ヴィソチナの冬
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月30日
- 読了時間: 6分

ヴィソチナの冬は、音が少ない。バスを降りたとき、まず耳に届いたのは静けさそのものだった。エンジンの余韻が遠ざかるにつれて、世界がふっと薄い膜を張り、私の呼吸だけが輪郭を持つ。吸い込む空気は乾いていて、肺の奥を軽く擦る。吐く息は白く、短く、すぐに風にほどけた。
道はなだらかな起伏の中をゆっくり伸びていて、両側には雪をかぶった畑が広がる。畑の白は均一ではなく、ところどころに土の色が滲み、風が撫でた跡が筋になって残っている。冬のヨーロッパの田舎は、写真で見るよりずっと「広い」。視界の端から端まで、余白がある。その余白が、心の中に溜めこんでいた言葉を、ひとつずつほどいていく気がした。
しばらく歩くと、小さな池が現れた。「池」という言葉の可愛らしさとは裏腹に、そこはひどく真剣な場所に見えた。水面は凍り、黒に近い青が鈍く光っている。完全に白く凍りついた鏡ではない。薄い氷の下に水の色が残り、ところどころ霜が散ったように曇り、まるで夜の空が地面に落ちて固まったみたいだ。氷の上には小さな点がいくつも浮いている。枯れた葦や、折れた枝先が、氷を突き破るように顔を出しているのだ。一本一本が、冬の時間に取り残された針のようで、私は足を止めて見入った。
岸辺には、雪をかぶった草の塊が連なっている。雪はただ積もっているのではなく、枯れ草の輪郭をやわらかく丸め、ところどころで崩れ、茶色い繊維が覗く。水際は凍っている場所と、凍りきらない場所がまだらで、右手の方には氷の縁が薄く欠けて、暗い水がわずかに揺れていた。そこだけが生き物のように動き、他のすべてを静止画にしてしまう。私は、その小さな揺れが怖いくらい嬉しかった。冬の世界に、まだ流れがある。
風が吹くと、池の表面をなぞるように冷気が走った。氷の上の雪粉がさらりと舞い、光の角度で一瞬だけ銀色にきらめいて、すぐに消える。足元の雪は、踏むと「ぎゅっ」と低く鳴いた。乾いた音ではなく、芯まで冷えた雪が圧力に耐えるときの、わずかな悲鳴みたいな音。私は一歩一歩を確かめるように歩き、靴底に伝わる硬さで、地面が今どれほど冷えているかを知った。
池の向こうには、低い灌木がかたまりになって立っている。葉は落ち、細い枝が絡み合い、そこに雪が引っかかって白い塊を作っている。少し離れた場所には、小さな小屋がぽつんとある。木の板で作られた簡素な小屋で、雪原の中でひどく控えめに見えるのに、目が離せない。人がここで何をしているのか、もう使われていないのか、あるいは今も誰かが時々扉を開けるのか――想像が勝手に膨らむ。私は、自分が「暮らし」というものに飢えているのだと気づいた。旅に出ると、景色を見に来たはずなのに、いつも最後は人の痕跡に目が行く。煙突の煤、踏み固められた道、閉じた窓。そういうものが、遠い国の冬を急に私の体温に近づけてくれる。
空は信じられないほど青い。ヴィソチナの冬空は、透明というより濃い。深い青の上に、白い雲が大きな塊で浮かび、遠くの地平線に沿って横に伸びている。雲の底は少し灰色で、雪の白さと呼応して、光が柔らかく広がっている。太陽は直接見えないのに、世界全体が淡い照明を当てられたようで、池の氷も畑の雪も、ぎらつかず、静かに光っていた。私は、その光の質が好きだと思った。強い光は、ものを「説明」してしまう。けれどこの光は、ものを「語らせる」。見れば見るほど、細部が自分から浮かび上がってくる。
池の縁にしゃがむと、氷の表面に小さな気泡が閉じ込められているのが見えた。小さな丸が連なり、凍った途中で止められた呼吸みたいだ。指先でそっと触れる勇気はなかった。触れた瞬間に割れてしまいそうで、割れる音がこの静けさを壊してしまいそうで。私はこういうとき、妙に臆病になる。日常では平気で雑に触っているもの――手すりやドアノブやスマートフォン――そういうものより、この薄い氷の方がよほど「重い」。壊れやすいものは、壊してしまったあとに戻らないからだ。だから私は、触れずに見つめる。見つめるだけで十分だと、自分に言い聞かせる。
ふと、遠くで鳥の声がした。カラスかもしれない。冬の田舎の鳥の声は、近いのに遠い。空気が澄んでいるせいでよく届くのに、景色が広すぎて、声の主がどこにいるのか分からない。私はその「所在の曖昧さ」に救われる。旅先の自分も、今はそんなふうに曖昧でいいと思えたからだ。何者かを決めなくていい。急いで意味をつけなくていい。ただ、冷たい空気の中に立っている。それだけで、今日は充分かもしれない。
それでも、心の奥には小さな棘が残っている。帰国したらまた忙しくなること、返事をしなければならない連絡、先延ばしにしてきた決断。そういうものが、ポケットの中の小石みたいに存在している。普段は歩きながら痛みに慣れてしまうのに、ここでは不思議とその小石の形がはっきり分かる。私は息を吐き、白い霧を見送った。吐いた息は、私の不安と同じで、形を持った瞬間に消えていく。消えるものを握りしめようとして疲れていたのかもしれない、とふと思った。
池のそばの雪は、風が作った微かな波の形を残している。私はその波の稜線に沿って数歩歩き、また立ち止まる。すると、水面の暗さに、空の青と雲の白がうっすら映っているのが分かった。氷が鏡になりきれない中途半端さが、かえって現実的で、私の心に近かった。完璧に凍りついた美しさではない。流れたいものがまだ流れようとし、止まりたいものが止まっている。その境目の揺らぎが、冬という季節の本質なのだろう。
頬が冷えて、感覚が少し鈍くなってきた。手袋の中で指を動かすと、布の摩擦が頼りなく感じる。私はポケットから小さな保温ボトルを取り出し、蓋を開けた。湯気はほとんど立たない。冷気に吸われる前に見えなくなるのだ。それでも一口飲むと、熱が舌を刺し、喉を通って胸へ落ちていく。その瞬間だけ、身体の内側に小さな火が灯る。旅の幸福は、たいていこういう些細な熱に宿る。景色の壮大さではなく、冷えた指先に戻ってくる血の感覚とか、温かい液体が胃に落ちる重みとか。私はその単純さを、少し恥ずかしく、同時に愛おしく思った。
池の向こうの畑は、白いまま地平線へ溶けていく。木々は葉を落とし、枝が空に細い線を描いている。右上の方には、裸の枝が画面をかすめ、まるでこの景色に枠をつけているようだ。私はその枝を見上げ、冬の骨格を思った。葉や花がなくなったときに残る形こそが、本当の輪郭なのだとしたら――私は今、余計なものが削がれた自分を見ているのかもしれない。
しばらくして立ち上がると、足元の雪がぱらりと落ちた。小さな音がして、また静けさが戻る。私は来た道を振り返り、池をもう一度見渡した。暗い氷、枯れた葦、雪の白、遠い小屋、青い空。どれも派手ではないのに、目の奥に焼きつく。この景色は、心を興奮させるのではなく、静かに整える。私の中のざわめきを、凍った水面みたいに薄く固めて、表面を滑らかにしてくれる。
ヴィソチナの冬の田舎は、何かを「見せつける」場所ではなかった。ただ、そこに在り、私がそれを受け取るのを待っている。私はその待ち方に、救われる。
歩き出すと、雪がまた「ぎゅっ」と鳴った。その音だけが、今の私がここにいる証拠だった。私はその小さな証拠を踏みしめながら、凍った池のそばをゆっくり離れていった。胸の奥には、冷たさと同じくらい、静かな温度が残っていた。





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