三保の羽衣の襟留め
- 山崎行政書士事務所
- 2025年8月27日
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朝の三保の松原は、細い針で梳(す)いたような影でできていました。松の葉は露を一粒ずつ抱え、黒い砂はまだ昨夜の星の粉をちょっとだけ覚えています。波は扇の骨みたいに寄せては返し、駿河湾の青は、富士の裾(すそ)を遠くでそっと支えていました。八歳の幹夫は、打ち寄せの際(きわ)で膝をつき、貝がらのかけらで砂に小さな円をいくつも描いていました。円はしずかに水のほうへ歩き、やがて波の白に飲まれて消えます。
そのとき、松の枝から、薄い淡橙(たんだい)色の封書が、羽のようにひらりと落ちてきました。紙は笹の葉のさわり心地で、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。
— 至急 三保の浜・羽衣管財課 昨夜の東風により、「羽衣(はごろも)の襟留め」ひとつ脱落。 このままでは正午の海風が襟につかず、 水平線がほどけ、雲が片袖になります。 正午までに新しい襟留めを撚(よ)り合わせ、羽衣の松の枝へ装着のこと。 採取物: ① 波が返る刹那(せつな)に残る「鏡の皿」ひとつ ② 松の針先で光る「やにの灯(ともしび)」ひとつ ③ 砂の中で貝がらが擦(す)れる「浜の囁(ささや)きの糸」ひとすじ 提出先:羽衣の松の中ほど 風の留(と)まり場
「読み書き、えらいね」
足もとの影から、小さな浜千鳥(はまちどり)がとことこ出てきました。背は砂の色、胸は白く、目は黒い粒。細い足で封書をとんとんと押さえます。
「案内係の浜千鳥です。羽衣の襟が留まらないと、海風は服を着そこねて、町に着くころには形が崩れてしまう。今日は君に、きれいな留め具を仕立ててほしい」
幹夫はうなずき、ポケットのハンカチとランドセルの余りひもを確かめました。
*
まず「鏡の皿」。波が寄せて、指を冷たく舐(な)め、ほどける。その返す刀(かたな)の刹那、砂の上に薄い平らがいちどだけ生まれます。幹夫は息を止め、白いハンカチの角でその平らをそっと受けとめました。布はすこし冷たくなり、糸目の間に丸い光がひとつ、居場所を見つけました。
「一本め、取れたね」 浜千鳥は砂に小さな足あとをつけて頷(うなず)きました。「つぎは『やにの灯』。松の針の先で、朝がひと粒だけ火を点(とも)す」
松の根元でしゃがむと、針の先にほんの点ほどの光がありました。樹の匂いは甘く、すこし古い海の気配を混ぜています。幹夫が指先で空気をすくうと、光は抵抗もせず、ひとつまみの温度だけを残して、ハンカチの中に座りました。
「二本め、上等」 浜千鳥は翼の先で富士のほうを一度だけ指しました。「最後は『浜の囁きの糸』。砂の下で貝がらが細く触れあい、音にならない線を一本だけ弾(はじ)くのさ」
二人は波打ち際の少し上を、ゆっくり歩きました。砂を指で浅く掬(すく)い、耳を近づけると、遠いところで「しゅ」と、息の側(そば)だけが鳴りました。幹夫は余りひもで小さな輪を作り、その「しゅ」をひとすじすくい上げます。ひもは軽くふくらみ、指に、やわらかな合図が移りました。
*
羽衣の松は、枝を広げて風の背に腰かけていました。伝え聞く昔話の名残りが、樹皮の皺(しわ)のどこかに、いまも薄く眠っています。枝の中ほどには、風の留まり場——細い金の輪(わ)があり、その片方に留め具の跡がぽっかり空(あ)いていました。
「編もう」 浜千鳥が松の根元で小さく拍(はく)をとります。
幹夫はひざにハンカチを広げ、「鏡の皿」と「やにの灯」と「囁きの糸」を指でそっと合わせました。最初はそれぞれが別々の海へ帰ろうとしましたが、撚(よ)るたびに「り」「ん」「り」とかすかに鳴って、やがて透明な小さな輪——襟留めになっていきました。よく見ると、輪のふちを、波の平ら・樹の灯・砂の糸が、三つ綾(あや)になって流れています。
「さ、装着だよ。心を静かに、手はやさしく」
幹夫は息をととのえ、枝の留まり場に襟留めをそっと掛けました。輪はひと呼吸して、ほんの一度だけ光ってから、松の影と海の匂いになじみました。次の瞬間、沖の方で風が形を持ち、薄い襟を正して岸へ歩きはじめます。水平線は一本の線に戻り、雲は片袖をやめて両袖で富士の肩を軽く押さえました。
浜はしずかに息をして、松の影は少しだけ濃くなり、黒い砂は自分の重さを思い出しました。遠くで釣船の白い旗が、いちどだけよく見える角度で振られ、海はそのことをだれにも言わず飲み込みました。
「できた」 幹夫が手をおろすと、浜千鳥は三歩前に出て、足あとで小さな花を描きました。「ありがとう、幹夫くん。襟が留まれば、風は正装で来る。お礼に、切手を一枚」
浜千鳥がくちばしで差し出した切手は、透明で、小さな輪の形をしていました。光にかざすと、輪のふちに波の平ら、松の灯、砂の糸がうすく描かれているのが見えます。
「『羽衣』の切手。君の一日の襟がほどけそうになったら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、ちゃんと形を保って出てくる」
*
幹夫は松の根元で、お弁当の海苔巻きをひとつ食べました。口の中で海が小さく笑い、のどの奥でさっきの囁きがもう一度だけ微かに鳴りました。波は扇をたたんだりひらいたりし、富士の裾は白を二枚だけ増やして見えました。
家の門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」
その「ただいま」は、襟を一度正してきたみたいに、すっきりしていました。台所からの「おかえり」は今日の風の幅で返ってきて、味噌汁の湯気は柱の木目をまっすぐにのぼります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない小さな襟元が、心の前でそっと留まった気がしました。
正午。海風はきちんと襟を留めて、町へ入りました。洗濯物は白をすこしだけ誇り、信号は赤でも青でもない透明な一秒をはさみました。郵便受けの影は自分の背丈を確かめ、犬は欠伸(あくび)を半分だけにしました。
夕方。松の影は長く伸び、砂は日中の光をすこしずつ返却しました。羽衣の松の襟留めは、最後の風をやさしく受けて、短く「り」と鳴りました。沖の雲は袖を整え、漁火(いさりび)は小さな蜜柑の房ほどの灯をいくつも点しました。
夜。三保の松原の空は、薄い砂の粉で星をとめ、浜千鳥は潮の匂いの中で丸くなって目を閉じました。幹夫が枕に頭をのせると、遠くで波が襟を正し、松の中で昔話が、風鈴みたいにいちどだけ渡りました。
— 波の鏡 松の灯 浜の糸 それらを撚って小さな輪にすれば、 今日の風は、 ちゃんと正装で君の胸を通る。
朝。松はまた針の影を細く並べ、波は新しい線を引きに来ました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな襟留めが、今日の最初の「形」を静かに保っていました。





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