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井川の星祭り

 幹夫青年は、その晩、静岡の町の灯がまだ胸の底でちいさく鳴いてゐるうちに、北へ向かふバスに乗りました。

 窓の外では、安倍川の水が鋼(はがね)のやうに光り、信号の青が「ぱちり」と点き、遠い鉄橋が「きいん」とひとつ鳴きました。

 けれども、幹夫の胸の底には、いつもの湿つた石があつて、石は今夜、どうしても家の中に納まらず、どうしても山の方角を指さしてゐるやうでした。

 ――山へ行け。

 ――光の手前へ行け。

 さう云はれてゐるやうで、幹夫は、いつものやうに理由を探さず、そのまま揺られてゐました。

 バスは町を抜け、茶畑の緑をすり抜け、やがて大井川の谷へ入りました。

 谷の空気は、町の空気より薄く、そして正確でした。

 杉の匂ひが、まるで透明な綿を鼻へ押しあてるやうに濃く、川の音が、

 「しゅ、しゅ、しゅ」

 と、いつでも同じ拍(はく)で、底の方から届きました。

 幹夫は窓に額をつけて、その拍を聴いてゐました。

 用宗の貝殻のちりん、呉服町のセロのぶうん、安倍川の水晶ラッパのぷううん――それらが、みんなこの川の拍の上に乗つて、どこかへ流れて行くやうに思へました。

 夕ぐれが深くなるころ、バスは井川(ゐかは)の方へ曲がり、急に道が細くなりました。

 山の影は青い硝子みたいに重なり、谷の底の川は、もう銀いろではなく、黒い絹のやうに沈みます。

 そして、ひとつ曲がり角を回つた瞬間、湖のやうな水面が、ふいに目の前へひらけました。

 井川湖(ゐかはこ)でした。

 水は静かで、山の影をまるごと抱へ、空の薄紫をひとひらもこぼしません。

 その静けさの上に、星がまだ出てゐないのに、もう星の席だけが用意されてゐるやうに見えました。

 バスを降りると、空気はさらに冷たく、しかしどこか甘い匂ひが混じつてゐました。

 杉の甘さ。

 湿つた土の甘さ。

 それから、遠い遠い雪の匂ひ――南アルプスの向うから来る、氷の粉の匂ひ。

 広場の入口に、手書きの札が下がつてゐました。

 「井川 星祭り

  今夜 星が近い

  (ぱちぱち鳴ります)」

 幹夫は思はず笑ひさうになりました。

 星が近い――。

 けれども、その札の字は冗談の顔をしてゐませんでした。

 まるで地質の黒板に「時間」と書かれたあの字のやうに、硬く、そしてやさしく、さう書いてあるのです。

 広場の奥では、火が焚かれてゐました。

 焚火といふよりも、石で囲まれた小さな炉で、火の色は橙ではなく、星のやうに淡い青が混じつてゐます。

 その炉のまはりに、村の人たちが集まつてゐました。

 男も女も子どもも、みんな厚い上着を着て、手袋をして、けれども顔だけは明るいのでした。

 そのうちの一人、白い息を出してゐるおばあさんが、幹夫を見ると、にこりとも笑はずに、ただうなづいて言ひました。

 「ミキオ青年だね。来たね。席があるよ。」

 幹夫はびつくりしました。

 どうして名前が分かるのか。

 どうして「席」があるのか。

 けれども幹夫の胸の石が、その言葉を聞いて、

 こつ

 と一度だけ鳴りました。

 それは「怖い」のこつではなく、「はい」のこつでした。

 炉のそばには、杉の枝が一本、立てかけられてゐました。

 枝には短冊がたくさん結はれてゐます。

 短冊は紙だけでなく、薄い木片や、石片や、貝殻まで混じつてゐました。

 風が吹くと、それらが触れ合つて、

 「さらり、さらり」

 「ちりん、ちりん」

 と、小さな楽器のやうに鳴りました。

 幹夫が短冊の字を読むと、

 「牛が無事でゐますやうに」

 「畑の水が足りますやうに」

 「兄ちゃんの咳が止まりますやうに」

 「雪崩が来ませんやうに」

 さういふ、たいへん近い願ひばかりが書いてありました。

 遠い成功も、派手な幸福も、どこにも書いてありません。

 ただ、今日と明日のあひだの、手の届くところの願ひだけが、静かに揃へて結ばれてゐるのです。

 幹夫は、胸の底が少し痛みました。

 近い願ひは、逃げ場がないからです。

 そのとき、広場の外れの暗がりから、

 「ころり、ころり」

 と乾いた音がしました。

 見ると、どんぐりが二つ三つ、土の上を転がつて来て、炉のそばでぴたりと止まりました。

 どんぐりは帽子をかぶり、松葉の槍みたいなものを持つて、ちいさく整列してゐました。

 幹夫は息をのみました。

 駿府城のどんぐり兵隊です。

 けれども今夜は槍が松葉ではなく、杉の細い針でできてゐます。

 どんぐり隊長が、こつ、と胸を鳴らして言ひました。

 ――星祭り警備。

 ――今夜、星、近い。

 ――落ちるもの、多い。

 ――拾ふ手、要る。

 その言葉が終るか終らないうちに、湖の方から、ふうつと淡い光がゆれて、こちらへ近づいて来ました。

 巴川のくらげ燈でした。

 くらげ燈は水の上を、ぷかりぷかりと運ばれて来て、炉のそばで輪をつくり、腹の明りを「とろり」とゆらしました。

 ――夜の水の学校、臨時。

 ――星の授業、今夜だけ。

 そして、さらに遠い海の方角から、見えないはずの電信が、

 ぷつ、ぷつ、すう……

 と、幹夫の耳の奥で鳴りました。

 清水港のさくらえび電信です。

 「星祭り、受信。山にも光、届ける。」

 幹夫は、なんだか笑ひたくなりました。

 笑ひたいのに、胸がつまるのです。

 世界がこんなにも広く、こんなにも近い。

 そのとき、空の色が、ふいに変はりました。

 夕ぐれの紫が、すうつと剥がれて、底から黒が現れました。

 黒はただの黒ではありません。

 黒の中に、白い粉が散るやうに、星が出ました。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みつつ。

 その数が増えるほど、空は黙らなくなりました。

 ぱち。

 ぱちぱち。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 ほんたうに、星が鳴つたのです。

 鳴つたのは雷でも風でもありません。

 星の光が近すぎて、空気の粒を触つて、静電気みたいに弾ける音でした。

 村の人たちは、みんな顔を上げました。

 子どもたちが「きた」と小さく言ひました。

 おばあさんが炉の火を少し弱くしました。

 どんぐり兵隊が、槍をぴんと立てました。

 くらげ燈が、腹の明りをすこしだけ澄ませました。

 そして、湖の水面に、銀河が映りました。

 銀河は空にあるだけではありません。

 湖に映つて、湖の底へも沈み、波ひとつない水面の上で、まるで砂の上に描いた星図みたいに、はつきり見えました。

 そのとき、焚火の炉の向うから、ちいさな子どもが幹夫の袖を引きました。

 頬が真つ赤で、目だけが黒く澄んでゐる子です。

 「ミキオさん、短冊、持つてないの?」

 幹夫は首を振りました。

 短冊。願ひ。祈り。

 それらを持つてゐないつもりでゐたのです。

 持つてゐないから、胸が重いのだと思つてゐました。

 すると子どもは、幹夫のポケットを見て言ひました。

 「あるよ。ほら。」

 幹夫がポケットを探ると、そこには、用宗で拾つた貝殻があり、呉服町でもらつた拍子紙があり、安倍川の水晶ラッパの小さな石がありました。

 それらは短冊ではありません。

 けれども、どれも「近いところ」の仕事の印です。

 幹夫は、その中から、拍子紙を取り出しました。

 点と線の並んだ小さな紙です。

 紙は白いのに、今夜の星の光を受けると、どこか銀いろに見えました。

 幹夫は鉛筆を借りて、その紙の裏へ、たつた一行だけ書きました。

 「ちかいところの糸をほどく」

 書いてゐるうちに、胸の底の石が、すこしだけ「道具箱の重さ」になつて来るのを感じました。

 重さは消えません。

 けれども重さは、仕事の形を持てるのです。

 幹夫が紙を杉の枝へ結ばうとした、そのときです。

 広場の外れで、誰かが小さく叫びました。

 「あっ……!」

 見ると、犬が一匹、細い針金に足を取られて、もがいてゐました。

 罠の残りです。

 犬は吠えません。吠える余裕がないのです。

 ただ、呼吸だけが、

 「はっ、はっ、はっ」

 と、冷たい空気を噛んでゐました。

 幹夫の胸の奥が、きゅうとしました。

 星の音がいくら美しくても、その美しさはここでは役に立ちません。

 役に立つのは、いまの手だけです。

 幹夫は走りました。

 走ると、靴の底の土が、

 「ざく、ざく」

 と鳴りました。

 そのざくざくが、どんぐり兵隊の行進の足音みたいに、胸を整列させました。

 幹夫は犬のそばに膝をつき、針金を探りました。

 針金は冷たく、指がすぐ痺れました。

 犬の足の毛に食ひ込み、血がほんの少しだけ滲んでゐます。

 幹夫の胸の底の石が、また重くなりました。

 「やめろ」といふ声が、どこかでこつこつ鳴りはじめました。

 けれども幹夫は、その声を押し込めませんでした。

 押し込めると、声は石になります。石は沈みます。沈むと、手が鈍ります。

 幹夫はただ胸の中で、ちひさく言ひました。

 ――いま、ほどく。

 ――それだけ。

 針金の結び目は固く、なかなかほどけません。

 けれどもそのとき、星がぱちぱち鳴り、風がすうつと通り、くらげ燈の淡い光が足もとを照らしました。

 どんぐり兵隊が、槍で地面をこつこつ叩き、拍を刻みました。

 まるで世界じゆうが、幹夫の指先のために、ちいさな灯と拍を配つてくれてゐるやうでした。

 するり。

 針金が外れました。

 外れた瞬間、犬は一度だけ身体を伸ばし、

 「ふうう」

 と深く息をしました。

 その息は白く、星の光を受けて一瞬だけ銀いろになりました。

 犬は幹夫の手をぺろりと舐めて、それから足を引きずりながらも、ちゃんと立ち上がりました。

 立ち上がつた背中は、みじめではありませんでした。

 むしろ、負けない背中でした。

 幹夫は、その背中を見て、胸の奥がふいに温かくなりました。

 温かいのに、涙が出ました。

 涙は冷たいのに、涙の落ちる音が、

 ちん

 と、石の学校のベルみたいに響きました。

 おばあさんが、そつと幹夫の肩へ手を置きました。

 「それが祈りだよ。」

 幹夫は顔を上げました。

 「……祈り?」

 おばあさんは、空を指さしました。

 星はまだぱちぱち鳴つてゐます。

 銀河は湖に映り、山の影は黒く、風は杉をさらさら鳴らします。

 「祈りは、遠い星へ投げる言葉ぢやないよ。

  近いところで、手を正しく使ふことだよ。

  星は遠いけれど、星の光は、いま犬の息の中で光つた。

  それでいいんだよ。」

 幹夫は、胸の底の石を思ひました。

 石はまだあります。

 けれども石は、もうただの重さではなく、仕事の拍を刻む重さになつてゐました。

 幹夫は炉のところへ戻り、さつき書いた拍子紙の短冊を、杉の枝へ結びました。

 結ぶとき、指先が少し震へました。

 震へは怖さではありません。

 いまの自分が、ほんの少しだけ「焦点」を合わせはじめた震へでした。

 そのとき、空で、星がひときは大きく鳴りました。

 ぱちっ。

 そして、ほんたうに、ちいさな光の粒が、ひとつ、ふたつ、さらさらと落ちて来ました。

 落ちた粒は、雪ではありません。

 火の粉でもありません。

 手のひらにのせると、冷たくも熱くもなく、ただ「生きてゐる」やうに微かに澄んでゐました。

 幹夫はそれを見て、三保の松原で拾つた銀河砂を思ひ出しました。

 銀河は遠い。

 けれども銀河は、いま掌の上にもある。

 くらげ燈が、ふうつと腹を光らせて言ひました。

 ――星祭り、修了。

 ――宿題、毎日。

 ――近いところ、ひとつ。

 どんぐり隊長が、こつ、と敬礼しました。

 ――警備、完了。

 ――落ちた星、拾つた。

 ――拾つた手、えらい。

 さくらえび電信が、耳の奥で、最後に一度だけ鳴りました。

 ぷつ、ぷつ。すう……。

 「受信、完。光、近いところで使用。」

 星のぱちぱちが少しずつ遠のき、空の黒が、また普通の夜の黒へ戻つて行きました。

 銀河はまだあります。

 けれどもさつきほど近くはない。

 近い夜は、終つたのです。

 幹夫青年は、井川湖の水面を見ました。

 水面は静かで、山の影と星の影を、そのまま抱へてゐます。

 抱へたまま、何も言ひません。

 けれども黙つてゐる水ほど、たしかな先生はありません。

 帰り道、幹夫はポケットの中に、ちいさな星の粒(銀いろの砂のやうなもの)を入れてゐました。

 粒は見えないくらゐ小さいのに、指先で触ると、どこかで

 ちりん

 と鳴るやうに思へました。

 用宗の潮のオルゴールの音に似てゐました。

 幹夫青年は、バス停のところで振り返りました。

 井川の広場の炉はもう消え、杉の枝の短冊は闇の中で、たださらさらと風に揺れてゐます。

 揺れてゐるのは紙ではありません。

 明日へつづく拍のやうに見えました。

 幹夫青年は小さく言ひました。

 「……ひかりは遠くから来る。

  けれども、つかふのは、いつも、ちかいところ。」

 風が「すう」と通り、杉の葉が「さらさら」と返事をしました。

 それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいのでした。

 幹夫青年は、胸の底の石を抱へたまま、けれどもその石を、もう少し正しい持ち方で持てる気がして、静岡の町の方角へ、ゆつくり帰つて行きました。

 
 
 

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