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レムベルク城

リベレツ(Liberec)から出る朝のバスは、窓が少しだけ曇っていた。指でこすると、ガラスの向こうの景色がじわりと輪郭を取り戻す。畑の上に薄い霧が寝そべり、樹々は一本一本、白い粉をまとったみたいに淡く光っていた。雪が積もったというより、空気そのものが凍って、木の枝に貼りついた――そんな冬の朝の白さだった。


車内は暖房が効いているのに、足元だけが妙に冷たい。自分の靴から上がってくる湿り気が、旅の現実感をいやでも伝えてくる。コートの襟を立て、膝に置いた手袋を握ると、革がきしむ音が小さく鳴った。窓の外は静かすぎて、たまに通り過ぎる家の煙突から立つ煙が、動いているものの唯一の証拠みたいに見える。


「レムベルク城(Lemberk)へ」


そう決めて来たはずなのに、近づくほど心が落ち着かない。旅先の城は、いつも“絵”として知っているもののはずなのに、冬の中でそれに触れるとなると、急に自分の足が頼りなくなる。冷たい空気が、期待と不安を同じ温度で薄く凍らせている。


バスを降りると、音が変わった。靴底が地面の薄い雪を踏むたびに、きゅ、と短く鳴る。雪はふわふわではなく、砂糖を押し固めたように乾いていて、踏むたびに細かく砕ける。息を吐くと白い煙が目の前に広がり、すぐに消える。消えるのが早いのが怖い。ここでは、私が今この瞬間に出したものさえ、すぐに空気に取り込まれていく。


城へ向かう道は緩やかで、どこか“公園”のような広さがあった。木々が並び、枝という枝が霜でふくらんでいる。葉は落ちているのに、枝が白く重く見えるから、森が逆に密度を増しているように感じる。近くで見ると、霜は細い針の集合で、光を受けて淡くきらめく。風がほんの少し揺らすだけで、枝先から粉雪のような霜がさらさらと落ち、私の肩やまつ毛に触れて冷たい点になる。


その白い森の向こうに、ふいに“形”が現れた。


最初に見えたのは塔だった。円筒形の淡い石の塔。上に乗る尖った屋根は、冬の空の色を吸い込んだような青灰で、その頂に小さな飾りが立っている。まるで物語の挿絵が、そのまま霜の中に置かれたみたいだった。塔の周りには小さな尖塔も見え、城の輪郭が雪の白と薄い空のグレーの間で、ゆっくり浮かび上がってくる。


私は、立ち止まった。胸の奥が、きゅ、と縮む。嬉しいのに、なぜか泣きそうになる。たぶんそれは、城が美しいからではない。城という“時間の塊”を前にしたとき、自分がどれだけ軽くて、どれだけ一瞬でしかないかを、冬の空気が容赦なく教えるからだ。


近づくにつれて、城の壁の色がはっきりしてきた。雪の白に囲まれると、石の肌は意外なほど温かい色をしている。窓は小さく、黒い穴みたいに見えるところもあれば、ガラスが光を拾って薄く銀色に反射しているところもある。屋根の一部に、赤茶の瓦が覗いていた。冬の中の赤は、妙に人間的だ。血の色、薪の火の色、頬の色――生きているものの色に見える。


足元は、芝生の上に薄く雪が乗っているだけで、地面の凹凸が透けて見える。完全な白ではない。白の下に、冬を越える土の色がある。踏むと、きゅ、きゅ、と音がして、靴の縁に雪が粉みたいに付く。空気は冷たいのに、鼻の奥に木の匂いが残る。霜の匂い、湿った樹皮の匂い、遠くの誰かの暖炉の煙の匂い。冷たさの中に、生活がかすかに混じっている。


私は城を見上げながら、子どものころの感覚を思い出していた。童話の中の城は、いつも遠くにあって、触れてはいけない場所で、でもなぜか救いがある場所だった。ここに立っている私は大人で、救いなんて自分で作るものだと知っているはずなのに、白い霜をまとった木々と、尖った塔の組み合わせを見た瞬間、理屈がすっと薄くなる。胸のどこかが、柔らかいところに戻っていく。


城の周りは驚くほど静かで、人の気配が薄い。観光地の賑わいがないわけではないのだろうけれど、この朝の寒さが、余計なものを遠ざけている。聞こえるのは、自分の息と、雪を踏む音と、遠くで鳥が一度だけ鳴く声。鳥の声は乾いていて、冷たい空に細い線を引くように響き、すぐ消える。


私は手袋を外し、指先で木の幹にそっと触れた。霜が付いた樹皮はざらりとして、冷たさが瞬間的に指の骨まで届く。反射的に指を引っ込めると、指先がじん、と痛んだ。その痛みが妙に嬉しい。ここにいる、ということが、手のひらから確かになる。


城を見つめていると、時間の流れ方が変わる気がした。普段の生活では、時間は押し寄せてくる。次の予定、次の返信、次の締め切り。けれど、冬の城の前では、時間は“積もっている”。石の壁に、霜の枝に、何十年、何百年という冬が、層になって眠っているように感じる。私はその層の一番上を、たった今、自分の足で踏んでいる。そう思うと、怖いくらいに贅沢だ。


ふと、風が少し強く吹いた。木々がさわ、と揺れ、霜が一斉に落ちて、白い粉が空中に舞った。舞った霜は光を拾い、数秒だけ、景色全体が淡いきらめきに包まれる。私は息を止めた。これだ、と思った。“フェアリー・ウィンター・キャッスル”という言葉が、ただの宣伝ではなく、本当にこの瞬間のためにある言葉に思えた。


でも、きらめきはすぐ終わる。霜は地面に落ち、空気はまた静かな白に戻る。魔法は続かない。それがいい。続かないから、胸の奥に残る。私の旅も、結局はそういう瞬間を拾い集めることなのだと、体が先に理解する。


城を背にして歩き出すと、塔の尖った屋根が、木々の間でだんだん隠れていった。見えなくなっていくのに、なぜか不安は湧かなかった。ここは逃げない。城は、私の都合とは関係なく、冬の森の上にずっとある。私はただ、その前を通り過ぎただけでいい。


帰り道、頬に当たる空気は相変わらず痛い。けれどその痛みは、さっきより少しだけ優しい。私はコートのポケットの中で指を握り、霜の冷たさを思い出す。

雪に包まれたレムベルク城は、豪華さではなく、沈黙で人を魅了する城だった。

そして私は、その沈黙の中で、久しぶりに自分の心の輪郭を静かに撫でてもらった気がした。

 
 
 

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