ペリゴール・ノワール
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月31日
- 読了時間: 5分

サルラの朝を出たとき、ペリゴール・ノワールの「ノワール(黒)」という言葉が、少し大げさに思えた。空は澄んだ青で、森は深い緑に光り、道路脇の草は乾いた匂いを立てている。けれど走っていくうちに、木々の密度が増し、日陰が濃くなり、ああ、ここで言う“黒”は、色ではなく森の厚みなのだと腑に落ちた。ドルトーニュの谷あたりの空気は、湿り気を含みながらもどこか石灰岩の粉っぽさが混じり、息を吸うたび喉の奥が軽くざらりとする。
サン=アンドレ=ダラスの集落を抜け、Calpalmas(カルパルマ)と書かれた小さな標識を追う。道はさらに細くなり、車のタイヤが砂利を踏む音が増える。木漏れ日がフロントガラスに点滅し、まるで森が手のひらで私の視界を撫でているみたいだった。曲がり角の先でふいに視界が開け、そこに“石の群れ”が現れた瞬間、私は思わずブレーキを緩めた。
Cabanes du Breuil(カバンヌ・デュ・ブリュイユ)。
乾式石積みの農家建築群。モルタルもセメントも使わず、石を石の重さで組み上げた小さな建物たちが、森の縁に寄り添うように並んでいる。
最初に目に入ったのは、蜂の巣みたいな円錐形の屋根だった。
灰色の薄い石板が鱗のように重なり、頂点に向かってきれいに締まっていく。石は一枚一枚、同じ形をしていない。角が欠け、厚みがまちまちで、積み方のリズムも微妙に揺れている。それなのに全体としては驚くほど滑らかな“円錐”になっていて、人の手が作り出した秩序と自然の不揃いが、同じ面の上で共存していた。
近づくと、石の匂いがする。
日光で温められた石灰岩の乾いた匂い。そこに、苔の湿り気と、土の甘さが薄く混ざる。私は指先で壁面に触れた。ざらり、とした冷たさではなく、意外にもほんのり温かい。石が昼の熱を蓄えている。その温度が掌に移ると、遠い昔も同じように、この壁に手を当てた人がいたのではないかと思えて、胸の奥が静かにざわついた。
足元では、黒い鶏が一羽、草を掘っていた。
くちばしが土をつつく音は小さいのに、周囲が静かなせいでよく聞こえる。鶏は私を気にする風もなく、時々首を伸ばして空を見上げ、また土へ戻る。観光地のはずなのに、ここには“暮らしの残り香”がある。飾られた演出ではなく、ただ土と石と生きものが同じ場所にいるだけの自然さ。その自然さが、私の緊張をすっとほどいた。
正面の大きなカバンヌには、四角い開口部が穿たれていた。
窓というより、穴。中は影の塊のように黒く、外の眩しさが縁だけを強調している。私はゆっくり顔を近づけ、目を暗さに慣らした。すると、奥に籠が見えた。古い籐の籠。空っぽなのに、そこにあるだけで“収穫”の気配が立ち上がる。ここに何が入っていたのだろう。栗、くるみ、干し草、あるいは道具。想像が広がるほど、目の前の石の建物が過去へ繋がっていく。
入り口をくぐると、空気が変わった。
外は夏の強い光で、肌が軽く熱を持っていたのに、中はひやりとする。石の中は、時間が遅い。湿った土の匂いが薄く漂い、足音が小さく反響する。耳の奥に自分の呼吸だけが残る。私はその暗さの中で、妙に落ち着く自分に気づいた。旅先で、私はいつも「見なければ」「撮らなければ」と忙しいのに、ここでは“ただ立つ”ことが許される。石の壁が、急ぐ気持ちを吸い取ってくれるみたいだった。
外に出ると、光が一気に戻り、目がちかちかした。
石の屋根の曲線が影を落とし、地面の土は蜂蜜色に乾いている。並んだ建物の中には、円錐だけではなく、少し背の低い家のような形のものもあり、そこには小さな煙突がついていた。煙突のある石造りを見ると、勝手に火の匂いが鼻の奥に立ち上がる。薪の煙、煮込みの湯気、湿った衣服が乾いていく匂い。石は冷たくても、人はその中で温かさを作って暮らしていたのだろう。
私は屋根の石板の重なりを目で追った。
一枚一枚を人の手で運び、選び、置く。その繰り返しが、こうして“形”になる。モルタルがないということは、言い換えれば誤魔化しがないということだ。石は、重さと摩擦と配置だけで支え合う。どこか一つが不自然なら崩れる。だからこそ、置く人は石の癖を読み、全体のバランスを身体で覚えるしかない。
その仕事のことを考えていたら、ふいに自分の心のことに触れてしまった。
私は最近、何かを“早く仕上げる”ことばかりを求めていた気がする。隙間があると不安で、すぐ埋めたくなる。説明をつけ、意味をつけ、結論を急ぐ。でもこの石の建物は、隙間を隙間のまま抱えている。完璧に密閉しない。風や湿気の通り道を残しながら、それでも崩れない強さを手に入れている。支えるとは、固めることだけではない。余白を残したまま立つことも、支えの形なのだと、ここで教えられた気がした。
森の端から、蝉の声が聞こえる。
高い音が一斉に鳴り、しばらく続いて、ふっと途切れる。その間に、葉が擦れる音が入り、遠くで誰かの話し声が小さく混じる。観光客がいるのに、騒がしくない。石が音を吸い、森が視線を柔らかくしている。私は水筒の水を一口飲み、喉を潤した。水は少しぬるくなっていたが、そのぬるさが逆に、この場所の昼の熱を感じさせて、妙に現実的だった。
最後に、入口のあたりで振り返った。
円錐の屋根がいくつも重なり、石の肌が光を受けて鈍く輝いている。建物たちは、誇らしげではない。ただ、黙って立っている。けれど、その黙り方が強い。何百年か分からない時間が、石の重なりに沈んでいる。私はその前で、旅人としての軽さを少し恥ずかしく思いながら、それでも「見に来てよかった」と素直に感じていた。
車へ戻る道すがら、さっきの鶏がまた土をつついていた。
同じ動きなのに、さっきより安心して見える。ここは“遺跡”ではなく、生活の延長として残された場所なのだ。石の建物は過去のものなのに、今の空気と矛盾しない。森の緑も、空の青も、石の灰色も、どれも過剰ではない。私はその調和の中で、ひとつ深く息を吸った。
ペリゴール・ノワールの石は、静かだ。
けれど、静けさの中で、人の手の熱だけがはっきり聞こえる。
私はその“聞こえ方”を胸にしまって、Calpalmasの細い道をゆっくり戻った。





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