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一月のドゥオーモ、掌のカイロ

ミラノの一月は、空気の角が少し鋭い。灰色の雲が広場を低く滑る朝、私はドゥオーモの分厚い扉を押した。外で吐いた白い息が、内側ではたちまち透明になる。冷えた石の匂い、溶け残った蝋の甘い匂い、遠くで椅子を並べる音。視線を上げると、肋骨みたいにしなやかなヴォールトが金色にくすんで伸び、両側の柱は森の幹のように太く、上部に彫像の輪が巻き付いている。写真で見なれたはずの場所なのに、実物はもっと静かで、もっと生き物っぽかった。

入口の警備員が「Piano, piano(ゆっくりね)」と笑って、私のリュックのファスナーを指さす。開けっぱなしだった。慌てて閉めると、彼は胸の前で手を合わせて冗談めかしく拝み、私も同じポーズを真似る。こんな小さな身振りで、旅の緊張はふっとほぐれる。

身をすべり込ませるように中央身廊へ出ると、ステンドグラスの帯が床の石に色を落としていた。赤、青、紫。足で踏むのが申し訳ないほど鮮やかだ。近くの燭台で、年配の女性が火をつけようとしていたが、芯が湿っているのか、何度やっても炎が小さく震えて消える。私はポケットから日本の使い捨てカイロを出して、ろうそくの根元をそっと温めた。しばらく待ってから再び火をつけると、今度は炎が細く立ち上がり、ゆっくり背伸びするように安定した。女性は両手で私の手を包み、「Grazie, buon anno(ありがとう、良い年を)」と囁いた。2020年、年が明けてまだ数日。世界がこんなに騒がしくなるとは、誰も知らなかった時期だ。

カイロを握りしめたまま柱の陰に座ると、若い案内スタッフが通りかかって声をかけてくれた。アルバイトだという彼女は「上を見て」と顎をしゃくる。見上げると、天井の汚れと修復の跡が、長い時間の地図みたいに重なっている。

「ここは、古いサンタ・マリア・マッジョーレの場所に建ってるの。最初の石は1386年。完成って言えるまで五世紀。尖塔やステンドグラスの多くが整ったのは19世紀になってから。だから“全部が同い年”じゃないの。家族みたいに歳が違う」

彼女の言い方が好きで、私はしばらく一緒に歩いた。道すがら、彼女はお気に入りの窓を教えてくれた。赤の深さがいい、青の影が柔らかい、線が迷子にならずに戻ってくる――彼女の形容は絵の具箱の中の会話みたいに具体的だった。別れ際、私が「チップを」と言うと、彼女は両手を振って「代わりに、あの小さな祭壇の前で一分だけ目を閉じて。年の最初の一分よ」と笑った。

目を閉じる、という仕事は案外むずかしい。耳が細かい音を拾い始める。誰かのコートが擦れる音、遠くのパイプオルガンの、息を吸い込む前の静けさ、埃が落ちる気配。やがて本当にオルガンが鳴った。練習だろう、ゆっくり音階をさぐるような短い旋律。それでも、石の体が共鳴して、建物全体が少しだけ背筋を伸ばす。私も伸ばす。

中央扉のそばで、別の出来事があった。小さな男の子が、分厚い扉の金具に手を挟み、顔を真っ赤にして泣きそうになっている。父親が慌てて抱き上げるけれど、今にも涙がこぼれそう。私はさっきのカイロを男の子の手の甲に当て、「温かい魔法だよ」と言ってみた。彼は泣くのを忘れて、じっと不思議そうに見つめ、次の瞬間、ニヤリと笑ってカイロを握りしめた。父親が胸に手を当て、「Grazie, amico」と深く頭を下げる。赤いコートの背中が、祭壇の光にちょっとだけきれいに縁取られていた。

さて、旅には少しの失敗も必要だ。私は“撮影可”の表示を確認したつもりで、そっとシャッターを切った。ところが設定が悪く、思いきりフラッシュが光ってしまい、近くの修道者が眉をひそめる。胸が縮む。すぐに両手を合わせて謝ると、彼は親指と人差し指で小さな輪を作り、口パクで「No flash」と言って微笑んだ。懐から紙を取り出し、ローマ字で「きょうはコンサート、19:00」とメモしてくれる。怒られると思っていたのに、柔らかく注意され、ついでに夜の楽しみまで渡された気分だ。

昼を過ぎると、外光が少し蜂蜜色になってきた。私はサイドアイルを進んで、数枚の絵画の前に立つ。絵そのものより、絵の前に立つ人たちの姿がいい。背伸びして解説を読む学生、恋人の肩に鼻先を寄せる青年、膝掛けをたたみながら祈る老婦人。ドゥオーモは「観光名所」だけど、その名所性を支えているのは、こんな小さな動作の積み重ねだと感じる。五世紀かけて仕上げられた装飾も、今日ここで行われる一分の沈黙も、同じ重さで時間に置かれていく。

出口に向かう途中、ちょうど清掃の人が長い柄の羽箒で高い彫像の埃を払っていた。作業はとても寒そうで、指先がかじかんでいるのが遠目にも分かる。私は使いかけのカイロを差し出した。「日本からの小さな太陽」と言うと、彼は大笑いして「ソーレ・ポルタティーレ!」と繰り返した。ポケットに忍ばせたその太陽で指を温めながら、彼はもう片方の手で仕事を続ける。何百年も前の石と、今日の小さな発熱体が同じ画面に収まるのが、妙に嬉しかった。

外へ出ると、広場の風はさらに冷たく、肩をすくませた私の目の前を、鳩がゆっくりと横切った。通りのバールでエスプレッソを一杯。カウンターの向こうでバリスタが「寒いから砂糖ふたつにしな」とウインクする。紙コップを両手で包むように持って、もう一度振り返ると、ドゥオーモの内部で見上げたヴォールトの線が、空の雲と不思議に重なって見えた。

ミラノのドゥオーモは、北イタリアのランドマークとしてあまりに有名で、写真の枚数だけなら世界でいちばん撮られている建物かもしれない。けれど、私の記憶にくっきり残ったのは、歴史の年号ではなく、カイロのぬくもりを受け取った人たちの手の温度、フラッシュでやらかした時の修道者の目尻の皺、そして「家族みたいに歳が違う」と言った案内スタッフの声だった。長い時間を重ねて完成した大聖堂は、今日も目の前で新しい一分を受け取り続けている。その一分に、見知らぬ誰かへの小さな親切を混ぜられたなら、旅は成功だ。

ポケットを探ると、もう冷めかけたカイロが一つ。私はそれを広場のベンチにそっと置き、「必要な人へ」と小さくメモを添えた。風がメモをひらりと揺らす。次に誰の手のひらを温めるのかは分からない。けれど、どこかの誰かが、ドゥオーモの金色の天井の下で私にくれた優しさが、また別の誰かに回っていくなら、それでいい。

一月のミラノ。石の町の真ん中で、掌サイズの太陽は、小さな連帯のランプになっていた。

 
 
 

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