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サン・マルコ広場、水のかがり火――アクア・アルタの物語

  • 山崎行政書士事務所
  • 2月4日
  • 読了時間: 3分

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1. 灯りを受ける聖堂の朝

 ヴェネツィアの朝、霧が運河に漂うなかで、サン・マルコ広場の石畳はまだ乾いていた。サン・マルコ大聖堂の黄金のモザイクがうっすらと朝日を反射し、行き交う観光客や地元の人々はまだ何気なく床を踏みしめている。しかし、その下には潮がじわじわと忍び寄っていた。

 海が満ちるにつれ、小さな波がそこここで溜まり始める。やがてアナウンスが広場に響き渡る――「アクア・アルタ(高潮)に注意してください」。地元民は慣れた様子で、高いゴムブーツを取り出し、木製の通路(パッシェレッレ)を設置し始めるのだ。

2. 雨でもないのに増していく水面

 昼下がりになると、観光客が行き交う広場の床は、いつの間にか水鏡になっている。雨は降っていないのに、海から押し寄せる潮が運河を満たし、さらに広場へと溢れてきたのだ。ごく浅い水溜まりが、石畳の模様を浮かび上がらせながら、サン・マルコ大聖堂の柱や装飾を逆さに映し出す。

 白いテーブルを並べたカフェの椅子は、ひざ下ほどもある水位の中でぼんやりと浮いているかのように見える。店員はブーツを履いて客にコーヒーを運び、客もまた、テーブルに浸る水面を眺めては記念写真を撮っている。「こんなの初めて見た」と驚く声とともに、笑いが広場全体に広がる。

3. そっと立ち上がる通路の橋

 地元当局が用意した**木製の高床式通路(パッシェレッレ)**が、次々に組み立てられていく。広場には即席のデッキが敷かれ、人々はシングルファイル(一本列)で大聖堂や時計塔、ドゥカーレ宮殿へと通り抜けていく。長靴を持っていない観光客にとって、この臨時の通路は助け舟のようだ。

 ざわざわとした人々の声を後に、広場の中心へ視線をやると、水面に聖堂がくっきりと映り込み、逆さの尖塔や壁面がゆらゆらと波に揺られている。その光景はまるで神秘の湖に沈む城のようで、不思議な静けさと幻想をもたらしている。

4. 黄昏に染まる水浸しの舞台

 夕方の黄金色の光が差し込む頃、サン・マルコ広場はさらに幻想的に変化する。浅い水面に映る夕陽がオレンジから紫へとグラデーションを描き、建物と水と空の境界が曖昧に溶け合っていく。 観光客は膝まである長靴を履いて、あるいはサンダルを手に持って裸足になり、水の張った広場を歩き回る。水面には建物の灯りと空の茜色が重なり合い、足元が鏡張りの舞台になったかのような不思議な錯覚を呼び起こす。

5. 夜の闇と運河の静寂

 やがて夜が降り、ライトアップが大聖堂や宮殿を照らすと、広場の水がオレンジ色や青白い光を揺らめかせる。その姿はまるで宝石のように輝き、観光客はその光景に見とれて立ち尽くす。 しばらくすると干潮の時間が来て、水位は少しずつ下がっていく。広場の床が再び顔を出し始めるが、まだ完全には乾いていない。夜風が運河から吹き込み、スッと涼しさを運んできたとき、静寂の中で水面を微かに流れる音が耳に残る。まるで眠りにつくヴェネツィアの心音のようでもある。

エピローグ

 ヴェネツィアのサン・マルコ広場(水浸し)――「アクア・アルタ」と呼ばれる現象が生み出す一瞬の奇景は、観光客にとっては珍しくもロマンチックな体験かもしれない。しかし、この地で暮らす人々にとっては日常の一部であり、そのたびに繰り返される対策と工夫が欠かせない。 それでも、夕陽に染まる広場と水面に映る聖堂のシルエットは、古の Venezia から続く神秘と誇りを象徴している。もし運良く(あるいは運悪く?)アクア・アルタの時期に訪れるなら、水浸しのサン・マルコ広場を歩きながら、数百年の歴史が育んだ“水の都”の奥深さをぜひ感じ取ってほしい。

(了)

 
 
 

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