぱいに浮かんでいる。でもそれらが一緒になって美しい夕焼けを作っている。「僕も…あの雲の一つなのかな。」ぽつりと幹夫は言った。「そうさ。」風の子が笑う。「君は君のままで、美しい景色を作る一部なんだ。」

ふっと風が止んだ。気づけば二人はゆっくりと地上に降りていた。夕暮れの草原に立ち、幹夫は風の子と手を繋いだまま名残惜しそうに空を仰いだ。風の子との空中散歩は、短かったけれど一生忘れられないような不思議な時間だった。胸の中に、暖かい灯がともったような気がする。

「ありがとう、風の子。」幹夫が礼を言うと、風の子は照れくさそうに笑った。「へへ、どういたしまして。楽しかったね!」しかし次の瞬間、風の子はふっと真顔になった。「…そろそろお別れの時間みたいだ。」

「え?」幹夫が驚いて尋ね返すと、風の子は遠く林の方を見つめた。「次は土の精霊の番だよ。僕たちも夜には眠らなくちゃいけない。」そう言って、肩をすくめた。

幹夫の胸ポケットから、みかんの精がするりと飛び出した。「幹夫、ここから先は私たちは一緒に行けないわ。」寂しそうに精が言う。「土の精霊のところへは、あなた一人で行くの。」

「一人で…?」幹夫は急に不安になった。風の子もみかんの精も一緒にいてくれないとなると、また心細くなってしまう。「大丈夫。」風の子が幹夫の肩をぽんと叩いた。「土の精霊はとっても優しくて、そして強い方だ。君に大事なことを教えてくれる。」

みかんの精も微笑んで頷いた。「私たちはここで待っているから。行っておいで、幹夫。」幹夫は二人の精霊に見守られながら、小さく頷いた。

ふと見ると、草原の端に古びた祠(ほこら)のような石の小屋があるのに気づいた。苔むした小さな祠で、子供の背丈ほどの石碑のようなものも隣に立っている。夕闇が迫り、その祠のあたりだけがぽっかりと暗い影になっていた。

「あそこで待っているよ。」風の子が祠の方を顎でしゃくった。「じゃあね、幹夫。また会おう!」風の子は高くジャンプすると、そのまま夕暮れ空に溶け込むように姿を消した。みかんの精も幹夫の肩から飛び降り、ふっと木漏れ日の残る茂みの中へ溶けるように消えていった。

幹夫は一人残された。少し心細い。しかし、不思議と怖くはなかった。風の子やみかんの精がそばにいてくれた間に、幹夫の心には温かな勇気が芽生えていた。「行ってみよう。」幹夫は小さく自分に言い聞かせ、祠の方へ歩き出した。

第三章 土の精霊

祠の前に立つと、急にひんやりとした空気が幹夫を包んだ。昼間の暖かさはどこへやら、辺りは急速に夜の帳に沈もうとしている。遠くでカラスが一声、「カァ」と鳴いた。幹夫はごくりと唾を飲み込む。祠には扉があり、少し開いているようだ。中は暗くて何も見えない。

「ここに…土の精霊さんがいるの…?」幹夫は震えそうになる声で独りごちた。先ほどまで一緒だった精霊たちがいなくなり、静けさが押し寄せてくる。風の音も木のざわめきもぴたりと止み、まるで世界に自分一人だけが残されたかのようだった。

幹夫は意を決して、小さな祠の扉に手をかけた。ぎぃ…と古い蝶番(ちょうつがい)が悲鳴を上げるような音を立てる。中を覗き込んだが、やはり真っ暗だった。夕焼けのわずかな明かりが背後から差し込み、祠の内部の床をかろうじて照らしているだけだ。

幹夫は身をかがめて祠の中へ足を踏み入れた。中は狭く、子供の幹夫がやっと入れるくらいの空間だった。土の匂いが濃く漂っている。地面には柔らかな土が敷き詰められ、中央にぽつんと石が置かれていた。それは人の顔のようにも見える不思議な形の石だった。長い年月を経て削られたような丸みを帯びたその石に、幹夫は思わず手を触れた。

すると――石がぼうっと淡い光を帯びた。幹夫は驚いて手を引っ込める。石の表面にひび割れのような筋が走り、そこから柔らかな緑色の光が漏れ始めた。その光は祠の中を満たし、幹夫の顔をそっと照らし出した。

「幹夫…来たのですね。」低く静かな声が祠の中に響いた。幹夫ははっとして顔を上げた。今の声は確かにこの祠の中でした。しかし、目の前には誰もいない。光を放つ石があるだけだ。

「…どこにいるの?」幹夫が尋ねると、声は穏やかに笑ったように感じられた。「私はここだよ。」石から声がしている? 幹夫は石を見つめた。すると石はゆっくりと持ち上がり、まるで二本の足が生えたかのように立ち上がったのだ。幹夫は息をのみ、尻もちをついて後ずさった。

祠の中で、土と石ころがこすれ合うような音がした。光る石はふらふらと揺れながら幹夫のほうへ歩き出す。いや、正確には歩いているというより、地面から生まれてきたと言ったほうが近かった。その姿は徐々に人の形へと変わってゆく。丸い石は頭になり、ひび割れから生まれた光の筋は腕や脚の輪郭となった。そして、土でできた衣をまとったような背の低い老人の姿が浮かび上がった。

「私は土の精霊。」老人はにこりと微笑んだ。その顔はやはり石のようでもあり、土の塊のようでもある。眉毛や髭は苔(こけ)に覆われて緑色を帯び、目は細く優しかった。

幹夫は慌てて正座をし直し、「はじめまして…」と頭を下げた。自然とそうせずにはいられない厳かな雰囲気が土の精霊にはあった。精霊はゆっくりとうなずいた。「よく来ました。勇気を出してここまで来たね。」

その言葉に、幹夫は少し誇らしい気持ちになった。自分が勇気を出した? 確かに怖かったけれど、ここまで来ることができたのだ。みかんの精や風の子に導かれてとはいえ、今こうして土の精霊の前にいる。

「はい…みかんの精さんと風の子さんに会って…それで…」幹夫が事情を話そうとすると、土の精霊は「知っておるよ」と穏やかに微笑んだ。「わしは土。大地はすべてを見守っているのです。」

精霊はゆったりと祠の奥に腰をおろした。小さな祠のはずなのに、不思議と老人の姿はすっぽりとその中に収まっている。「さあ、そこに座りなさい、幹夫。」促され、幹夫もその場に正座した。柔らかな土の床がひんやりとして心地よかった。

「幹夫や。」土の精霊は優しく問いかけた。「お前さんは、自分がみんなと違うと悩んでおったそうだな。」

幹夫はどきりとした。風の子にも打ち明けたばかりの、自分の心。そのことをまた尋ねられるとは思っていなかったが、土の精霊の声は暖かく包み込むようで、幹夫はゆっくりと口を開いた。「…はい。僕、兄さんたちや周りの友達みたいに、強くなくて…。何をするにも遅いし、すぐ泣きそうになるし…。変なんです、きっと。」

最後の方は声がかすれてしまった。暗闇の中で自分の弱いところをさらけ出すのは勇気がいったが、土の精霊の前ではなぜか素直になれた。精霊はしばらく黙って幹夫の言葉を聞いていたが、やがてぽつりと語り始めた。

「幹夫、お前さんは花の咲くところを見たことがあるかえ?」唐突な問いに、幹夫は戸惑った。「花ですか?」幹夫は首を横に振った。「花が咲く瞬間をじっと見たことはありません…。いつの間にか咲いていて…気づいたら花びらが開いている感じで。」

「そうじゃろう、そうじゃろう。」土の精霊は面白がるように笑った。「そりゃあそうだ、人間の目には花が開く瞬間はなかなか見えんからのぅ。だが確かに、花は咲く。そのとき、土の中では何が起きていると思う?」

幹夫は少し考えてみた。土の中…種が芽を出すときだろうか。「芽が…出て、根っこが伸びているとか…?」自信なさげに答える。土の精霊は満足そうに頷いた。「うむ。それには時間がかかる。芽が出て茎が伸び、蕾(つぼみ)がついて、やがて花開くまで、土の中ではずっと準備が続いているんじゃ。」

幹夫は精霊の言葉をじっと聞いた。「土の中で…準備…。」想像してみる。暗い土の下で、小さな種が一生懸命根を伸ばし、土から栄養をもらってすくすく育とうとしている様子。それは誰の目にも見えないけれど、確かにそこで命が育まれているのだ。

「お前さんの心にも、花の種がある。」精霊は幹夫の胸を見るように言った。「それはやさしさという名の花の種じゃよ。」

幹夫ははっとして自分の胸に手を当てた。やさしさの種…。それは、先ほどみかんの精も言っていた「芽生え」と同じことだろうか。

「でも…僕のやさしさなんて、小さくて弱いです。すぐにくじけてしまいそうで…。」幹夫はうつむいて言った。土の精霊はゆっくりとかぶりを振った。「そんなことはない。小さく弱く見えるものほど、強い芯(しん)を持っていることもある。芽は小さいが、一度根付けば太い幹となる。それに、お前さんはもう気づいておろう?」

「え…何にですか?」幹夫は顔を上げた。精霊は微笑んで続けた。「自分の中に、何を大切にしたいか――その答えの端(はし)が、見えてきたのではないかね?」

自分の中に何を大切にしたいか…幹夫は胸に手を当てたまま考えた。今日は、不思議な出会いの中で、ずっとその問いかけをされていた気がする。「やさしさとは何か」「違うということの意味」「自分が何を大切にしたいのか」。それがこの旅の問いかけだったのだと、今さらながらに気づいた。

みかんの精は言った――やさしさの芽を大切に育ててほしいと。風の子は言った――やさしさは見えなくても周りに届いている、違うことは悪くないと。そして土の精霊は、心の中の種の話をしている。

幹夫は静かに目を閉じてみた。すると、昼間の家族の笑顔が浮かんだ。兄たちが木に登って意気揚々としている姿、姉たちが笑いながら籠を抱えている姿、母が遠くから「頑張って」と声をかけてくれたこと、父が重い木箱を担いで汗を拭っていた顔…。大好きな家族。自分は皆についていけないと感じていたけれど、本当は皆のことが大好きなのだ。

それから祖母の穏やかな笑顔も浮かんだ。野菊の花を渡したときの嬉しそうな顔。学校で同じ組の友達が、幹夫に消しゴムを貸してくれたとき、「ありがとう」と言ったら友達が照れくさそうに笑ったこと。その友達が困っているとき、幹夫が助けたら「助かったよ」と言ってくれたこと…。

一つ一つの思い出が、夕闇の中で幹夫の胸を温かく灯していく。気づけば、涙が頬を伝っていた。

「僕…わかった気がします。」幹夫は静かな声で言った。「僕は…やっぱり、やさしくありたい。皆に優しくしたいし、自然にも優しくしていたい。それが…僕が大切にしたいことです。」言いながら、自分でもはっきりと自覚する。自分がこれまで感じてきた繊細さや優しさは、無駄なものじゃない。弱虫なんかじゃない。それを大切に育てていきたい、と。

土の精霊は深く頷いた。「そうじゃ。それがお前さんの大切なものじゃ。どうか忘れずにな。」そう言って立ち上がり、幹夫の頭に大きな手をそっと載せた。土の匂いとともに、ひんやりとした感触が額に伝わる。「お前さんは優しい子。そしてそれは強い。なぜなら、土から芽を出した芽は、大地が支えてくれる。みんなも支えてくれるからな。」

「みんな…?」幹夫は涙を拭いながら尋ねた。精霊は祠の外、夜空の方を見上げた。「お前さんを愛する人々、友達、そして今日会った者たち…皆、お前さんの味方だよ。困ったときは耳を澄ませなさい。風のささやき、木々の声、土の眠り…きっと応えてくれる。」

幹夫は「はい…!」と力強く頷いた。もう迷いはない。自分が大切にしたいものがわかったのだから。怖いものなど何もなかった。

そのとき、祠の外からかすかに人の呼ぶ声がした。「…夫! …幹夫!」誰かが自分を呼んでいる。これは、人間の声だ。幹夫ははっと顔を上げた。「お母さん…?」母の声に聞こえる。次いで兄弟たちの名前を呼ぶ声も混じっていた。どうやら自分を探しているようだった。

「行っておいで。」土の精霊が微笑んだ。光を帯びた老人の姿は、先ほどより少し薄れて見える。「大事な家族が待っているよ。」幹夫は名残惜しく思いながらも、「はい!」と元気よく答え、立ち上がった。

「今日は…ありがとうございました!」幹夫は精霊に深くお辞儀をした。精霊は静かに頷き、「いつでもここにおるよ」と穏やかに言った。その声が次第に低く小さくなっていく。幹夫が顔を上げると、そこにはもう光る石ころがあるだけだった。先ほどまで老人だったそれは、元のただの石に戻っているようだった。祠の中の光も消え、暗闇だけが残っている。

幹夫は暗い祠の中から後ずさるように外に出た。外に出ると、夜の帳がすっかり降りていた。空には満天の星々が輝き始めている。先ほどまで茜色だった空は紺青色(こんじょういろ)に染まり、冷えた空気に思わず身震いした。

「幹夫! どこだ!」近くから兄の声がした。幹夫は「ここだよ!」と精一杯大きな声で返事をした。こんな大声を出したのは久しぶりだった。草むらをかき分けて、兄が懐中電灯を手に駆け寄ってくるのが見えた。後ろから母や他の兄弟たちも心配そうに走ってくる。

「幹夫、大丈夫か!?」兄が駆け寄り、幹夫の肩をぐっと掴んだ。「こんなところで何してたんだ?」息を切らし、叱るような口調だったが、その顔には安堵が浮かんでいる。母も駆け寄ってきて、幹夫を抱きしめた。「もう、みんなで探したのよ。心配したじゃないの…。」母の声は涙ぐんでいるようだった。

幹夫は「ごめんなさい…」と頭を下げた。「僕、少し迷子になって…でももう大丈夫。」そう言ってにっこり笑ってみせた。兄が怪訝そうに「ずいぶん嬉しそうだな」と首をかしげる。幹夫は「うん」と笑顔で答えた。「ちょっといいことがあって。」

「いいこと?」兄が問い返すが、幹夫は「うん…内緒。」といたずらっぽく笑ってみせた。兄はぽかんとしていたが、母が「さあ、早く帰りましょう。幹夫、寒かったでしょう?」と言って幹夫の手を握った。

幹夫ははっきりと「ううん、平気」と首を振った。寒さなど忘れてしまうほど、心に温かな灯火がともっていたからだった。

第四章 星明かりの帰り道

家族と合流し、幹夫たちは収穫したみかんを積んだ荷車とともに家路についた。夜空には煌々(こうこう)と星が瞬き、頭上には天の川もうっすらと帯を引いている。昭和二十五年の田舎の夜は電灯もまばらで、闇が深い分、星の光が降るようだった。

幹夫は荷車を引く父の隣を歩いていた。兄弟たちはそれぞれ眠そうに欠伸(あくび)を噛み殺したり、ひそひそと一日の感想を語り合ったりしている。幹夫はふと足を止め、暗い畑の方を振り返った。先ほどまで不思議な冒険をしたみかん畑は、夜の闇に溶け込み、静かに眠っているように見える。

耳を澄ませてみた。風の音がかすかに聞こえる。さらさら、木々の枝葉を撫でる夜風の音。その中に、幹夫は確かに聞いた気がした。

「…幹夫…」それはみかんの精の声のようでもあり、風の子の声のようでもあった。幹夫は思わず「はい!」と心の中で返事をした。すると、不意に頬に優しいそよ風が触れた。まるで誰かがそっと撫でてくれたかのように。

「どうした、幹夫?」父が不思議そうに尋ねた。幹夫は「ううん、なんでもない」と笑って首を振り、小走りで父に追いついた。その胸の奥には、大切な秘密が眠っている。今日、自分が出会ったみかんの精、風の子、土の精霊――それは幻想だったのか現実だったのか。それはもう幹夫にとってどちらでもよかった。ただ、確かなことが一つだけある。

それは、幹夫の心に小さな光が灯ったということ。誰に認められなくても、自分で自分を信じ、優しさの種を育てていこうと思えたこと。その光はまるで夜空の星のように、これからの幹夫の道を静かに照らしてくれるだろう。

家の門が見えてきた。障子から漏れる灯りが暖かく迎えてくれる。幹夫は自分の小さな手を見下ろした。土の精霊が握ってくれた手。風の子が引いてくれた手。みかんの精が包んでくれた手。――その感触が、今も確かに残っている気がした。

「ただいま!」幹夫は元気よく玄関の戸を開けながら言った。家の中から祖母が顔を出し、「おかえり、みんな遅かったねえ」と優しく笑った。幹夫は祖母の笑顔を見てまた胸が温かくなった。明日、庭にあの野菊がまだ咲いていたら、一輪摘んで祖母に渡そう。そんなことを考えながら、幹夫は家の中へと駆け込んでいった。

外では、さらさらと優しい風が庭先の柿の葉を揺らした。家の灯りに照らされて、一枚の葉が黄金色に光ったかと思うと、ひらりと舞い落ちる。それは晩秋から冬へのほんの小さな別れの挨拶のように見えた。

幹夫は振り返って夜空をもう一度見上げた。満天の星、その向こうに、自分を見守る精霊たちの存在を感じる。そして心の中で静かに呟いた。「ありがとう。」風がさっと吹き抜け、遠くで梟(ふくろう)がホーホーと鳴いた。その夜風は確かに優しく幹夫に寄り添ってくれているようだった。

星明かりの下、幹夫の家族の笑い声が家の中からこぼれてきた。現実の暖かな暮らしと、幻想の静かな余韻が交錯しながら、晩秋の夜は更けていくのだった。

 
 
 

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