プラハ、朝焼けの旅
- 山崎行政書士事務所
- 2025年4月12日
- 読了時間: 11分

第一章 出発
成田空港を飛び立つ飛行機の窓から、私はゆっくりと日本の大地が遠ざかっていくのを見つめていた。昭和最後の年の初秋、三十代の半ばに差し掛かった私は、画家として行き詰まりを感じた末に、一人チェコへの旅を決意したのだった。翼の向こうに広がる雲海は夕陽に染まり、黄金色から茜色へと刻一刻と色を変えていく。その美しい空のグラデーションを眺めながらも、胸の内には重い石が沈んでいるような感覚があった。キャンバスに向かっても思うように筆が動かなくなって久しい。日本での日々、私は自分の描く絵に本当に意味があるのか、自問する時間ばかりが増えていた。だからせめて異国の空気に身をさらし、自分の中の閉ざされた何かを開きたかったのである。
プラハという街を選んだのには、明確な理由があったわけではない。ただ幼い頃、父が聴かせてくれたスメタナの交響詩「モルダウ(ヴルタヴァ)」に心を奪われた記憶があった。豊かに流れる河の情景を描いたその旋律は、子供心に異国への憧れを芽生えさせたのかもしれない。画家となった今、その川を実際にこの目で見てみたい——そんな衝動にも近い思いが胸を突き動かしていたのだと思う。
飛行機が欧州の大地へと近づく頃、窓の外は濃紺の夜に包まれていた。街の明かりが星のように地上にまたたき、見知らぬ国に降り立つ不安と期待が入り混じる。機内に満ちる静かなエンジン音に耳を傾けながら、私は心の中で何度も繰り返していた。「この旅で、自分は何かを見つけられるだろうか」と。
第二章 石畳の夜
プラハの空港に降り立った頃には、夜の帳が街を覆っていた。薄い霧が漂う九月の夜、空気は思ったより冷んやりとして肌に心地よい。宿泊先の小さなホテルに荷物を置くと、私は休む間も惜しんで街へ出た。長時間の空の旅の疲れも、見知らぬ土地への高揚感がかき消してくれる。ホテルの扉を押し開け一歩外に出ると、異国の夜の匂いが鼻をくすぐった。石畳の路地に灯る街灯はオレンジ色の光を落とし、古い建物の壁に長い影を作っている。遠くで教会の鐘が時刻を告げる音がして、私は思わず立ち止まった。その澄んだ鐘の音は、子供の頃に聞いた寺の鐘とはまた異なる響きで、異国にいる現実を改めて感じさせる。
路地を抜け、小さな広場をいくつか過ぎると、不意に開けた空間に出た。目の前に緩やかな大河が姿を現す。ヴルタヴァ川——それは幼い日の憧れの名だ。私は胸の鼓動が速まるのを覚えた。暗闇の中で川面は黒々としていたが、対岸の建物や城の灯りが揺れて映り、揺蕩うように光っている。川沿いにしばらく歩いていくと、やがて重厚な石橋が現れた。カレル橋だ。橋のたもとにはゴシック様式の塔がそびえ、橋の欄干には数々の聖人像が夜の空に向かって立ち並んでいる。その姿は闇に溶け込みながらも、歴史の重みを静かに湛えているようだった。
私は人影まばらな橋の中央まで歩みを進め、川の流れに目を凝らした。街のざわめきから少し離れ、ここには時間がゆっくりと流れている気がした。欄干にもたれて深呼吸すると、冷たい川風が頬を撫でてゆく。ふと見上げれば、雲間から零れる月明かりが聖人像の輪郭を浮かび上がらせていた。その光景はまるで遠い昔に迷い込んだかのようで、私は自分が現代の日本から来た旅人であることさえ忘れそうになる。
橋の上から遠くを見渡すと、丘の上に広がるプラハ城とその中にある聖ヴィート大聖堂の尖塔が闇に輪郭を描いていた。ライトアップされた城の壁面が幽玄な光を放ち、水面にもその反射が揺れている。私は欄干にスケッチブックを広げ、ペンを走らせた。長旅で疲れているはずの手が、不思議と震えずに動く。初めて見るはずのこの景色に、何故か懐かしさにも似た感情がこみ上げてくるのを感じていた。日本で感じていた閉塞感が、この川の流れに少しずつ溶かされてゆくようだった。
その晩、ホテルのベッドに横たわりながら、私は窓から差し込む月の明かりを天井に眺めていた。瞼を閉じると、川辺で感じた冷たい風と聖人像の静かな影が脳裏に浮かんでくる。異国の地にいながら、孤独というよりむしろ不思議な安堵感があった。それは、自分が求めていたものに一歩近づけたかもしれないという予感だったのかもしれない。
第三章 朝焼けの河畔
翌朝、まだ夜の名残が空を包む頃、私は目を覚ました。窓の外には深い紺色の空が広がり、東の地平がわずかに白み始めているのが見える。胸の奥に得体の知れない衝動が湧き上がり、じっとしていられなかった。上着を羽織り、私はひとり静まり返った早朝の街へと出かけた。
石畳の道を辿り、再びヴルタヴァ川のほとりへ向かう。人影はなく、聞こえるのは自分の靴音と遠くで鳴く鳥の声だけだった。やがて川岸に出ると、東の空がゆっくりと橙色に染まり始めていた。水面もそれに呼応するように、かすかな朱を帯びてゆく。私はカレル橋のたもと近く、川面にせり出した岸辺に腰を下ろした。川辺の石垣にもたれ、じっと空の色の変化を見つめる。雲がほんのりと薔薇色に染まり、やがて空全体が黄金にも似た光に満ちていく。その光は静かに流れる川と街並みに降り注ぎ、世界を淡い絵具で塗り替えていくようだった。
朝焼けに染まるプラハの街は、夜の間に見せていた重厚な顔とは打って変わって、柔らかな表情を見せていた。遠く塔の先端が朝陽を受けて輝き、川面はオレンジ色の煌めきを映している。橋の上にはまだほとんど人影がないが、一羽、白い鳥が羽を広げて水面すれすれを飛んでいくのが見えた。白鳥だろうか。その姿が鏡のような川に映り、二羽いるように見える。私は凍えた指先を吐息で温めながら、その光景を目に焼き付けた。
ふと、日本で過ごしたある朝のことを思い出した。子供の頃、父に手を引かれて見に行った初日の出——寒空の下、凍える浜辺から昇る朝日を二人でじっと待っていた時のことだ。水平線が青から橙色へと染まっていく中、私の小さな肩を抱きながら父は「この光を忘れるな」とつぶやいた。その時は意味が分からなかった言葉が、今になって胸に響いてくる。父は何を私に伝えたかったのか。その問いは長く心の片隅に置き去りにされていた。画家となった今でも、答えを見つけられずにいたのだ。
川辺に腰かけたまま、私はゆっくりと瞼を閉じた。頬に冷たい涙が一筋伝うのを感じ、自分が泣いていることに驚いた。言葉にできない思いが、胸の奥から溢れていた。朝焼けの美しさに心を打たれたからなのか、それとも遠い記憶の中の父の声に触れたからなのか、自分でも判然としなかった。ただ、込み上げる感情に抗うことはせず、静かに涙を流し続けた。
十分ほど経っただろうか。朝日はすっかりと空に昇り、街には少しずつ人々の気配が戻り始めていた。私は涙を拭い、立ち上がった。先ほどまでの空の劇的な変化が嘘のように、プラハの一日は穏やかに動き出そうとしている。行き交う市民の姿がちらほらと見え、パンを焼く香ばしい匂いがどこからか漂ってきた。私は冷えた身体をさすりながら、ゆっくりと宿へ戻ることにした。胸の内に渦巻いていた感情は、涙と共に少しだけ静まったように感じられた。そしてその奥底に、ほんのわずかだが温かな灯火が灯ったような気がしていた。
第四章 聖堂の静謐
朝の光が街を満たした後、私は一度宿に戻り、温かい朝食とコーヒーで体を温めた。先ほど川辺で流した涙のことを思い返しながらも、不思議と恥ずかしさはなかった。あの朝焼けが、自分の奥底に閉じ込めていた感情を解き放ってくれたのだと思う。私は改めてスケッチブックを鞄に入れ、街歩きに出かけることにした。
石畳の坂道を登り、プラハ城へ向かう。通り沿いの建物はどれも歴史を感じさせ、壁のレリーフや重厚な扉が目を楽しませてくれる。やがて坂の上に広がる城の敷地に辿り着くと、プラハの街並みを一望できた。赤茶色の屋根が朝日に輝き、幾筋もの尖塔が空に向かって伸びている。遠くには先ほどまで私が佇んでいた川も見える。私はしばらくその景色に見入り、胸に静かな感動を覚えた。日本の都市ではこれほど統一感のある景観に出会うことは少ない。古いものを大切に積み重ねてきたこの街と、便利さを優先し急速に変貌する東京の街並みとが、頭の中で対比される。異国の丘の上で、日本にいる自分自身を遠くから眺めているような不思議な気持ちだった。
城の中庭を抜けると、聖ヴィート大聖堂がその壮麗な姿を現した。黒々としたゴシック様式の外壁に無数の彫像や尖塔があしらわれ、まるで石に刻まれたレース編みのようだ。私はその荘厳さに圧倒されながら、大聖堂の中へと足を踏み入れた。内部はひんやりと薄暗く、高い天井が遥か頭上で交差している。ステンドグラス越しに射し込む朝の陽光が、床や柱に虹色の模様を描いていた。言葉を発するのも憚られる静けさの中、私はゆっくりと身を進めた。
巨大な円柱に囲まれた身廊の中央で立ち止まり、頭上を仰ぐ。色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、まるで神秘の霧のように宙に漂っている。私は息を呑んだ。子供の頃、父に連れられて訪れた京都の古寺で感じた厳かな空気を思い出していた。畳に差し込む木漏れ日と白檀の薫り……形は違えど、あの時感じた「何か大いなるもの」に対する畏敬の念が、今この場所でも胸に立ち上ってきたのだ。
私はそっとベンチに腰掛け、静かに目を閉じた。誰かが祈りを捧げる小さな声が聞こえる。遠くでパイプオルガンの低音が響き始め、空気が微かに振動するのを肌で感じた。その音は重くゆったりとして、まるで大地の響きのように体の芯まで染み渡った。目を開けると、祭壇の上方から降り注ぐ光の中に微細な塵が舞っているのが見えた。時間が止まったような感覚だった。私は筆を持たずとも、心の中に一枚の絵が浮かぶのを感じていた。それは、朝日に照らされた大聖堂の内部を包む柔らかな光と影のコントラスト。そしてその中に小さく立つ自分自身の姿だった。
大聖堂を出る頃には、外の世界の喧騒が急に耳に飛び込んできて現実へ引き戻された。広場には観光客の団体が押し寄せ、様々な言語が飛び交っていた。私は人波を避けるようにして城を後にし、再び坂道を下り始めた。途中、小さな土産物店の軒先で、水彩画の風景画を売っている老人に出会った。画用紙いっぱいに鮮やかな色彩で描かれたプラハの街角——おそらくこの街に長く暮らす画家なのだろう。私は足を止め、一枚一枚丁寧に見せてもらった。老人は流暢とは言えない英語でいくつか説明を加えてくれた。言葉は完全には理解できなかったが、その筆致からこの街への深い愛情が伝わってくる気がした。私は一番心惹かれた絵を一枚選び、購入した。それは夕暮れのカレル橋を描いたもので、空が紫がかった朱に染まり、橋の上の人々がシルエットとなって浮かび上がっていた。温かな色調なのに何故か一抹の寂しさが漂うその絵に、私は強く心を動かされた。
絵を丸めて筒に入れ、大事に抱えながら宿への帰路につく。石畳を踏みしめる足取りは、プラハに来た初日よりも軽やかになっている気がした。頭の中には先ほど大聖堂で感じた光景や、老人の描いた絵の色彩が渦巻いていた。それらが混じり合い、新たな創作のイメージがゆっくりと形を成しつつあるように思えた。
第五章 新たな旅立ち
プラハでの滞在も終わりに近づいた数日後の朝、私は再び早起きをした。旅立ちの前に、もう一度あの川辺の朝焼けをこの目に焼き付けておきたかったからだ。宿を出て、ゆっくりと旧市街の路地を抜ける。眠りから覚めた街はひんやりと澄んだ空気に包まれていた。カレル橋へ向かう道すがら、パン屋の軒先から漂う香りや、新聞配達の自転車の音が日常の営みを感じさせる。初めてこの街を歩いた夜には感じた孤独感は、もうなかった。代わりに、まるで長く住み慣れた故郷を散歩するかのような穏やかさが心に満ちていた。
橋のたもとに差し掛かった時、東の空が薄紅に染まり始めた。私は足を止め、その景色を静かに味わう。刻一刻と変わる空と川の色——それは何度見ても飽きることのない、生きた絵画のようだった。聖人像たちも朝陽を浴びて目覚めたかのように、その黒い輪郭が次第に温かな色に彩られてゆく。私はポケットからスケッチブックを取り出すと、最後のページにゆっくりと鉛筆を走らせた。線は淀みなく紙の上を滑り、川面の輝きや空のグラデーションを写し取っていく。数十分後、朝日が顔をのぞかせた頃、一枚の素描が完成した。そこには、朝焼けに染まるプラハの街並みと川、その中に小さく橋の上に立つ人物——自分自身の後ろ姿——が描かれていた。
描き終えたとき、私の心は静かな充実感で満たされていた。スケッチブックを閉じ、そっと胸に抱える。目の前の現実の光景と、自分が描いた絵が重なり合い、やがて一つに溶けていくような不思議な感覚があった。私は心の中でそっとつぶやく。「ありがとう、プラハ」。胸の中で何かが応えた気がした。あの日、日本を発つ前に抱えていた重い石のようなものは、気づけば跡形もなく消えている。代わりに、父が示してくれたあの朝の光の意味が、少しだけわかったような気がした。それは、生きていくこと、創り出すことへの希望と祈りに他ならない。
荷物をまとめ、私はプラハ中央駅からウィーン行きの列車に乗った。車窓に流れる景色を眺めながら、改めてこの旅を振り返る。石畳の夜、川辺の朝焼け、聖堂の光と影、老人が描いた絵……それら一つひとつの出会いが、止まっていた私の時間をもう一度動かしてくれたのだと思う。スケッチブックには旅の間に描き溜めた絵が何枚も増えていた。ページをめくるたびに、プラハで感じた空気や光が蘇る。それらはきっと、これからキャンバスに向かうとき、私の力となってくれるだろう。
列車が静かに動き出し、プラハの街並みがゆっくりと遠ざかっていく。朝日に煌めくヴルタヴァ川が最後に一瞬だけ視界に映り、すぐに見えなくなった。私は窓にもたれ、目を閉じる。心地よい振動に身を任せながら、新たなキャンバスにどんな絵を描こうかと夢想する。 旅は終わった。しかし、私の中で何かが再び動き始めたのを感じる。遠ざかる街に別れを告げ、私は静かに目を開けた。窓の外には、次の街へと続く穏やかな田園風景が広がっていた。創作への旅は、これからも続いていくのだ。





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