五月の茶畑と銀河のあいだ
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 15分

五月の茶畑は、昼には海のようで、夜には空のようだった。
昼のあいだ、山裾に広がる茶の畝は、日の光を受けて明るく波立っている。摘まれたばかりの若葉の匂いが風に乗り、村の細い道を青く染めていく。けれど夜になると、その緑は闇に沈み、露を抱いた葉先だけが星明かりを受けて、ひそやかに瞬くのだった。
幹夫は、その夜の茶畑を見るたび、空が地上へ降りてきたのだと思った。
あるいは、茶畑が空へ近づいているのかもしれない。
どちらにしても、五月の夜には、地上と天の境目が少しだけ曖昧になる。茶の香りは上へ上へと昇り、星の光は下へ下へと降りてくる。そのあいだに立つと、幹夫は自分の胸が、どこか遠いものにそっと触れられているような気がした。
幹夫は十二歳だった。
声はまだ細く、背も同じ年頃の子より少し低かった。けれど、胸の中だけは人よりずっと忙しかった。教室の窓辺で揺れるカーテンの影、友だちの言葉の終わりに残る小さな棘、夕暮れの川面に映る空の寂しさ。そういうものが、幹夫の心にはすぐ入り込んできた。
入ってきたものは、簡単には出ていかなかった。
みんなが笑って通り過ぎることを、幹夫はいつまでも考えてしまう。風に倒れた小さな草を見て、その草が朝まで立っていたことを思う。誰かが「平気だよ」と笑っても、その笑いの奥にある震えを感じてしまう。
父は、そんな幹夫を心配していた。
「もう少し、強くならんとな」
父はよく言った。
強くなる。
幹夫には、その言葉がいつも少し遠かった。強いとは、感じないことなのだろうか。傷ついても黙っていることなのだろうか。涙が出そうなときに、空を見ず、足元だけを見て歩くことなのだろうか。
茶農家の父は、毎日土と葉を見て働いていた。
父の手は大きく、節が太く、爪の間にはいつも土の色が残っていた。その手は、幹夫の肩に置かれると少し重かった。けれど茶の若葉に触れるときだけは、不思議なほどやさしかった。
そのやさしさに、幹夫は気づいていた。
気づいているのに、うまく言えなかった。
母が生きていたころなら、きっと言えたかもしれない。
母は、幹夫の感じる世界を笑わない人だった。若葉を摘みながら、「茶の葉はね、土から出した星の手紙なのよ」と言った。湯呑みの湯気を見て、「五月が白い息をしているみたいね」と言った。
母が亡くなってから、幹夫の中には、誰にも渡せない言葉が少しずつ積もっていった。
それは悲しみのようでもあり、宝物のようでもあった。
その年の五月、学校で絵を描く時間があった。
題は「わたしのいる場所」。
友だちは家や校庭や家族の顔を描いていた。幹夫は迷った末に、茶畑を描いた。山裾へ続く緑の畝。その上に、大きな夜空を描いた。空には銀河を流し、茶畑の露にも小さな星を散らした。
地上の茶畑と、空の銀河。
そのあいだに、小さく少年を描いた。
少年は、茶畑にも空にも手を伸ばしていなかった。ただ、どちらの光も浴びる場所に立っていた。
絵を見た隣の席の健太が笑った。
「なんだよ、茶畑が宇宙になってる」
ほかの子も覗き込んだ。
「幹夫って、やっぱり変だな」
悪気のない笑いだったのかもしれない。けれど幹夫の胸は、細い紙で切られたように痛んだ。
幹夫は絵を伏せた。
そのあと、先生が何か言っていたが、よく聞こえなかった。窓の外では、五月の光が校庭に落ちていた。青葉が風に揺れている。その揺れさえ、幹夫には少し笑っているように見えた。
帰り道、幹夫は一人で歩いた。
茶畑のそばを通る道だった。昼の畑は明るく、若葉の摘まれたあとも、まだ生き生きとした香りを放っていた。大人たちの声が遠くから聞こえ、製茶場の方からは蒸気の匂いが流れてくる。
幹夫は畑を見ないようにした。
けれど、見ないようにすればするほど、香りは胸へ入ってきた。
家に帰ると、祖母が縁側で茶葉を選っていた。
幹夫の顔を見ると、祖母はすぐに何かあったと気づいたようだった。けれど何も尋ねなかった。ただ、隣に座るように畳を軽く叩いた。
幹夫はランドセルを下ろし、祖母の隣に座った。
「お茶の匂いがするね」
祖母が言った。
「うん」
「五月だからね」
「五月は、どこにでも入ってくるね」
幹夫がそう言うと、祖母は手を止めて微笑んだ。
「入ってきて困るかい」
幹夫は少し考えた。
「困るときもある」
「どうして」
「胸がいっぱいになるから」
祖母は頷いた。
「胸がいっぱいになるのは、悪いことばかりじゃないよ」
「でも、いっぱいになると苦しい」
「そうだね」
祖母は茶葉を一つまみ掌にのせた。
「急須も、入れすぎるとお茶がうまく出ない。けれど、空っぽでは香らない」
幹夫は祖母の掌を見つめた。
細く撚られた茶葉は、畑にいたころの若葉とは違う姿になっていた。摘まれ、蒸され、揉まれて、細く深い緑になっている。けれど香りは、畑にいたころよりずっと濃かった。
「心も同じかもしれないね」
祖母は静かに言った。
「いろんなものが入りすぎれば苦しい。でも、何も入らなければ香らない」
幹夫は黙った。
自分の胸には、いろいろなものが入りすぎる。友だちの笑い声。父の言葉。母の記憶。茶畑の香り。夜空の銀河。入りすぎて、時々どこに自分がいるのか分からなくなる。
その夜、幹夫は眠れなかった。
父と祖母が寝静まったあと、幹夫はそっと布団を抜け出した。机の上には、学校から持ち帰った絵が置いてあった。伏せたままの紙をめくると、茶畑と銀河のあいだに描いた小さな少年が、こちらを見ているようだった。
変だと言われた絵。
けれど幹夫には、やはり嘘には見えなかった。
五月の茶畑と銀河のあいだに、自分はいる。
そうとしか思えなかった。
幹夫は絵を胸に抱え、家を出た。
夜の村は静かだった。田んぼから蛙の声が幾重にも重なって聞こえた。遠くの製茶場の音はもう止み、代わりに風が木々の葉を撫でる音がしていた。
茶畑へ向かう坂道を上る。
夜露に濡れた草が靴に触れた。空には星が出ていた。月は細く、銀河は山の上に淡く流れていた。白い帯というより、夜そのものが少し薄くなっている場所のようだった。
茶畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。
昼の緑は闇に沈み、形だけが黒い波となって続いている。けれど葉先には露があり、星の光を受けて小さく光っていた。空にある星と、茶の葉に宿る露の光が、幹夫の目の中で重なった。
幹夫は絵を広げた。
そこには、自分が見たかったものが描かれていた。
地上の茶畑。 空の銀河。 そのあいだに立つ少年。
けれど、その少年は少し寂しそうだった。
どちらにも届かない場所にいるように見えた。
「僕は、どこにいればいいんだろう」
幹夫は小さくつぶやいた。
茶畑は答えなかった。
銀河も答えなかった。
ただ、風が吹いた。
若葉が一斉に揺れた。葉の擦れ合う音が、夜の底にかすかに広がった。それは、誰かが遠くで便箋をめくる音のようだった。
幹夫は目を閉じた。
母の声が、記憶の奥から浮かんだ。
――茶の葉は、土から出した星の手紙なのよ。
幹夫は胸が熱くなった。
茶の葉は、土だけのものではない。空だけのものでもない。土に根を持ち、空の光を受け、雨を抱き、風に揺れ、人の手に摘まれて香りになる。
茶の葉は、あいだにいる。
土と空のあいだ。 昼と夜のあいだ。 別れと記憶のあいだ。 言葉にならない気持ちと、誰かへ届く手紙のあいだ。
幹夫は、はっとした。
自分も、あいだにいるのかもしれない。
父のように土だけを見ることはできない。母のように空の言葉をそのまま人へ渡すことも、まだできない。学校のみんなのように笑って通り過ぎることもできず、かといって、感じたものを全部絵や言葉にすることもできない。
けれど、あいだにいることは、どこにもいないことではない。
あいだには、風が通る。 香りが満ちる。 光が降りる。 心が、遠いものと近いものを結ぼうとして震える。
幹夫は、夜の茶畑を見渡した。
茶畑は地上にある。けれど、その葉先はいつも空へ向かっている。銀河は空にある。けれど、その光は地上へ降りてくる。二つは遠い。けれど、完全に離れてはいない。
そのあいだに、幹夫の心があった。
小さく、すぐ揺れ、時々苦しくなる心。
けれど、その心だからこそ、茶の香りと星の光を同じ胸に受け取れるのかもしれない。
「幹夫」
背後から声がした。
幹夫は驚いて振り返った。
父だった。作業着の上に薄い上着を羽織り、坂道をゆっくり上ってきた。怒っているようには見えなかった。ただ、困ったような、少し疲れたような顔をしていた。
「こんな時間に、何をしている」
「ごめんなさい」
幹夫は絵を胸に抱いた。
父は近づき、茶畑の端で足を止めた。しばらく何も言わなかった。二人の間を、五月の夜風が通っていった。
「眠れなかったのか」
「うん」
「学校で何かあったか」
幹夫は答えられなかった。
父に話しても、きっと分からない。茶畑を銀河みたいに描いて笑われたなんて、言えば余計に恥ずかしくなる気がした。
けれど父は、幹夫の抱えている紙に気づいた。
「それは?」
「絵」
「見せてみろ」
幹夫は迷った。
見せたくなかった。けれど、見せないままだと、この絵はずっと胸の中で折れ曲がったままになる気がした。
幹夫は絵を差し出した。
父はそれを受け取り、星明かりの下で見た。暗くて細かなところまでは分からないはずだった。けれど父は、長いあいだ黙って見つめていた。
「茶畑か」
「うん」
「これは、銀河か」
「うん」
「この小さいのは、お前か」
幹夫は頷いた。
父はまた黙った。
沈黙が長くなり、幹夫の胸が不安で縮んだ。
「変だよね」
先に言ってしまった。
「みんなにも笑われた。茶畑が宇宙みたいだって」
父は絵から目を離さなかった。
そして低い声で言った。
「変ではない」
幹夫は顔を上げた。
「本当に?」
「俺には、こうは見えん」
父は静かに続けた。
「だが、お前にはこう見えるんだろう」
幹夫は息を止めた。
「それなら、変ではない」
その言葉は、幹夫の胸へゆっくり沈んだ。
父は、絵をうまいとも、きれいだとも言わなかった。全部分かったとも言わなかった。ただ、幹夫にはそう見えるのだと認めてくれた。
それだけで、絵の中の小さな少年が、少し背を伸ばしたように思えた。
「お父さんには、茶畑はどう見えるの」
幹夫は尋ねた。
父は畑を見た。
夜の中の茶畑は、色も形も曖昧だった。父は少し考えてから言った。
「仕事だ」
幹夫は胸が少し沈んだ。
けれど父は続けた。
「暮らしだ。お前や祖母さんを食わせていくものだ。母さんと一緒に守ってきたものでもある」
父の声が、少しだけ低くなった。
「だから、時々重い」
幹夫は父を見た。
重い。
父の口から出たその言葉は、夜の土のように湿っていた。幹夫は初めて、父にとって茶畑がただ美しいだけの場所ではないことを知った。そこには生活があり、責任があり、亡くなった母との時間があり、逃げられない明日がある。
父もまた、茶畑に胸をいっぱいにされていたのだ。
ただ、それを香りや星ではなく、重さとして受け取っていたのだ。
「お父さんも、苦しい?」
幹夫は小さく聞いた。
父はすぐには答えなかった。
やがて、茶畑を見たまま言った。
「苦しい日もある」
幹夫の喉が熱くなった。
父も苦しい。 父も胸がいっぱいになる。 父も、この茶畑の前で立ち止まることがある。
そのことを知っただけで、幹夫は父が少し近くなった気がした。
「でもな」
父は絵を幹夫に返した。
「朝になると、葉を見る。芽が出ている。昨日より少し伸びている。それを見ると、またやるかと思う」
「強いね」
幹夫が言うと、父は首を振った。
「強いんじゃない。続けているだけだ」
続けているだけ。
その言葉は、幹夫の胸に残った。
強さとは、感じないことではないのかもしれない。苦しくならないことでも、泣かないことでもない。苦しい日があっても、次の朝に葉を見ること。震える手で、それでも一枚の若葉に触れること。
幹夫は自分の絵を見た。
茶畑と銀河のあいだに立つ少年。
その少年は、どこにも属していないのではなかった。
茶畑の重さと、銀河の遠さ。その両方に触れながら、そこに立っているのだった。
父が空を見上げた。
「銀河というのは、どれだ」
幹夫は驚いた。
「見る?」
「せっかく来たからな」
幹夫は空を指さした。
「あそこ。山の上の、白くぼんやりしているところ」
父は目を細めた。
「雲みたいだな」
「雲じゃないよ。星がたくさん集まってる」
「そうか」
父はしばらく空を見ていた。
幹夫も隣で見上げた。
父と同じものを見ることが、こんなに静かなことだとは思わなかった。言葉は少なかった。けれど、二人の沈黙は先ほどよりやわらかかった。茶畑の香りが足元から立ちのぼり、銀河の光が頭上から降りてくる。
そのあいだに、父と幹夫が並んで立っていた。
「母さんも」
父がぽつりと言った。
「よく空を見ていた」
幹夫は父の横顔を見た。
「茶摘みのあと、疲れているはずなのに、夜に外へ出てな。星がきれいだと言っていた。俺には、葉の方が大事だと思えた」
「今は?」
父は少し黙った。
「今も、葉は大事だ」
「うん」
「だが、母さんが何を見ていたのか、少し知りたいと思うことがある」
幹夫は胸がいっぱいになった。
母はいない。けれど母が見ていた空は、今もある。母が触れていた茶の葉も、毎年また芽吹く。母の言葉は、幹夫の胸だけでなく、父の沈黙の中にも残っていたのかもしれない。
遠くで、流れ星が一つ落ちた。
ほんの一瞬だった。銀河の端からこぼれたような細い光が、夜を切って消えた。
「あ」
幹夫が声を出した。
「見た」
父が言った。
二人は同時に空を見つめた。
願いごとは言えなかった。けれど幹夫は、それでよかった。願いごとは、言葉にならなくても胸の中で光ることがある。むしろ言葉になる前の方が、本当の形に近いのかもしれない。
幹夫は心の中で願った。
この絵を、嫌いになりませんように。 自分の見え方を、恥ずかしがりすぎませんように。 父の重さにも、母の光にも、ちゃんと気づけますように。
家に戻ると、祖母が起きて待っていた。
祖母は何も叱らなかった。ただ、二人の顔を見ると、急須を取り出した。
「夜更けの新茶を淹れようかね」
「眠れなくなるよ」
幹夫が言うと、祖母は笑った。
「眠らなくてもいい夜もあるさ」
三人は食卓についた。
仏壇の前には、母の写真があった。祖母はそこにも小さな湯呑みを置いた。白い湯気が、写真の前で静かに揺れた。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
新茶の香りが立つ。
青く、甘く、少し苦い。
一口飲むと、昼の茶畑と夜の銀河が、胸の中で静かに重なった。茶の苦みのあとに甘みが戻る。その順番は、悲しみに似ていると思った。最初は苦い。けれど、その奥に、かつて大切だったものの温かさが残っている。
祖母が幹夫の絵を見た。
「これは、いいねえ」
幹夫は少し照れた。
「変じゃない?」
「変というのはね、まだ名前がついていないだけのこともある」
祖母は目を細めた。
「これは、幹夫の場所だね」
「僕の場所?」
「五月の茶畑と銀河のあいだ。そこに立っているんだろう」
幹夫は絵を見た。
たしかに、そこに小さな自分がいる。
以前は、その少年が寂しそうに見えた。けれど今は少し違った。足元には茶畑があり、頭上には銀河がある。どちらにも届かないのではなく、どちらからも届いている場所に立っている。
あいだとは、空白ではなかった。
そこは、受け取る場所だった。
香りを受け取る。 光を受け取る。 沈黙を受け取る。 悲しみの奥にある温かさを受け取る。
幹夫は父を見た。
父は湯呑みを持ったまま、母の写真を見ていた。その目には涙はなかった。けれど幹夫には、父の胸の中で何かが静かに揺れているのが分かった。
その揺れを、幹夫はもう弱さだとは思わなかった。
翌日、学校で絵を提出した。
幹夫は絵を伏せずに机の上へ置いた。健太がまた覗き込んだ。
「やっぱり茶畑が宇宙だ」
幹夫の胸は少し痛んだ。
けれど、昨日ほどではなかった。
「宇宙じゃないよ」
幹夫は小さく言った。
「茶畑と銀河のあいだ」
健太は首をかしげた。
「何それ」
幹夫は少し考えた。
全部を説明することはできないと思った。夜の茶畑の香りも、父の沈黙も、母の言葉も、流れ星も、新茶の苦みも、短い言葉には入りきらない。
だから、幹夫は言った。
「僕のいるところ」
健太は「ふうん」と言っただけだった。
けれど、それでよかった。
分かってもらえなくても、消えないものがある。すぐに届かなくても、いつか遅れて届く光がある。星の光のように。新茶の香りのように。
その日の夕方、幹夫は一人で茶畑へ行った。
空はまだ明るかった。茶畑は緑の波となって山裾に広がり、遠くでは製茶場の煙が薄く上っていた。夜になれば、また銀河が出るかもしれない。出ないかもしれない。
けれど幹夫は、もう見えないことを怖がらなかった。
銀河は雲に隠れてもある。 母の声は聞こえなくても残っている。 父のやさしさは言葉が少なくても、手の動きや沈黙の中にある。
そして自分の心も、弱いだけではない。
薄いから光を通す。 揺れるから風を知る。 傷つきやすいから、誰かの痛みに気づける。
幹夫は茶の若葉にそっと触れた。
葉は柔らかく、まだ昼の光を含んでいた。指先に、青い香りが移った。幹夫はその指を胸の前で握った。
五月の茶畑と銀河のあいだ。
そこは、幹夫がひとりぼっちで立つ場所ではなかった。
母の言葉がある。 父の重さがある。 祖母の微笑みがある。 茶の香りがある。 星の光がある。
そして、まだ言葉にならない幹夫自身の心がある。
夜が来れば、茶畑は空に近づくだろう。
銀河は地上へ光を降らせるだろう。
そのあいだで、幹夫はまた胸をいっぱいにするだろう。苦しくなるかもしれない。涙が出るかもしれない。それでも、幹夫はもうその胸を嫌いになりたくなかった。
空っぽでは香らない。
祖母の言葉が、風の中でそっと戻ってきた。
幹夫は茶畑の向こうに沈む夕日を見た。
緑の畝は金色に染まり、まるで昼の銀河のように光っていた。空にはまだ星はない。けれど、幹夫には分かった。星は見えないだけで、すでにそこにある。
茶畑も、銀河も、心も。
見えるときと、見えないときがあるだけだ。
幹夫はゆっくり家へ向かって歩き出した。
背中の後ろで、五月の茶畑が風に揺れた。頭上では、まだ見えない銀河が夜を待っていた。
その二つのあいだを、少年は歩いていく。
小さな胸に、新茶の香りと星の光を抱きながら。





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