井川の星祭り
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 10分

幹夫青年は、その晩、静岡の町の灯がまだ胸の底でちいさく鳴いてゐるうちに、北へ向かふバスに乗りました。
窓の外では、安倍川の水が鋼(はがね)のやうに光り、信号の青が「ぱちり」と点き、遠い鉄橋が「きいん」とひとつ鳴きました。
けれども、幹夫の胸の底には、いつもの湿つた石があつて、石は今夜、どうしても家の中に納まらず、どうしても山の方角を指さしてゐるやうでした。
――山へ行け。
――光の手前へ行け。
さう云はれてゐるやうで、幹夫は、いつものやうに理由を探さず、そのまま揺られてゐました。
バスは町を抜け、茶畑の緑をすり抜け、やがて大井川の谷へ入りました。
谷の空気は、町の空気より薄く、そして正確でした。
杉の匂ひが、まるで透明な綿を鼻へ押しあてるやうに濃く、川の音が、
「しゅ、しゅ、しゅ」
と、いつでも同じ拍(はく)で、底の方から届きました。
幹夫は窓に額をつけて、その拍を聴いてゐました。
用宗の貝殻のちりん、呉服町のセロのぶうん、安倍川の水晶ラッパのぷううん――それらが、みんなこの川の拍の上に乗つて、どこかへ流れて行くやうに思へました。
夕ぐれが深くなるころ、バスは井川(ゐかは)の方へ曲がり、急に道が細くなりました。
山の影は青い硝子みたいに重なり、谷の底の川は、もう銀いろではなく、黒い絹のやうに沈みます。
そして、ひとつ曲がり角を回つた瞬間、湖のやうな水面が、ふいに目の前へひらけました。
井川湖(ゐかはこ)でした。
水は静かで、山の影をまるごと抱へ、空の薄紫をひとひらもこぼしません。
その静けさの上に、星がまだ出てゐないのに、もう星の席だけが用意されてゐるやうに見えました。
バスを降りると、空気はさらに冷たく、しかしどこか甘い匂ひが混じつてゐました。
杉の甘さ。
湿つた土の甘さ。
それから、遠い遠い雪の匂ひ――南アルプスの向うから来る、氷の粉の匂ひ。
広場の入口に、手書きの札が下がつてゐました。
「井川 星祭り
今夜 星が近い
(ぱちぱち鳴ります)」
幹夫は思はず笑ひさうになりました。
星が近い――。
けれども、その札の字は冗談の顔をしてゐませんでした。
まるで地質の黒板に「時間」と書かれたあの字のやうに、硬く、そしてやさしく、さう書いてあるのです。
広場の奥では、火が焚かれてゐました。
焚火といふよりも、石で囲まれた小さな炉で、火の色は橙ではなく、星のやうに淡い青が混じつてゐます。
その炉のまはりに、村の人たちが集まつてゐました。
男も女も子どもも、みんな厚い上着を着て、手袋をして、けれども顔だけは明るいのでした。
そのうちの一人、白い息を出してゐるおばあさんが、幹夫を見ると、にこりとも笑はずに、ただうなづいて言ひました。
「ミキオ青年だね。来たね。席があるよ。」
幹夫はびつくりしました。
どうして名前が分かるのか。
どうして「席」があるのか。
けれども幹夫の胸の石が、その言葉を聞いて、
こつ
と一度だけ鳴りました。
それは「怖い」のこつではなく、「はい」のこつでした。
炉のそばには、杉の枝が一本、立てかけられてゐました。
枝には短冊がたくさん結はれてゐます。
短冊は紙だけでなく、薄い木片や、石片や、貝殻まで混じつてゐました。
風が吹くと、それらが触れ合つて、
「さらり、さらり」
「ちりん、ちりん」
と、小さな楽器のやうに鳴りました。
幹夫が短冊の字を読むと、
「牛が無事でゐますやうに」
「畑の水が足りますやうに」
「兄ちゃんの咳が止まりますやうに」
「雪崩が来ませんやうに」
さういふ、たいへん近い願ひばかりが書いてありました。
遠い成功も、派手な幸福も、どこにも書いてありません。
ただ、今日と明日のあひだの、手の届くところの願ひだけが、静かに揃へて結ばれてゐるのです。
幹夫は、胸の底が少し痛みました。
近い願ひは、逃げ場がないからです。
そのとき、広場の外れの暗がりから、
「ころり、ころり」
と乾いた音がしました。
見ると、どんぐりが二つ三つ、土の上を転がつて来て、炉のそばでぴたりと止まりました。
どんぐりは帽子をかぶり、松葉の槍みたいなものを持つて、ちいさく整列してゐました。
幹夫は息をのみました。
駿府城のどんぐり兵隊です。
けれども今夜は槍が松葉ではなく、杉の細い針でできてゐます。
どんぐり隊長が、こつ、と胸を鳴らして言ひました。
――星祭り警備。
――今夜、星、近い。
――落ちるもの、多い。
――拾ふ手、要る。
その言葉が終るか終らないうちに、湖の方から、ふうつと淡い光がゆれて、こちらへ近づいて来ました。
巴川のくらげ燈でした。
くらげ燈は水の上を、ぷかりぷかりと運ばれて来て、炉のそばで輪をつくり、腹の明りを「とろり」とゆらしました。
――夜の水の学校、臨時。
――星の授業、今夜だけ。
そして、さらに遠い海の方角から、見えないはずの電信が、
ぷつ、ぷつ、すう……
と、幹夫の耳の奥で鳴りました。
清水港のさくらえび電信です。
「星祭り、受信。山にも光、届ける。」
幹夫は、なんだか笑ひたくなりました。
笑ひたいのに、胸がつまるのです。
世界がこんなにも広く、こんなにも近い。
そのとき、空の色が、ふいに変はりました。
夕ぐれの紫が、すうつと剥がれて、底から黒が現れました。
黒はただの黒ではありません。
黒の中に、白い粉が散るやうに、星が出ました。
ひとつ。
ふたつ。
みつつ。
その数が増えるほど、空は黙らなくなりました。
ぱち。
ぱちぱち。
ぱち、ぱち、ぱち。
ほんたうに、星が鳴つたのです。
鳴つたのは雷でも風でもありません。
星の光が近すぎて、空気の粒を触つて、静電気みたいに弾ける音でした。
村の人たちは、みんな顔を上げました。
子どもたちが「きた」と小さく言ひました。
おばあさんが炉の火を少し弱くしました。
どんぐり兵隊が、槍をぴんと立てました。
くらげ燈が、腹の明りをすこしだけ澄ませました。
そして、湖の水面に、銀河が映りました。
銀河は空にあるだけではありません。
湖に映つて、湖の底へも沈み、波ひとつない水面の上で、まるで砂の上に描いた星図みたいに、はつきり見えました。
そのとき、焚火の炉の向うから、ちいさな子どもが幹夫の袖を引きました。
頬が真つ赤で、目だけが黒く澄んでゐる子です。
「ミキオさん、短冊、持つてないの?」
幹夫は首を振りました。
短冊。願ひ。祈り。
それらを持つてゐないつもりでゐたのです。
持つてゐないから、胸が重いのだと思つてゐました。
すると子どもは、幹夫のポケットを見て言ひました。
「あるよ。ほら。」
幹夫がポケットを探ると、そこには、用宗で拾つた貝殻があり、呉服町でもらつた拍子紙があり、安倍川の水晶ラッパの小さな石がありました。
それらは短冊ではありません。
けれども、どれも「近いところ」の仕事の印です。
幹夫は、その中から、拍子紙を取り出しました。
点と線の並んだ小さな紙です。
紙は白いのに、今夜の星の光を受けると、どこか銀いろに見えました。
幹夫は鉛筆を借りて、その紙の裏へ、たつた一行だけ書きました。
「ちかいところの糸をほどく」
書いてゐるうちに、胸の底の石が、すこしだけ「道具箱の重さ」になつて来るのを感じました。
重さは消えません。
けれども重さは、仕事の形を持てるのです。
幹夫が紙を杉の枝へ結ばうとした、そのときです。
広場の外れで、誰かが小さく叫びました。
「あっ……!」
見ると、犬が一匹、細い針金に足を取られて、もがいてゐました。
罠の残りです。
犬は吠えません。吠える余裕がないのです。
ただ、呼吸だけが、
「はっ、はっ、はっ」
と、冷たい空気を噛んでゐました。
幹夫の胸の奥が、きゅうとしました。
星の音がいくら美しくても、その美しさはここでは役に立ちません。
役に立つのは、いまの手だけです。
幹夫は走りました。
走ると、靴の底の土が、
「ざく、ざく」
と鳴りました。
そのざくざくが、どんぐり兵隊の行進の足音みたいに、胸を整列させました。
幹夫は犬のそばに膝をつき、針金を探りました。
針金は冷たく、指がすぐ痺れました。
犬の足の毛に食ひ込み、血がほんの少しだけ滲んでゐます。
幹夫の胸の底の石が、また重くなりました。
「やめろ」といふ声が、どこかでこつこつ鳴りはじめました。
けれども幹夫は、その声を押し込めませんでした。
押し込めると、声は石になります。石は沈みます。沈むと、手が鈍ります。
幹夫はただ胸の中で、ちひさく言ひました。
――いま、ほどく。
――それだけ。
針金の結び目は固く、なかなかほどけません。
けれどもそのとき、星がぱちぱち鳴り、風がすうつと通り、くらげ燈の淡い光が足もとを照らしました。
どんぐり兵隊が、槍で地面をこつこつ叩き、拍を刻みました。
まるで世界じゆうが、幹夫の指先のために、ちいさな灯と拍を配つてくれてゐるやうでした。
するり。
針金が外れました。
外れた瞬間、犬は一度だけ身体を伸ばし、
「ふうう」
と深く息をしました。
その息は白く、星の光を受けて一瞬だけ銀いろになりました。
犬は幹夫の手をぺろりと舐めて、それから足を引きずりながらも、ちゃんと立ち上がりました。
立ち上がつた背中は、みじめではありませんでした。
むしろ、負けない背中でした。
幹夫は、その背中を見て、胸の奥がふいに温かくなりました。
温かいのに、涙が出ました。
涙は冷たいのに、涙の落ちる音が、
ちん
と、石の学校のベルみたいに響きました。
おばあさんが、そつと幹夫の肩へ手を置きました。
「それが祈りだよ。」
幹夫は顔を上げました。
「……祈り?」
おばあさんは、空を指さしました。
星はまだぱちぱち鳴つてゐます。
銀河は湖に映り、山の影は黒く、風は杉をさらさら鳴らします。
「祈りは、遠い星へ投げる言葉ぢやないよ。
近いところで、手を正しく使ふことだよ。
星は遠いけれど、星の光は、いま犬の息の中で光つた。
それでいいんだよ。」
幹夫は、胸の底の石を思ひました。
石はまだあります。
けれども石は、もうただの重さではなく、仕事の拍を刻む重さになつてゐました。
幹夫は炉のところへ戻り、さつき書いた拍子紙の短冊を、杉の枝へ結びました。
結ぶとき、指先が少し震へました。
震へは怖さではありません。
いまの自分が、ほんの少しだけ「焦点」を合わせはじめた震へでした。
そのとき、空で、星がひときは大きく鳴りました。
ぱちっ。
そして、ほんたうに、ちいさな光の粒が、ひとつ、ふたつ、さらさらと落ちて来ました。
落ちた粒は、雪ではありません。
火の粉でもありません。
手のひらにのせると、冷たくも熱くもなく、ただ「生きてゐる」やうに微かに澄んでゐました。
幹夫はそれを見て、三保の松原で拾つた銀河砂を思ひ出しました。
銀河は遠い。
けれども銀河は、いま掌の上にもある。
くらげ燈が、ふうつと腹を光らせて言ひました。
――星祭り、修了。
――宿題、毎日。
――近いところ、ひとつ。
どんぐり隊長が、こつ、と敬礼しました。
――警備、完了。
――落ちた星、拾つた。
――拾つた手、えらい。
さくらえび電信が、耳の奥で、最後に一度だけ鳴りました。
ぷつ、ぷつ。すう……。
「受信、完。光、近いところで使用。」
星のぱちぱちが少しずつ遠のき、空の黒が、また普通の夜の黒へ戻つて行きました。
銀河はまだあります。
けれどもさつきほど近くはない。
近い夜は、終つたのです。
幹夫青年は、井川湖の水面を見ました。
水面は静かで、山の影と星の影を、そのまま抱へてゐます。
抱へたまま、何も言ひません。
けれども黙つてゐる水ほど、たしかな先生はありません。
帰り道、幹夫はポケットの中に、ちいさな星の粒(銀いろの砂のやうなもの)を入れてゐました。
粒は見えないくらゐ小さいのに、指先で触ると、どこかで
ちりん
と鳴るやうに思へました。
用宗の潮のオルゴールの音に似てゐました。
幹夫青年は、バス停のところで振り返りました。
井川の広場の炉はもう消え、杉の枝の短冊は闇の中で、たださらさらと風に揺れてゐます。
揺れてゐるのは紙ではありません。
明日へつづく拍のやうに見えました。
幹夫青年は小さく言ひました。
「……ひかりは遠くから来る。
けれども、つかふのは、いつも、ちかいところ。」
風が「すう」と通り、杉の葉が「さらさら」と返事をしました。
それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいのでした。
幹夫青年は、胸の底の石を抱へたまま、けれどもその石を、もう少し正しい持ち方で持てる気がして、静岡の町の方角へ、ゆつくり帰つて行きました。





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