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借りた傘の芯が鳴るとき――エリザベス・タワーの足もとで

ウェストミンスター橋に出た瞬間、空が一段明るくなる。川の風は紅茶にミルクをひとたらししたみたいにやわらかく、金色の塔は真面目な顔で空を刺していた。みんなは親しみを込めて「ビッグ・ベン」と呼ぶけれど、塔の名はエリザベス・タワー、鐘の名がビッグ・ベン――と、ガイドブックが耳元でささやく。けれど実物を目の前にすると、名前なんてどっちでもよくなる。四つの文字盤は、今日のロンドンが思っていたより大丈夫だと、淡々と伝えてくる。

最初のつまずきは、橋のたもとの屋台で買ったベーコン・バップだった。茶色いソースを欲張って、紙袋の底を突き破り、シャツに点々。店主のモーが笑って、キッチンペーパーとブラウンソースの正しい量を教えてくれた。「ソースの海じゃなく、霧だよ」。彼はついでにバップを半分に割り、落ちたベーコンの代わりに焼きたてを挟み直してくれた。背後でカモメが「税金」とでも言いたげに一声鳴き、モーは「彼らには払わなくていい」と目で合図。朝のロンドンは、こういう冗談で立ち上がる。

塔の真下は思いのほか静かだ。柵の向こうで警備員が、観光客の質問に丁寧に答えている。「タワーの名前と鐘の名前は…」と説明しているのを横目に、私はカメラを構えた。そこに、ロンドンらしい小雨がやってくる。降水確率20%の、忘れていた方の20%。私は傘を持っていない。困って空を見上げた瞬間、右隣から黒い折りたたみ傘がすっと差し込まれた。持ち主はグレーのコートの女性。公務員らしいIDカードが胸元で揺れている。

Share?」彼女は短く言い、傘の柄を私の手と自分の手の間に預けた。芯がコツンと鳴って、知らない人どうしの距離が半歩縮む。雨は路面を濡らすほどではないのに、傘の内側は妙に居心地がよかった。彼女は庶務委員会だか何かの会議へ向かうところで、塔の鐘が正午を告げる前に渡りきりたいのだという。「ロンドンでは、人の傘に入るのがいちばん早いショートカットよ」とウインクした。

橋の真ん中で、ふたり同時に立ち止まった。四分刻みのウェストミンスター・クォーターが鳴りはじめたのだ。あの旋律は、いつ聞いても規則正しく、どこか人の体温に近い。女性は時間を確かめるでもなく、口角だけを上げて音に合わせて歩き出す。「このメロディ、急いでいるときは背中を押し、迷っているときは立ち止まらせるの」。私はうなずき、彼女の歩幅に合わせた。傘の芯がまたコツンと鳴る。足もとでは、バップのソースがしずかに雨粒に混ざっていく。

議事堂側の階段で、ちょっとした騒ぎが起きた。小さな男の子が、手に持っていたおもちゃの二階建てバスを落としてしまい、赤い車体が水たまりへカシャンと着水。父親が慌てて拾おうとするが、あと少し届かない。私は思わずしゃがみこみ、靴ひもを指に引っかけて輪を作り、即席の小さなほうきみたいにしてバスをかき寄せた。周りの人が「Nice one!」と笑い、男の子は胸を張ってバスを抱きしめる。女性は私の肩を軽く叩いた。「ジュガードは万国共通ね」。傘の下がまた少しあたたかくなる。

雨がやむと、私たちは傘を畳み、彼女は会議へ、私は川沿いへと分かれた。別れ際、彼女はバッグから固形のショートブレッドを一つ取り出し、「午後の機嫌取りに」と渡してくれた。私はポケットのあめ玉をお返しに。交換は一瞬で、でも午後じゅう効く

川沿いのベンチに腰を下ろすと、紙ナプキンでシャツのシミを叩いていた青年が、「染み抜きは炭酸水」だと教えてくれた。近くの売店で小瓶を買って戻ると、彼はキャップを使って泡を少しだけ落とし、トントンと叩く。たしかに薄くなった。お礼に写真を撮ってあげると、彼は両手で大きな「O」を作って笑った。オックスフォードから来たという。ここでは、ちょっと役に立つ知恵が二言三言で行き交う。

正午を少し過ぎ、雲が切れて青が広がる。再び塔の足もとに戻ると、さっきの警備員が小さなグループに向かって説明していた。「ビッグ・ベンは鐘の名前。でも、みんなが塔をそう呼ぶのも悪くない。言葉は人に連れられて歩くからね」。誰かが「鐘が止まったらどうなるの?」と尋ねると、彼は肩をすくめて、「誰かが“待つ”を思い出すだけさ」と笑った。私はその言葉が妙に好きで、塔を見上げた。四つの文字盤はしっかりと黒い針を支え、雲の形だけが刻々変わっていく。

午後、学校帰りの子どもたちが橋を渡っていく。黄色いベストの隊列。先生が振り返って指で円を作り、「静かに渡るよ」と口の形で言う。子どもたちは背伸びして時計を見上げ、誰かが「あと何分?」と訊く。別の誰かが得意げに答える。時間がふだんより正確に見えるのは、誰かと一緒に見上げるからだろう。

夕方、そろそろ地下鉄に戻ろうとしたところで、ふと立ち止まった。ポケットから、さっきのショートブレッドを出して半分に割る。半分はその場で、もう半分はラップに包んで持ち歩くことにした。どこかで誰かが必要とする気がしたのだ。駅の入口で、ガイドマップをひっくり返して困っている旅行者に出会う。行きたい駅が同じだったので、一緒にホームへ向かう。彼女の手に、小さな半分を渡すと、驚いた顔をして笑った。「Half for luck」。ロンドンの運は、半分ずつ配るとちょうどいい。

プラットフォームで電車を待つあいだ、頭の上で四分おきの旋律が遠くに滲んだ。クォーターの音は乾いた壁を柔らかくして、駅のざわめきを一瞬だけ整える。私は今日一日の小さな出来事を、音の数だけ思い出す――ソースの量、傘のコツン、おもちゃのバスの救助、炭酸水の染み抜き、言葉に連れられる名前、半分のショートブレッド。どれも大事件ではないのに、胸の中でちゃんと時を刻む。

地上に出ると、塔は相変わらず真面目な顔で空に立っていた。次のクォーターまであと数分。私は足を止めず、でも急がず、あの少し背中を押すメロディに合わせて歩き出した。ロンドンの時間は、たぶん誰かの傘の芯がときどきコツンと鳴ることで、うまく進んでいる。そんな気がした。

 
 
 

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