ノリオー二の「三揃えは間を縫う」——外商さん、段取りを三段活用

噂その一。ノリオー二の３ピース・オーダースーツは、上着・ベスト・パンツそれぞれに「場のノリ回路」が入っている（Wi‑Fiは使わない）。噂その二。上着のラペルには「礼度角（れいどかく）」があり、35°＝無礼講、45°＝丁寧、60°＝詫び最適化に切り替わる。噂その三。ベストには「段取り背骨」が縫い込まれ、会議中だけ姿勢が“議事録の体”になる。噂その四。パンツのタックは「逃げ腰タック」。余計な一言の直前に、前身頃がそっとブレーキをかける。噂その五。支払いは現金・カード・**川柳（季語指定）**から選べる。

　私は広告会社の斎藤アキヒロ（31）。ある月曜日、午前：官民フォーラムで登壇／午後：監査対応の謝罪同行／夜：受賞パーティー司会の三連コンボが降ってきた。首から上は不安なので、せめて首から下を整えたい。百貨店の外商部に電話すると、外商の十文字（じゅうもんじ）さんが十五分で家に来た。空気が2%ほど上等になる。

「斎藤様、三揃えで“場の空腹”を満たしましょう。採寸というより**採談（さいだん）**です」「採談？」「話を測ります。まず、本日いちばん言いにくい謝罪文をどうぞ」「えっと……先方の社名、全角カタカナで送ってしまい……」「ありがとうございます。ノリ計、動きました」

　十文字さんのアタッシュから、柔らかいメジャー、拍子木、そして海苔みたいな導電シールが出てくる。喉仏と肩の間に小箱を当てるとピッと光った。

「斎藤様の“場のノリ回り”は、初速弱め・敬語強め・笑い後追い。上着ラペルは45°スタート、謝罪帯では60°へ。ベストは午前『議事進行』、午後『火消し』、夜『祝杯昂揚』に切替。パンツは逃げ腰タック強め。サイドアジャスターは“責任の取り幅”で2コマ広げておきます」

「責任の取り幅？」「ウエストじゃありません、腹のくくり直し可動域です。合法です」

　拍子木をカンッ。私が0.7秒置いて笑うと、導電シールがラペル裏にすっと移動する。

「それ、何ですか」「ノリ付け。糊でも海苔でもなく“ノリ”。場の伝導率を上げます。雨で溶けませんし、食べられません」

　生地は「深出汁（ふかだし）ネイビー」。見た目は普通だが、場が硬すぎると湯気のない温度を帯びる。裏地は「思い出し笑い対策・薄墨」。過去の黒歴史をほどよく中和する色だという。ボタンは水牛、ただし一つだけ**“やめ時ボタン”で、長話の直前に1グラムだけ軽く**なる。

「支払いは、現金・カード・川柳からお選びいただけます。季語は“三つ揃え”で」

三つ揃え　腹で受け持つ　場の間合い「2,000円オフです。間合いが良い」

◆

　納品は百貨店の貴賓室。入口のドアマンが囁く。「合言葉は？」　十文字さんが耳打ちする。「ベストの下は心」　復唱すると、カーテンがするり。静かな海の朝みたいな匂い。壁にはレオナルド・ノリオー二の言葉。

「スーツは鎧ではない。退路のついた物語だ」

　試着。まず上着。ラペルの付け根に極小スイッチ。35°／45°／60°が“礼度角”として切り替わる。次にベスト。背中に沿って薄い段取り背骨。肩甲骨のあたりが、議題を勝手に箇条書きにしてくる。最後にパンツ。前タックの奥で何かがカチと噛み合い、余計な一言にだけブレーキがかかる感じ。

「袖の本切羽は“助け舟”。一本だけ本当に開きます。ここを触ると拍手誘導が一往復だけ発動。ベントは“やめ時ベンツ”。背中が0.7秒だけひるがえり、話を締めやすくなります」「物理法則がゆるい」「ノリは物理です」

　鏡の向こうに丸い影。おむすびみたいに丸いが、声は低く穏やかだ。

「三つ揃えは影が整う。影が整えば、人は前だけ見て歩ける」「レオナルド・ノリオー二……？」　影は拍子木をチンと一打、消えた。

　タグの注意書き。

取扱注意・やめ時ボタンはタップのみ（長押し厳禁）・助け舟の多用は沈没のもと・ベントでのドアクローズにご注意・雨で溶けません（食べられません）

◆ 午前：官民フォーラム（登壇）

　私は礼度角45°／ベスト＝議事進行／逃げ腰タックONで壇上へ。スライド一枚目で司会が噛んだ空気が重くなる。私はやめ時ボタンをタップ。口が自然に閉じて、開く。0.7秒。「本日は“短く要点三つ”、拍手は“三三七”で参ります」　袖の助け舟を軽く撫でる。拍手がBPM117で揃う。深出汁ネイビーが、ふっと温かい。開始3分で場が片付いた。会場係が驚いている。私も驚いている。

◆ 午後：監査対応の謝罪同行

　エレベーターで礼度角60°。ベストを火消しへ。タックが言い訳の直前にやさしく膝を止める。ところが会議室に入って30秒、私は重大なミスに気づく。（ベストの第一ボタン、留めっぱなし！　詫び角60°なのに、誠意が胸で引っかかってる！）　その瞬間、給茶スタッフに擬態した十文字さんが、テーブルの下で拍子木を極小音「…カ」。私は“ネクタイを直すふり”でボタンを外す。胸がすっと下がる。「……誠に申し訳ございません。原因の所在と再発防止、要点三つでご説明いたします」　ベストの段取り背骨が、言葉を箇条書きにしてくれる。相手の部長の眉が戻る。助かった。十文字さんは水のように消えた。たぶん、外商は便利の外で働いている。

◆ 夜：受賞パーティー（司会）

　洗面所で礼度角35°へ。ベストを祝杯昂揚へ。パンツの逃げ腰は軽め。私は乾杯の直前、ベントを指でなぞる。背中がそよっと開く。「受賞者の三枚看板、努力・偶然・周囲の無茶振りに、いま一度——」　袖の助け舟。拍手が自然に波打つ。名刺交換ではサイドアジャスターの責任の取り幅が1コマ戻り、腹式呼吸が深くなる。二次会の「社歌カラオケ」はやめ時ベンツで無事着岸。夜は笑って終わった。

◆

　翌日。百貨店のサロンは羊羹みたいに静か。十文字さんがアフター調整を告げる。

「斎藤様、礼度角が一晩で2°寝ました。良い疲れです。ベストに**『結論から』プリーツを追加しましょう。入口が大きく、途中が細く、出口がまた大きい——話が短く**なります」「それは社会貢献ですね」「はい。食べられませんが」

「レオナルドから伝言です」「影の御本人から？」「ええ。『退路を作れば、前進は速い』と」

　私はベントに触れる。そこに退路があるだけで、言葉が前に進む。裏地の薄墨は、昨日の小さな失敗を笑える色に変えていた。

　会計端末が恒例の表示を出す。「本日の割引：川柳“ベスト”」。私はペンを取り、書いた。

ベストとは　胸の迷いの　置き場所だ

「1,800円オフでございます。いい置き場所です」と十文字さんが微笑み、拍子木を一打。ほとんど音がしないのに、胸の奥でコツと間が決まる。

　ノリオー二の３ピース・オーダースーツは、もちろん食べられない。けれど、場の空腹は三段で満たす。　上着は角度、ベストは物語、パンツはブレーキ。　そして外商さんは、目立たないところで退路をそっと開ける人だ。

　次の三連コンボまで、私は鏡の前で0.7秒遅れてうなずく。　——間も、角度も、退路も、もう採談済みだ。