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五月の茶畑と銀河のあいだ

五月の茶畑は、昼には海のようで、夜には空のようだった。

 昼のあいだ、山裾に広がる茶の畝は、日の光を受けて明るく波立っている。摘まれたばかりの若葉の匂いが風に乗り、村の細い道を青く染めていく。けれど夜になると、その緑は闇に沈み、露を抱いた葉先だけが星明かりを受けて、ひそやかに瞬くのだった。

 幹夫は、その夜の茶畑を見るたび、空が地上へ降りてきたのだと思った。

 あるいは、茶畑が空へ近づいているのかもしれない。

 どちらにしても、五月の夜には、地上と天の境目が少しだけ曖昧になる。茶の香りは上へ上へと昇り、星の光は下へ下へと降りてくる。そのあいだに立つと、幹夫は自分の胸が、どこか遠いものにそっと触れられているような気がした。

 幹夫は十二歳だった。

 声はまだ細く、背も同じ年頃の子より少し低かった。けれど、胸の中だけは人よりずっと忙しかった。教室の窓辺で揺れるカーテンの影、友だちの言葉の終わりに残る小さな棘、夕暮れの川面に映る空の寂しさ。そういうものが、幹夫の心にはすぐ入り込んできた。

 入ってきたものは、簡単には出ていかなかった。

 みんなが笑って通り過ぎることを、幹夫はいつまでも考えてしまう。風に倒れた小さな草を見て、その草が朝まで立っていたことを思う。誰かが「平気だよ」と笑っても、その笑いの奥にある震えを感じてしまう。

 父は、そんな幹夫を心配していた。

「もう少し、強くならんとな」

 父はよく言った。

 強くなる。

 幹夫には、その言葉がいつも少し遠かった。強いとは、感じないことなのだろうか。傷ついても黙っていることなのだろうか。涙が出そうなときに、空を見ず、足元だけを見て歩くことなのだろうか。

 茶農家の父は、毎日土と葉を見て働いていた。

 父の手は大きく、節が太く、爪の間にはいつも土の色が残っていた。その手は、幹夫の肩に置かれると少し重かった。けれど茶の若葉に触れるときだけは、不思議なほどやさしかった。

 そのやさしさに、幹夫は気づいていた。

 気づいているのに、うまく言えなかった。

 母が生きていたころなら、きっと言えたかもしれない。

 母は、幹夫の感じる世界を笑わない人だった。若葉を摘みながら、「茶の葉はね、土から出した星の手紙なのよ」と言った。湯呑みの湯気を見て、「五月が白い息をしているみたいね」と言った。

 母が亡くなってから、幹夫の中には、誰にも渡せない言葉が少しずつ積もっていった。

 それは悲しみのようでもあり、宝物のようでもあった。

 その年の五月、学校で絵を描く時間があった。

 題は「わたしのいる場所」。

 友だちは家や校庭や家族の顔を描いていた。幹夫は迷った末に、茶畑を描いた。山裾へ続く緑の畝。その上に、大きな夜空を描いた。空には銀河を流し、茶畑の露にも小さな星を散らした。

 地上の茶畑と、空の銀河。

 そのあいだに、小さく少年を描いた。

 少年は、茶畑にも空にも手を伸ばしていなかった。ただ、どちらの光も浴びる場所に立っていた。

 絵を見た隣の席の健太が笑った。

「なんだよ、茶畑が宇宙になってる」

 ほかの子も覗き込んだ。

「幹夫って、やっぱり変だな」

 悪気のない笑いだったのかもしれない。けれど幹夫の胸は、細い紙で切られたように痛んだ。

 幹夫は絵を伏せた。

 そのあと、先生が何か言っていたが、よく聞こえなかった。窓の外では、五月の光が校庭に落ちていた。青葉が風に揺れている。その揺れさえ、幹夫には少し笑っているように見えた。

 帰り道、幹夫は一人で歩いた。

 茶畑のそばを通る道だった。昼の畑は明るく、若葉の摘まれたあとも、まだ生き生きとした香りを放っていた。大人たちの声が遠くから聞こえ、製茶場の方からは蒸気の匂いが流れてくる。

 幹夫は畑を見ないようにした。

 けれど、見ないようにすればするほど、香りは胸へ入ってきた。

 家に帰ると、祖母が縁側で茶葉を選っていた。

 幹夫の顔を見ると、祖母はすぐに何かあったと気づいたようだった。けれど何も尋ねなかった。ただ、隣に座るように畳を軽く叩いた。

 幹夫はランドセルを下ろし、祖母の隣に座った。

「お茶の匂いがするね」

 祖母が言った。

「うん」

「五月だからね」

「五月は、どこにでも入ってくるね」

 幹夫がそう言うと、祖母は手を止めて微笑んだ。

「入ってきて困るかい」

 幹夫は少し考えた。

「困るときもある」

「どうして」

「胸がいっぱいになるから」

 祖母は頷いた。

「胸がいっぱいになるのは、悪いことばかりじゃないよ」

「でも、いっぱいになると苦しい」

「そうだね」

 祖母は茶葉を一つまみ掌にのせた。

「急須も、入れすぎるとお茶がうまく出ない。けれど、空っぽでは香らない」

 幹夫は祖母の掌を見つめた。

 細く撚られた茶葉は、畑にいたころの若葉とは違う姿になっていた。摘まれ、蒸され、揉まれて、細く深い緑になっている。けれど香りは、畑にいたころよりずっと濃かった。

「心も同じかもしれないね」

 祖母は静かに言った。

「いろんなものが入りすぎれば苦しい。でも、何も入らなければ香らない」

 幹夫は黙った。

 自分の胸には、いろいろなものが入りすぎる。友だちの笑い声。父の言葉。母の記憶。茶畑の香り。夜空の銀河。入りすぎて、時々どこに自分がいるのか分からなくなる。

 その夜、幹夫は眠れなかった。

 父と祖母が寝静まったあと、幹夫はそっと布団を抜け出した。机の上には、学校から持ち帰った絵が置いてあった。伏せたままの紙をめくると、茶畑と銀河のあいだに描いた小さな少年が、こちらを見ているようだった。

 変だと言われた絵。

 けれど幹夫には、やはり嘘には見えなかった。

 五月の茶畑と銀河のあいだに、自分はいる。

 そうとしか思えなかった。

 幹夫は絵を胸に抱え、家を出た。

 夜の村は静かだった。田んぼから蛙の声が幾重にも重なって聞こえた。遠くの製茶場の音はもう止み、代わりに風が木々の葉を撫でる音がしていた。

 茶畑へ向かう坂道を上る。

 夜露に濡れた草が靴に触れた。空には星が出ていた。月は細く、銀河は山の上に淡く流れていた。白い帯というより、夜そのものが少し薄くなっている場所のようだった。

 茶畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。

 昼の緑は闇に沈み、形だけが黒い波となって続いている。けれど葉先には露があり、星の光を受けて小さく光っていた。空にある星と、茶の葉に宿る露の光が、幹夫の目の中で重なった。

 幹夫は絵を広げた。

 そこには、自分が見たかったものが描かれていた。

 地上の茶畑。 空の銀河。 そのあいだに立つ少年。

 けれど、その少年は少し寂しそうだった。

 どちらにも届かない場所にいるように見えた。

「僕は、どこにいればいいんだろう」

 幹夫は小さくつぶやいた。

 茶畑は答えなかった。

 銀河も答えなかった。

 ただ、風が吹いた。

 若葉が一斉に揺れた。葉の擦れ合う音が、夜の底にかすかに広がった。それは、誰かが遠くで便箋をめくる音のようだった。

 幹夫は目を閉じた。

 母の声が、記憶の奥から浮かんだ。

 ――茶の葉は、土から出した星の手紙なのよ。

 幹夫は胸が熱くなった。

 茶の葉は、土だけのものではない。空だけのものでもない。土に根を持ち、空の光を受け、雨を抱き、風に揺れ、人の手に摘まれて香りになる。

 茶の葉は、あいだにいる。

 土と空のあいだ。 昼と夜のあいだ。 別れと記憶のあいだ。 言葉にならない気持ちと、誰かへ届く手紙のあいだ。

 幹夫は、はっとした。

 自分も、あいだにいるのかもしれない。

 父のように土だけを見ることはできない。母のように空の言葉をそのまま人へ渡すことも、まだできない。学校のみんなのように笑って通り過ぎることもできず、かといって、感じたものを全部絵や言葉にすることもできない。

 けれど、あいだにいることは、どこにもいないことではない。

 あいだには、風が通る。 香りが満ちる。 光が降りる。 心が、遠いものと近いものを結ぼうとして震える。

 幹夫は、夜の茶畑を見渡した。

 茶畑は地上にある。けれど、その葉先はいつも空へ向かっている。銀河は空にある。けれど、その光は地上へ降りてくる。二つは遠い。けれど、完全に離れてはいない。

 そのあいだに、幹夫の心があった。

 小さく、すぐ揺れ、時々苦しくなる心。

 けれど、その心だからこそ、茶の香りと星の光を同じ胸に受け取れるのかもしれない。

「幹夫」

 背後から声がした。

 幹夫は驚いて振り返った。

 父だった。作業着の上に薄い上着を羽織り、坂道をゆっくり上ってきた。怒っているようには見えなかった。ただ、困ったような、少し疲れたような顔をしていた。

「こんな時間に、何をしている」

「ごめんなさい」

 幹夫は絵を胸に抱いた。

 父は近づき、茶畑の端で足を止めた。しばらく何も言わなかった。二人の間を、五月の夜風が通っていった。

「眠れなかったのか」

「うん」

「学校で何かあったか」

 幹夫は答えられなかった。

 父に話しても、きっと分からない。茶畑を銀河みたいに描いて笑われたなんて、言えば余計に恥ずかしくなる気がした。

 けれど父は、幹夫の抱えている紙に気づいた。

「それは?」

「絵」

「見せてみろ」

 幹夫は迷った。

 見せたくなかった。けれど、見せないままだと、この絵はずっと胸の中で折れ曲がったままになる気がした。

 幹夫は絵を差し出した。

 父はそれを受け取り、星明かりの下で見た。暗くて細かなところまでは分からないはずだった。けれど父は、長いあいだ黙って見つめていた。

「茶畑か」

「うん」

「これは、銀河か」

「うん」

「この小さいのは、お前か」

 幹夫は頷いた。

 父はまた黙った。

 沈黙が長くなり、幹夫の胸が不安で縮んだ。

「変だよね」

 先に言ってしまった。

「みんなにも笑われた。茶畑が宇宙みたいだって」

 父は絵から目を離さなかった。

 そして低い声で言った。

「変ではない」

 幹夫は顔を上げた。

「本当に?」

「俺には、こうは見えん」

 父は静かに続けた。

「だが、お前にはこう見えるんだろう」

 幹夫は息を止めた。

「それなら、変ではない」

 その言葉は、幹夫の胸へゆっくり沈んだ。

 父は、絵をうまいとも、きれいだとも言わなかった。全部分かったとも言わなかった。ただ、幹夫にはそう見えるのだと認めてくれた。

 それだけで、絵の中の小さな少年が、少し背を伸ばしたように思えた。

「お父さんには、茶畑はどう見えるの」

 幹夫は尋ねた。

 父は畑を見た。

 夜の中の茶畑は、色も形も曖昧だった。父は少し考えてから言った。

「仕事だ」

 幹夫は胸が少し沈んだ。

 けれど父は続けた。

「暮らしだ。お前や祖母さんを食わせていくものだ。母さんと一緒に守ってきたものでもある」

 父の声が、少しだけ低くなった。

「だから、時々重い」

 幹夫は父を見た。

 重い。

 父の口から出たその言葉は、夜の土のように湿っていた。幹夫は初めて、父にとって茶畑がただ美しいだけの場所ではないことを知った。そこには生活があり、責任があり、亡くなった母との時間があり、逃げられない明日がある。

 父もまた、茶畑に胸をいっぱいにされていたのだ。

 ただ、それを香りや星ではなく、重さとして受け取っていたのだ。

「お父さんも、苦しい?」

 幹夫は小さく聞いた。

 父はすぐには答えなかった。

 やがて、茶畑を見たまま言った。

「苦しい日もある」

 幹夫の喉が熱くなった。

 父も苦しい。 父も胸がいっぱいになる。 父も、この茶畑の前で立ち止まることがある。

 そのことを知っただけで、幹夫は父が少し近くなった気がした。

「でもな」

 父は絵を幹夫に返した。

「朝になると、葉を見る。芽が出ている。昨日より少し伸びている。それを見ると、またやるかと思う」

「強いね」

 幹夫が言うと、父は首を振った。

「強いんじゃない。続けているだけだ」

 続けているだけ。

 その言葉は、幹夫の胸に残った。

 強さとは、感じないことではないのかもしれない。苦しくならないことでも、泣かないことでもない。苦しい日があっても、次の朝に葉を見ること。震える手で、それでも一枚の若葉に触れること。

 幹夫は自分の絵を見た。

 茶畑と銀河のあいだに立つ少年。

 その少年は、どこにも属していないのではなかった。

 茶畑の重さと、銀河の遠さ。その両方に触れながら、そこに立っているのだった。

 父が空を見上げた。

「銀河というのは、どれだ」

 幹夫は驚いた。

「見る?」

「せっかく来たからな」

 幹夫は空を指さした。

「あそこ。山の上の、白くぼんやりしているところ」

 父は目を細めた。

「雲みたいだな」

「雲じゃないよ。星がたくさん集まってる」

「そうか」

 父はしばらく空を見ていた。

 幹夫も隣で見上げた。

 父と同じものを見ることが、こんなに静かなことだとは思わなかった。言葉は少なかった。けれど、二人の沈黙は先ほどよりやわらかかった。茶畑の香りが足元から立ちのぼり、銀河の光が頭上から降りてくる。

 そのあいだに、父と幹夫が並んで立っていた。

「母さんも」

 父がぽつりと言った。

「よく空を見ていた」

 幹夫は父の横顔を見た。

「茶摘みのあと、疲れているはずなのに、夜に外へ出てな。星がきれいだと言っていた。俺には、葉の方が大事だと思えた」

「今は?」

 父は少し黙った。

「今も、葉は大事だ」

「うん」

「だが、母さんが何を見ていたのか、少し知りたいと思うことがある」

 幹夫は胸がいっぱいになった。

 母はいない。けれど母が見ていた空は、今もある。母が触れていた茶の葉も、毎年また芽吹く。母の言葉は、幹夫の胸だけでなく、父の沈黙の中にも残っていたのかもしれない。

 遠くで、流れ星が一つ落ちた。

 ほんの一瞬だった。銀河の端からこぼれたような細い光が、夜を切って消えた。

「あ」

 幹夫が声を出した。

「見た」

 父が言った。

 二人は同時に空を見つめた。

 願いごとは言えなかった。けれど幹夫は、それでよかった。願いごとは、言葉にならなくても胸の中で光ることがある。むしろ言葉になる前の方が、本当の形に近いのかもしれない。

 幹夫は心の中で願った。

 この絵を、嫌いになりませんように。 自分の見え方を、恥ずかしがりすぎませんように。 父の重さにも、母の光にも、ちゃんと気づけますように。

 家に戻ると、祖母が起きて待っていた。

 祖母は何も叱らなかった。ただ、二人の顔を見ると、急須を取り出した。

「夜更けの新茶を淹れようかね」

「眠れなくなるよ」

 幹夫が言うと、祖母は笑った。

「眠らなくてもいい夜もあるさ」

 三人は食卓についた。

 仏壇の前には、母の写真があった。祖母はそこにも小さな湯呑みを置いた。白い湯気が、写真の前で静かに揺れた。

 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。

 新茶の香りが立つ。

 青く、甘く、少し苦い。

 一口飲むと、昼の茶畑と夜の銀河が、胸の中で静かに重なった。茶の苦みのあとに甘みが戻る。その順番は、悲しみに似ていると思った。最初は苦い。けれど、その奥に、かつて大切だったものの温かさが残っている。

 祖母が幹夫の絵を見た。

「これは、いいねえ」

 幹夫は少し照れた。

「変じゃない?」

「変というのはね、まだ名前がついていないだけのこともある」

 祖母は目を細めた。

「これは、幹夫の場所だね」

「僕の場所?」

「五月の茶畑と銀河のあいだ。そこに立っているんだろう」

 幹夫は絵を見た。

 たしかに、そこに小さな自分がいる。

 以前は、その少年が寂しそうに見えた。けれど今は少し違った。足元には茶畑があり、頭上には銀河がある。どちらにも届かないのではなく、どちらからも届いている場所に立っている。

 あいだとは、空白ではなかった。

 そこは、受け取る場所だった。

 香りを受け取る。 光を受け取る。 沈黙を受け取る。 悲しみの奥にある温かさを受け取る。

 幹夫は父を見た。

 父は湯呑みを持ったまま、母の写真を見ていた。その目には涙はなかった。けれど幹夫には、父の胸の中で何かが静かに揺れているのが分かった。

 その揺れを、幹夫はもう弱さだとは思わなかった。

 翌日、学校で絵を提出した。

 幹夫は絵を伏せずに机の上へ置いた。健太がまた覗き込んだ。

「やっぱり茶畑が宇宙だ」

 幹夫の胸は少し痛んだ。

 けれど、昨日ほどではなかった。

「宇宙じゃないよ」

 幹夫は小さく言った。

「茶畑と銀河のあいだ」

 健太は首をかしげた。

「何それ」

 幹夫は少し考えた。

 全部を説明することはできないと思った。夜の茶畑の香りも、父の沈黙も、母の言葉も、流れ星も、新茶の苦みも、短い言葉には入りきらない。

 だから、幹夫は言った。

「僕のいるところ」

 健太は「ふうん」と言っただけだった。

 けれど、それでよかった。

 分かってもらえなくても、消えないものがある。すぐに届かなくても、いつか遅れて届く光がある。星の光のように。新茶の香りのように。

 その日の夕方、幹夫は一人で茶畑へ行った。

 空はまだ明るかった。茶畑は緑の波となって山裾に広がり、遠くでは製茶場の煙が薄く上っていた。夜になれば、また銀河が出るかもしれない。出ないかもしれない。

 けれど幹夫は、もう見えないことを怖がらなかった。

 銀河は雲に隠れてもある。 母の声は聞こえなくても残っている。 父のやさしさは言葉が少なくても、手の動きや沈黙の中にある。

 そして自分の心も、弱いだけではない。

 薄いから光を通す。 揺れるから風を知る。 傷つきやすいから、誰かの痛みに気づける。

 幹夫は茶の若葉にそっと触れた。

 葉は柔らかく、まだ昼の光を含んでいた。指先に、青い香りが移った。幹夫はその指を胸の前で握った。

 五月の茶畑と銀河のあいだ。

 そこは、幹夫がひとりぼっちで立つ場所ではなかった。

 母の言葉がある。 父の重さがある。 祖母の微笑みがある。 茶の香りがある。 星の光がある。

 そして、まだ言葉にならない幹夫自身の心がある。

 夜が来れば、茶畑は空に近づくだろう。

 銀河は地上へ光を降らせるだろう。

 そのあいだで、幹夫はまた胸をいっぱいにするだろう。苦しくなるかもしれない。涙が出るかもしれない。それでも、幹夫はもうその胸を嫌いになりたくなかった。

 空っぽでは香らない。

 祖母の言葉が、風の中でそっと戻ってきた。

 幹夫は茶畑の向こうに沈む夕日を見た。

 緑の畝は金色に染まり、まるで昼の銀河のように光っていた。空にはまだ星はない。けれど、幹夫には分かった。星は見えないだけで、すでにそこにある。

 茶畑も、銀河も、心も。

 見えるときと、見えないときがあるだけだ。

 幹夫はゆっくり家へ向かって歩き出した。

 背中の後ろで、五月の茶畑が風に揺れた。頭上では、まだ見えない銀河が夜を待っていた。

 その二つのあいだを、少年は歩いていく。

 小さな胸に、新茶の香りと星の光を抱きながら。


 
 
 

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