偽装の契り
- 山崎行政書士事務所
- 2025年1月10日
- 読了時間: 6分

第一幕:薄曇りの予感
朝の光がまだ弱い窓辺に、私の机だけが静かに取り残されている。ここは行政書士を生業とする私が小さな看板を掲げた事務所。外からは時おり車の走る音が聞こえてくるが、今朝はどこか湿っぽい曇天のせいか、その音さえ遠くぼんやりと感じる。 そんな気だるい空気を吸い込むように、彼らが扉を押し開けて現れた。 男は三十前後か。細面で声が少し暗い。女はまだ若く異国の顔立ちで、長い髪を背中に垂らしている。どうやら結婚ビザの申請を依頼したいとのこと。 私は熱い茶を勧めながら、彼らの事情を尋ねる。男は控えめに「会社勤めをしていて、彼女とは……まぁ、出会い系のような場で偶然知り合いまして。結婚を……」と口ごもる。女のほうは日本語に若干不自由なようだが、あえて口数を少なくし、伏せた瞳の奥に何か不安げな光を宿している。 「なるほど、国際結婚……ならば、在留資格も整えねば」と、私は平静を装いながらも、この二人が醸し出す微妙な違和感に気づかないわけにはいかなかった。
第二幕:最初の違和感
いくつかの書類を提示してもらい、質問を重ねるうちに、男の回答が曖昧に揺れる場面が増えてきた。 「どこで初めて出会ったのか」 「お互いの家族との交流は?」 「将来、どこで生活するつもりか」 男は「そうですね……実はまだはっきり決めていなくて……」と要領を得ない。一方、女は合いの手のように「愛しています」とぼそっと呟くが、その表情は笑っているのか、苦しんでいるのか分からない。 疑心が胸をさっと過る。「これは……偽装結婚ではないのか?」 しかし、まさかいきなり彼らを問い詰めるわけにもいかない。「まぁ、大抵は本気で愛していると言うものだ。わざわざ書類を作るほどなのだから」と、頭の片隅では良心と倫理がせめぎ合う。
第三幕:女の言い分
ある日、女が一人で事務所を訪れた。男は出張中だとか。そのとき私は、はじめて彼女の抱える事情を聞かされた。彼女には母国に子供がいるが、病気を抱えていて治療に大金がかかるという。自分が日本に留まって働き続け、仕送りをしたいのだと。 「結婚ビザがなければ、私は国を追われる身です……。子供を救うために嘘をつくことは、そんなに悪いことですか?」 彼女はそう問いかけると、こちらをまっすぐ見つめ、まるで私の内面をも暴こうとするかのような強い眼差しを向ける。 私は一瞬息を呑む。「やはり……彼女の目的は“本当の結婚”などではないかもしれない」と、頭では明確に認識しながら、同時に胸の奥から**「それが人間の優しさというものではないのか」という声が囁く。 そしてその囁きに混じって、「しかし法を欺く行為は是なのか? それを私は手助けするのか?」**という倫理観がもつれるように絡み合う。
第四幕:男の意図
一方、男にもそれなりの事情があるらしい。友人から裏で耳打ちされたが、「あいつは結婚手当だの、親からの遺産を早めに受け取るだの、何か打算があるんじゃないか」という噂が流れている。その真偽は分からない。 その男が、私との打ち合わせの途中にふと漏らした言葉が妙に心に刺さる。「彼女との生活、そう悪くないかもしれない、って思うんですよ。お互い得するんだから」――確かに真剣な恋情があればこんな物言いは出ないだろう。だが、彼の口調からはどこか投げやりな諦念のようなものも滲んでいる。 愛情なのか、算段なのか。それとも誤算なのか。私は書類をまとめる手を止め、一瞬遠くの窓外を見た。そこに映るのは薄暗い曇天。空の灰色が、私の心に巣食う不安を増幅させるようだ。
第五幕:偽りと真実のあわい
この結婚ビザの申請書に捺印する、まさにその瞬間が近づくにつれ、私の背中には冷たい汗がじわりと浮かぶ。 「このまま進めたら、私は法を欺く手助けをしてしまうのでは?」 と自問する。 女の切羽詰まった表情、子供を救いたいという祈りに近い感情。それを否定できるのか。そして男のうそぶくような態度、しかし時おり見せる疲れた瞳。「自分には価値がないかもしれないから、金や形だけでも求めたい」という惨めさも、同情を誘う。 何が善で、何が悪か。 私の脳内はそんな色のない思考に覆われ、目を閉じても頭が痛むばかり。あたかも深い霧の中をさまようような心地がする。
第六幕:契約の日
そしてとうとう、彼らはしれっと“愛”を謳い、私は書類を整え、“合法”に近い形を与える。 締め切りめいたものに追われるように、ビザ申請の書類は役所へ提出され、手続きが進んだ。 その日の夕刻、私は外に出て空を見上げる。雲間から淡い夕陽が射し、路上にできた水たまりに薄いオレンジ色の光が反射している。まるでこの行為が、天から見られているような気さえして、私はうなだれたくなる。
第七幕:露見と決壊
ところが、「偽装結婚の疑いがある」とどこかから通報が入り、入国管理局が動き始めたと聞いたのは、その数週間後である。 女の“子供の病気”というのも実は証拠が曖昧で、男のほうも「これで手当がもらえる」と友人に吹聴していたという噂が町に広まり――。いよいよ危うい事態へ。 私はもはや言い訳もできぬまま、同僚や顧客から非難される羽目に陥った。「あんな案件、普通断るものを、欲をかいて受けたんだろう」と。 自分でも判っている。私は善意に酔ったのか、あるいは報酬目当てか、その境目がわからないまま道を誤ったのだ。
第八幕:雨の中で思う
そんなある日のこと。雨の音が大きく窓を叩き、外は灰色に沈んでいる。 私は事務所の明かりを最小限にし、机に肘をついて無言で天井を見つめる。女はどうなったのか。男はどこへ消えたのか。もはや知るよしもない。 ふと、“偽りの愛”と“真実の苦しみ”が、私の脳裏で交錯し、胸を抉る。もし彼女が本当に子供を救うための嘘だったとしても、結末は同じ。もし男が単なる金銭欲であったとしても、私が関与した事実は消えない。 外からは雨脚が強まる。まるで滝のように降り注ぐ音が、私の偽善を洗い流してくれるかのようだが、実際には胸の暗い淀みは増すばかり。 「この世には、救いようのない嘘もあれば、切実な嘘もある。だが、私はいずれの嘘にも加担してしまったのか……」
エピローグ
夜も更け、雨が小降りになったころ、私はそっと事務所を出る。路地は水たまりを帯び、街灯の明かりが歪んで見える。石畳に写る私の影もまた、歪んで薄く長く伸びている。 どこからか犬の遠吠えが聞こえ、そっと胸が痛む。“これが私の選んだ道。偽りの契約。” あの女の涙は偽りだったのか。あの男の苦悩は演技だったのか。思えば思うほど、夜の空気は冷えていく。 ――その闇の深みの底で、私は人間の欲望と愛情、そして欺瞞の微妙な境界線を、ただ黙したまま見つめるほかない。





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