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八十八夜の銀河茶園

 八十八夜の茶畑には、数えられなかった夜が眠っている。

 幹夫少年は、そのことを、丘の上で知った。

 その日の夕方、空は淡い藤色をしていた。日本平へ続く茶の丘には、やわらかな新芽がそろい、畝のひと筋ひと筋が、春から夏へ向かう光を静かに抱いていた。昼間の雨が少し残っていて、茶葉の先には小さな露が光っている。

 幹夫は、農道の端に立ち、茶畑を見下ろしていた。

 八十八夜。

 その言葉を、学校で聞いたばかりだった。

 先生は黒板に大きく書いた。八、十、八、夜。白いチョークの線が、少し粉をこぼしながら並んだ。

 「昔から、このころのお茶は大切にされてきました」

 先生はそう言った。

 その時、幹夫の胸には、なぜかあたたかなものが灯った。

 八十八の夜を越えて、茶葉がここまで来たのだと思った。

 寒い夜。 雨の夜。 風が強かった夜。 星が出なかった夜。 誰も見ていない夜。 それでも、茶の木は土の中で根を張り、新芽を少しずつ用意していた。

 幹夫には、その「待つ時間」がとても大切なものに思えた。

 けれど休み時間、幹夫がぽつりと、

 「八十八夜って、茶葉が数えてきた夜みたいだね」

 と言うと、そばにいた子が笑った。

 「茶葉が数えるわけないじゃん」

 悪気のない笑いだった。

 たぶん、本当にそれだけだった。

 けれど幹夫の胸には、小さな傷が残った。

 茶葉が夜を数えると思うことは、そんなに変なのだろうか。

 人間のカレンダーだけが、日を数えるのだろうか。

 土や葉や雨や星も、それぞれの仕方で、時間を覚えているのではないだろうか。

 そう思ったけれど、幹夫は何も言えなかった。

 言葉は喉の奥で、まだ開かない新芽のように丸まってしまった。

 だからその夜、幹夫は茶畑へ来た。

 茶葉が本当に夜を数えるのか、確かめたいわけではなかった。

 ただ、笑われた自分の小さな思いを、どこかへ置きたかった。

 日が沈むと、茶畑はしだいに暗くなった。

 けれど完全な闇にはならなかった。

 茶葉の露が、ひとつずつ光りはじめたのだ。

 はじめは星を映しているだけだと思った。けれど、幹夫が近づいてみると、露の中の光は空の星と少し違っていた。もっと深く、もっと遠く、まるで小さな水玉の底に夜そのものが折りたたまれているようだった。

 その時、茶畑の奥で声がした。

 「今夜は、銀河茶園がひらく日だよ」

 幹夫は顔を上げた。

 畝のあいだに、一人の少年が立っていた。

 幹夫と同じくらいの年に見えた。けれど、その髪には茶葉の新芽の色が混じり、着ている衣は夜空のような深い藍色をしていた。袖口には、小さな星屑が縫い込まれているように光っている。

 少年は、手に小さな帳面を持っていた。

 帳面の表紙には、銀色の文字でこう書かれていた。

 八十八夜帳。

 「きみは誰?」

 幹夫が聞くと、少年は静かに笑った。

 「茶園の夜数え」

 「夜数え?」

 「茶の木が越えてきた夜を、忘れないように数える役目の者だよ。人間は暦で数えるけれど、茶畑は露で数える。星で数える。根の伸び方で数える」

 幹夫の胸が、ふるえた。

 笑われた言葉が、ここでは笑われなかった。

 茶葉は夜を数える。

 それを知っている者が、確かにここにいた。

 夜数えの少年は、帳面を開いた。

 中には文字ではなく、小さな星が並んでいた。ひとつの星が一夜を表しているらしい。白い星、青い星、雨に濡れたような星、少し欠けた星、あたたかく金色に光る星。

 「これが、一夜目から八十八夜まで?」

 幹夫が聞くと、夜数えはうなずいた。

 「そう。今夜、全部の夜を茶葉へ返す。そうすると、八十八夜の新茶は、ただ若いだけでなく、越えてきた夜の記憶を香りにできる」

 幹夫は、茶畑を見渡した。

 畝の上の露が、いつの間にか星座のように並んでいた。

 一つ一つの露の中に、夜がある。

 幹夫は、最初の露に顔を近づけた。

 そこには、寒い夜が映っていた。

 まだ春が浅く、風が冷たく、茶の芽は固く閉じている。土の中の根だけが、静かに水を探していた。

 露の奥から声がした。

 ――まだ早い。けれど、待っている。

 幹夫は胸がぎゅっとなった。

 芽が出る前の時間。

 誰にも見えない準備。

 それは、幹夫自身にもあった。

 言葉を出せない時、何もしていないわけではない。胸の奥で、何かがまだ形になるのを待っているだけなのかもしれない。

 次の露には、雨の夜が映っていた。

 細い雨が茶畑に降り、葉のない枝や土を濡らしている。誰もいない畑で、雨だけが長く話していた。

 ――濡れることを怖がらないで。水は、あとで香りになる。

 幹夫は、雨の日に自分の気持ちまで濡れてしまうことを思った。

 泣きそうな日。 胸が重い日。 言葉にならないまま黙っている日。

 それも、いつか香りになるのだろうか。

 夜数えは言った。

 「八十八の夜には、明るい夜ばかりではないよ」

 「うん」

 「でも、明るい夜だけでできた新茶は、浅い味になる」

 幹夫は、黙ってうなずいた。

 苦みも、雨も、寒さも、待つ時間も、茶葉の中へ入っている。

 だからお茶は、あんなに静かに胸へ届くのかもしれない。

 三つ目の露には、星のない夜が映っていた。

 厚い雲が空を覆い、茶畑は真っ暗だった。けれど土の中では、根がゆっくり伸びていた。

 ――見えない夜にも、進んでいる。

 幹夫は、その言葉を聞いた瞬間、目の奥が熱くなった。

 学校で何も言えなかった日。 人に笑われて、黙ってしまった日。 自分は何も進んでいないと思う日。

 でも、本当にそうなのだろうか。

 見えない場所で、根のようなものが少しずつ伸びているなら。

 幹夫は、自分の沈黙を、少しだけ責めずにいられる気がした。

 茶畑の露は、次々と夜を見せてくれた。

 風の夜。

 ――揺れることで、根のありかを知る。

 霜を恐れた夜。

 ――守られたいと願うことは、弱さだけではない。

 月の明るい夜。

 ――光が強すぎると、影も濃くなる。

 誰かが畑を見回った夜。

 ――人の足音も、茶葉は覚えている。

 幹夫は、ひとつひとつ見つめた。

 すべてを覚えることはできない。 けれど、すべてがここにあったことはわかった。

 八十八夜とは、ただ数のことではなかった。

 茶葉が越えてきた、八十八の小さな心の形だった。

 畑の中央まで来ると、そこには大きな茶の木が一本あった。

 その木の周りに、露の星が円を描いている。八十八個あるのだと、幹夫にはなぜかわかった。

 夜数えは、帳面を閉じた。

 「ここから、銀河茶園が始まる」

 その言葉とともに、空の銀河が静かにほどけた。

 白い光の帯が、ゆっくり茶畑へ降りてくる。茶葉の露と空の星がつながり、丘全体がひとつの大きな茶園であり、同時にひとつの銀河であるように見えた。

 畝は星の川になった。 茶葉は星を受ける小さな舟になった。 土は夜空を支える深い底になった。

 幹夫は、息をするのを忘れた。

 「きれい……」

 その言葉が自然にこぼれた。

 夜数えは、幹夫を見た。

 「笑われても、そう言える?」

 幹夫は、胸を突かれた。

 学校で笑われた自分がよみがえる。

 茶葉が夜を数えるわけないじゃん。

 その声はまだ胸のどこかにあった。

 幹夫は、すぐには答えられなかった。

 銀河茶園は、静かに光っている。

 茶葉も、露も、土も、星も、幹夫を急かさなかった。

 幹夫は、ようやく言った。

 「怖い」

 声は小さかった。

 「きれいだと思ったことを言って、笑われるのは怖い。でも、きれいだと思ったことを、自分で消すのはもっと苦しい」

 夜数えは、うなずいた。

 「それなら、八十九夜目の星を置ける」

 「八十九夜目?」

 「八十八夜を越えたあと、人間の子が最初に持ってくる星。新茶が人の胸へ入ってから始まる、次の夜の星だよ」

 夜数えは、幹夫に帳面を差し出した。

 最後のページだけ、まだ空白だった。

 「ここに、幹夫の星を置いて」

 「どうやって?」

 「言葉にする」

 幹夫は、銀河茶園の中心に立った。

 茶葉の露が、星のように幹夫を囲んでいる。

 幹夫は、胸の奥の小さな光を探した。

 笑われて痛かったこと。 黙ってしまったこと。 でも、茶葉が夜を数えると思ったことを消したくなかったこと。

 それらが混じって、小さな星になっていた。

 幹夫は言った。

 「茶葉は、夜を数えていると思う」

 声は震えた。

 けれど、続けた。

 「人には聞こえないだけで、寒い夜も、雨の夜も、星のない夜も、ちゃんと覚えていると思う。だから新茶は、ただ若いだけじゃなくて、待ってきた時間の味がするんだと思う」

 言い終えると、幹夫の胸から小さな光がひとつ浮かんだ。

 それは新芽のような淡い緑と、星のような銀を混ぜた色をしていた。

 光は帳面の空白へ降りた。

 八十九夜目の星。

 そう書かれてはいなかったが、幹夫にはそう読めた。

 その瞬間、銀河茶園全体が、さわ、と鳴った。

 風ではなかった。

 八十八の夜が、一斉にうなずいた音だった。

 夜数えは、静かに言った。

 「これで、幹夫の言葉も香りになる」

 「香りに?」

 「うん。すぐ誰かに伝わらなくても、お茶の湯気の中で少しずつ届くことがある」

 東の空が白みはじめた。

 銀河茶園の光は、少しずつ茶葉の中へ沈んでいく。露の星も、普通の露へ戻っていった。夜数えの姿も薄れていく。

 「また会える?」

 幹夫が聞くと、夜数えは微笑んだ。

 「八十八夜のころ、茶畑がまだ夜を覚えている時間に」

 「その時も、茶葉は数えている?」

 「もちろん。人間が忘れても、茶葉は数える。土も数える。露も数える」

 夜数えは、最後にこう言った。

 「幹夫も、自分の夜を忘れすぎないで。苦しい夜も、いつか香りを深くするから」

 その声は、朝の光に溶けた。

 幹夫は、茶畑の農道にひとり立っていた。

 いつもの朝だった。

 茶葉には露があり、丘には新芽の香りが満ちていた。

 家に帰ると、母が新茶を淹れてくれた。

 「八十八夜のころのお茶よ」

 母はそう言って、湯呑みを幹夫の前に置いた。

 湯気が立った。

 若い香りがした。

 けれど、その奥に、幹夫には八十八の夜が少しずつ重なっているのがわかった。

 寒い夜。 雨の夜。 星のない夜。 風の夜。 待つ夜。

 幹夫は湯呑みを両手で包み、ひと口飲んだ。

 少し苦く、みずみずしく、あとから甘かった。

 学校へ行くと、昨日笑った子が言った。

 「今日、家で新茶飲んだ。なんか苦かった」

 幹夫は少し迷った。

 けれど、胸の奥で八十九夜目の星が小さく光った。

 幹夫は言った。

 「苦いのは、夜を覚えているからかもしれないよ」

 その子は、不思議そうな顔をした。

 でも、今度は笑わなかった。

 「ふうん」

 それだけだった。

 けれど幹夫には、それで十分だった。

 言葉は、すぐに花開かなくてもよい。

 茶葉のように、夜を数えながら、いつか香りになることがある。

 窓の外には五月の光が満ちていた。

 幹夫少年は、胸の中でそっと数えた。

 一夜、二夜、三夜。

 自分の中にも、これからたくさんの夜が積もっていくのだろう。

 苦しい夜も、黙ってしまう夜も、泣きそうな夜もある。

 でも、それらがいつか、誰かの胸を少し温める香りになるなら。

 幹夫は、自分の夜を、少しだけ大切に数えていける気がした。

 
 
 

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