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パナコの青春 ― 秋宵のファンファーレ

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月25日
  • 読了時間: 9分


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夏の終わりを告げる夕立が、静岡の街を洗い流していく。先ほどまで強い陽射しが照りつけていた空は、薄墨を流したような灰色へと変わり、ビルの外壁に雨粒の跡を残していた。そんな空模様に季節の変わり目を感じながら、**陽菜(はるな)**は学校の窓から遠くの「静岡パナコ」を見つめていた。

 ――あの夏、パナコの地下ホールで行われたサマーセッションで、彼らは熱いステージを経験した。成功や失敗、練習不足によるもどかしさ、それでも突き抜けたような爽快感。三年生になった彼らにとって、それはもう「最後になるかもしれない」という緊張感を孕んでいたが、終わってみれば、さらに音を続けたいという欲求をかき立てる出来事でもあった。

 一方、時間は容赦なく進み、暦は秋へと移ろいつつある。夏休みの終わりとともに訪れた受験モード。校内には模試や三者面談の情報が行き交い、どこか急き立てられるような空気が漂っている。

 放課後の軽音部室。 ギターケースを肩から下ろした陽菜は、小さく伸びをしてから窓を開け放った。入り込んできた風は、夏の名残りをわずかに含みつつも、少し冷たく切なさを感じさせる。「ねえ、皆も来てる?」 部室を見回しながら訊ねると、すでに電子ドラムの前に座っている**真司(しんじ)**が、いつものようにスティックを軽く回して応じた。「麻里(まり)は顧問に呼び出されて、ちょっと遅れるって。颯太(そうた)は図書室で先生に相談してから来るって言ってたな」

 陽菜は「そっか……」と微笑みながらギターの調整を始めた。真司は受験勉強や塾との両立で忙しいはずなのに、こうして部室には必ず顔を出す。その理由は自分も同じ。たとえ時間が限られていても、音に触れていたいという思いが勝ってしまうからだ。

 しばらくして、廊下から軽快な足音が聞こえてくる。勢いよくドアを開けたのは麻里だった。「ごめん! 進路のことで担任に捕まってさ。結局、はっきり答え出せなかったんだけど……」 彼女は肩で息をしながらベースケースを置く。受験まで半年足らず。周囲の視線が「もう進路は決めたの?」と問い詰めてくるように感じてしまうらしい。

 その直後、控えめなノックの音とともに入ってきたのは颯太。かけていた眼鏡を外して軽く息を吐くと、申し訳なさそうに笑った。「ごめん、ちょっと先生に呼ばれてた。どの大学を目指すか具体的に聞かれて……」 同じ空気を吸っている四人だからこそ、言わなくても分かる悩みがある。どこか曖昧な空気が部室に漂うものの、それを吹き飛ばすかのように陽菜がギターを鳴らした。

「――とりあえず、今日は音を合わせよう!」 その呼びかけに、真司はスティックを取り直し、麻里は慣れた手つきでベースのチューニングを確認する。颯太はキーボードの電源を入れ、譜面台に新曲のメモを広げた。

 雨上がりの夕空を透かすように、一つ目のコードが鳴り始める。まだ外は湿った風が吹いているが、音楽が始まるとその湿度さえも心地よく感じられるから不思議だ。夏の蒸し暑さから解放され、ほんの少し肌寒い秋の気配が混ざり合う部室。そこにしかない独特の空気感が、四人のリズムをほどよくまとめていく。

 翌週末、部員の少ない軽音部は合同合宿のようなものは企画できず、代わりに学校の体育館ステージを借りて、一日じっくり練習に取り組むことになった。 まだ朝早い時間、窓から入る光はどこか柔らかく、体育館内の床を金色に染めている。電気をつけなくても十分明るいその場所で、機材をセッティングしながら陽菜はふと思いついたように言った。

「もうすぐ秋の文化祭だよね……三年生だから、最後の文化祭になるんだ」 真司はバスドラムの位置を調整しながら、「そうだな」と苦笑した。「最初は受験勉強とぶつかって、ライブなんて無理って思ってたけど……やっぱりやりたいよな。最後だし」

 文化祭ライブ。毎年、軽音部はステージを持つのが恒例行事だが、三年生は参加しないことも多い。進路や勉強を優先しなさい、と大人たちは言う。けれど、彼らにとってこのステージを逃すことは、青春のかけがえのない時間を逃すのと同義だった。

「正直、親や先生に止められるかもしれない。でも……やる価値はあると思う」 麻里はベースを立てかけ、颯太の方を見る。彼は静かに頷きながら、自分の気持ちを探るように視線を落とした。「うん。僕もそう思う。文化祭で演奏する最後のチャンスだよね」

 彼らの胸には、あのサマーセッションの熱がまだ残っている。消えかけるどころか、むしろ秋の訪れとともに燃え上がるようにも感じられた。

 夏から秋へと移り変わるある日の放課後。外のグラウンドでは運動部が大声を上げて練習しており、窓ガラス越しにその喧騒がかすかに聞こえてくる。部室内はドラムとギター、ベースとキーボードが何度もリフやフレーズを繰り返し、文化祭のセトリを少しずつ形にしていた。

「ここ、リズムちょっと変則的にしてみない?」 真司が叩き出すビートに合わせて、麻里は新しいベースラインを模索する。陽菜のギターは、夏の曲調よりも少し切なさを帯びたメロディを奏で、颯太のキーボードがそれを包む。

 何度か試行錯誤するうちに、ふとドアが開き、顧問の原田先生が顔を出した。気難しい英語教師だが、以前から彼らの演奏に理解を示してくれている。「お前たち、文化祭でやるつもりなんだな?」 いつも通りの渋い声。四人は内心ドキリとしながらも、真司が先陣を切るように答えた。「……はい。受験勉強と両立するのは大変だけど、やりたいんです」

 原田先生は少し黙り込んでから、静かに口を開く。「そうか。お前たち三年生は、これが最後だからな。……俺も、お前たちの演奏をもう一度聴きたいと思ってるよ。ただし、ちゃんと進路も考えろよ」 そう言い残し、どこか照れたような背中を見せて部室を去っていく。四人は顔を見合わせ、ホッと息をついた。

 そして、いよいよ秋の文化祭がやってくる。 澄んだ空気に高い空と白い雲、校庭の木々はまだ色づき始めたばかりだが、朝夕の風には確かに秋の冷たさを感じさせる。体育館ではクラスの出し物やステージ発表のリハーサルが行われ、校舎の廊下には模擬店のポスターや装飾があふれていた。

 文化祭当日の夕方、彼らのバンドの出番が近づく。ステージ脇から客席を覗くと、思いの外多くの生徒や保護者が詰めかけているのが見えた。受験間近の三年生が演奏するというだけあって、興味を持つ人が多いのかもしれない。

「……緊張するね」 陽菜が深呼吸を繰り返している横で、真司はスティックを握りしめて無言で頷く。麻里はベースの弦に触れながら、手の震えを必死で抑えているようだった。颯太はキーボードのスイッチを入れ、一度だけ音を確かめる。

 舞台袖のカーテンから差し込むライトに、ホコリがふわりと舞う。校内放送のアナウンスが終わり、司会の生徒がマイクを持って紹介を始めた。「次は三年生のバンドによるライブです。最後の文化祭、どんな音を届けてくれるのか楽しみですね!」

 拍手の中、四人は体育館のステージへ駆け出す。そこには見慣れたはずの景色があり、でもまるで初めて立つ場所のような新鮮な緊張があった。ライトの眩しさ、客席に広がる友人や先生たちの顔、そして後方に見える自分たちのクラスメイトの応援。

 ――真司がカウントを取る。 一曲目。アップテンポなイントロが体育館の空気を一気に揺らし、客席から自然と手拍子が起こる。麻里のベースは滑らかに低音を支え、颯太のキーボードが彩りを加える。陽菜のギターがメロディを導くと、彼女の声がマイクを通して響き渡る。

 日々の勉強、将来の不安、別れの足音――そんな胸の内を吐き出すように、彼女は歌う。その想いを真司や麻里、颯太の演奏が優しく、時に力強く支えてくれる。音が重なるたびに、四人の心が同じ景色を見ているような感覚がこみ上げてきた。

 続く二曲目は、あの夏の思い出をアップデートした曲。サマーセッションからさらに煮詰めたフレーズが効き、客席にはリズムに合わせて体を揺らす生徒が増えている。ライトを浴びながら、その光景を一瞬だけスローモーションのように感じる。――自分たちの今が確かに燃え上がっている、と。

 そして最後の曲。 イントロが始まると、先ほどまでの熱気が一度しんと静まりかえる。陽菜がアコースティックギターを抱え、初めて屋上ライブで感じた「夕暮れの寂しさ」と「これからの希望」を重ねたバラードを紡ぐ。真司のドラムはブラシに持ち替え、麻里のベースはよりシンプルに、颯太はピアノの音色で寄り添うように奏でる。

 まるで秋の宵に柔らかな風が吹き抜けるような、その優しいサウンド。その中で歌う陽菜の声は震えながらも、確かに前を向いていた。――受験や卒業という壁の先に、きっとそれぞれの未来がある。そして、この音が続く限り、つながりは消えない。

 ラストコードが鳴り終わり、体育館に一瞬の静寂が落ちる。直後、割れるような拍手と歓声が四人を包んだ。部活仲間や後輩たちの声援、顧問の原田先生がすこし照れたように拍手しているのが見える。胸がいっぱいになって、どうにも涙が込み上げそうになるのをこらえながら、陽菜はマイクに向かってつぶやく。「……ありがとうございました。私たちの演奏は、これで終わり、です」

 どうしようもなく尊い今この瞬間。ステージ上に立つ四人は、もう二度と戻れない時間の中でそれぞれの未来を見つめていた。拍手の海の向こう、光の先にある出口へ向かうまでの数秒間がやけに長く感じられる。でも、それは決して悲しいだけの時間ではなく、確かな充実感に満ちた「秋宵のファンファーレ」だった。

 ステージを下りると、風の冷たさが肌に染みる。廊下に出れば、さっきまでの歓声が少し遠く聞こえるだけだ。誰もいない場所で、四人は楽器をしまいながら互いに視線を交わす。「……お疲れ。最高だったね」 真司が言うと、麻里と颯太も静かに頷く。陽菜は声にならないまま、小さく笑みを浮かべた。

 外へ出ると、日が暮れかかった秋の空が朱色と群青を入り混ぜたグラデーションを描いている。足元の落ち葉を踏みしめる音が、秋の訪れを告げるように響いた。遠くには、いつものようにパナコのビル群が小さく見える。

 ――夏の炎天、冬の寒気、そして今の秋の夕暮れ。 何度も季節をくぐり抜けても、彼らはまだこうして同じ音を鳴らしている。いつかはバラバラの道へ進む。それでも、この「パナコの青春」で得たものは、きっと一生の宝物になるだろう。

 文化祭の喧騒から遠ざかるように歩く四人の背中には、微かな夕陽の名残が照らし、長い影を落としている。彼らの心の中でまだ鳴り止まない音が、まるで次の季節へとつながる前奏曲(プレリュード)のように響いていた。 夜が訪れ、やがて朝が来る。その繰り返しの中で、彼らはどんな未来を選ぶのだろう。答えはまだ見えないが、一歩ずつ前に進んでいることだけは確かだった。

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