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六文銭の夏

夏の大坂は、呼吸そのものが刃物だった。湿気が肺の奥に貼りつき、吐く息は甘く腐った果実の匂いを帯びる。城の石垣は昼の熱を抱いて、夜になっても冷えず、闇の中でなお鈍く赤い。火の気配がなくとも、世界が燃えているように見えるのは、ここが終局の舞台だからだろう。

私は鎧櫃の蓋を開けた。赤備えの具足が、古い血のような光を返す。赤は勇の色ではない。赤はただ、傷がまだ生きているという印だ。胸板の六文銭が、灯明の揺れに合わせてわずかに黒く沈む。その黒さが、私には静かな笑いに見えた。——渡し賃は、とうに用意してある、と。

「父上」

背後から声がした。大助だ。私の子は、いつの間にか私の背丈に近づき、目だけはまだ少年のまま、いや、少年であることを懸命に拒んでいる目をしている。武士の子の目は、早く乾く。乾いた目は、泣き方を忘れるかわりに、死に方だけを覚える。

「具足を……」

私は頷き、鎧の緒を手に取った。手が、確かに老いているのを感じた。老いは肌の皺ではなく、指先の判断の鈍りとして現れる。若い頃なら一息に結べた緒を、今夜は一度だけ結び直した。結び直した瞬間、胸の奥が冷えた。冷えるのは恐れではない。恐れに似た、計算だ。——人は死ぬ前だけは、己の滑稽さを正確に数える。

「大助」

私は言った。

「明日、もし私が前へ出たら、お前はどうする」

大助の喉が動いた。言葉が、刀の鞘の中で鳴るような音を立てて、彼の口に引っかかっている。

「……ついて参ります」

その声が、私を刺した。ついて来る、という言い方の中には、守るでも救うでもなく、ただ「同じ終わりを共有する」という匂いがある。共有された終わりほど美しいものはない。美しいものほど残酷だ、と私は長く知っていたはずなのに、父という肉が、いまさらその知識の邪魔をする。

「ついて来るな」

私は言ってしまった。言ってから、その言葉がどれほど無責任で、どれほど優しい毒であるかを知った。禁じた瞬間、彼の死は美しくなってしまう。美しい死に人は吸い寄せられる。禁じることでしか止められぬものは、たいてい止まらない。

大助は笑った。乾いた、若い笑いだった。

「父上は、いつも私に“生きろ”と仰る。しかしこの城で生きるとは、何ですか」

私は答えられなかった。生きるとは何か——その問いは、刀より深く胸に入る。刀は肉を裂くだけだが、問いは過去を裂き、未来を裂き、形のないものを血だまりにする。

私の脳裏に、紀伊の山が浮かんだ。九度山。高野の麓。春の杉の匂い。冬の水の冷たさ。十四年。長すぎた流刑の年月は、私の中に「平穏」の味を残した。平穏の味は淡い。淡いものは、強い刺激の前で簡単に消える。私はその淡さを、どこかで憎んでいた。憎んでいたからこそ、ここへ来たのだ。燃える場所へ。

「大助」

私は静かに言った。

「生きるとは、醜いことだ。醜いことに耐えるのが、生きるということだ」

大助は目を逸らさなかった。逸らさない目は、すでに死を選んでいる。

「ならば私は、父上の醜さを見ます」

その言葉は、ある種の忠孝だった。だが私は、忠孝の美しさが嫌いだった。美しい言葉は、いつでも人を殺しやすくするからだ。

私は鎧の緒を結び終え、赤い胴を胸に当てた。具足は重い。重いものを着ると、人はなぜか安心する。重さが、責任の形に見えるからだ。責任は形があると扱いやすい。形のない責任ほど、人を狂わせるものはない。

翌朝、空は青すぎた。青は清らかさではない。青は無関心の色だ。無関心は、最も冷酷な神の顔をしている。天王寺口へ向かう兵の列が、熱気と汗で揺れていた。槍の穂が、太陽を薄く切り取り、きらりと光る。その光は美しい。美しい光は、いつも死の前触れだ。

私は馬上で、前方の徳川陣を見た。旗が林のように並び、人の数が地面の色を変えている。数は力だ。だが数はまた、個を消す。個が消えると、人は楽になる。楽になると、残酷になれる。私は徳川の大軍を見ながら、むしろ自分の側の兵の目のほうが怖かった。彼らの目は、数ではなく「物語」を見ている。真田左衛門佐が先頭に立ち、赤備えが駆け、敵陣を割る——その絵の中で、自分が死ぬことまで計算している目だ。

私は自分の名を嫌った。名は、いつの間にか人を役者にする。役者になると、死が舞台装置になる。舞台装置としての死ほど、危険なものはない。美しさを狙い始めるからだ。

「左衛門佐!」

誰かが叫んだ。私は手を上げて応えた。手を上げるだけで、兵の呼吸が揃う。揃う呼吸は、一つの獣の呼吸だ。獣は強い。だが獣は、いちばん簡単に殺される。狙うべき場所が大きいからだ。

合戦は、始まりから終わりまで、実は一瞬である。一瞬の中に、長い音が詰まっているだけだ。鉄の打つ音、叫び、馬のいななき、火薬の匂い。匂いは記憶を呼ぶ。匂いが呼ぶ記憶は、死の瞬間にいちばん残酷になる。

私は、槍を持つ腕の筋が張るのを感じながら、ふと、九度山の夜を思い出した。妻が灯明の下で縫い物をし、子らが眠り、外で虫が鳴いていた。あの静けさの中で、私は何度も自分に問いかけた。——戦は、もう終わったのか。——それとも、私の中でだけ続いているのか。

そして今、戦は私の外に戻ってきた。戻ってきた戦は、私の中の戦よりずっと浅く、ずっと派手で、だからこそ誘惑的だった。私は誘惑に負けたのだろうか。それとも、誘惑に負けないふりをするために、ここへ来たのだろうか。

考える暇はなかった。槍の穂先が人を突き、骨に当たる感触が手に戻ってくる。骨は硬い。硬いものに触れると、人は現実に戻る。現実は、どんな理念より冷たい。

「押せ!」

私は叫んだ。叫び声が喉を焼いた。焼ける喉は、今しか生きられない証だ。私たちは徳川の前衛を崩し、旗の密林へ踏み込んだ。あまりに多くの旗が、かえって視界を狭める。狭い視界は、死の視界だ。死はいつも、狭い。

そのとき、ふと空が白く見えた。白は雪ではない。夏の太陽が、目を潰しているのだ。私はその白さに、六文銭の黒を思った。黒が白に映えるのは、罪が潔白を引き立てるのと同じだ。——我らの戦は、徳川の正しさを美しくするための黒なのか。その考えが一瞬よぎり、私は自分を殴りたくなった。正しさなど、戦場にはない。あるのは、ただ勢いと、終わり方の醜さだけだ。

やがて、身体が言うことを聞かなくなった。力尽きたのではない。力はまだある。しかし熱が重い。汗が鎧の内側で溜まり、呼吸が短くなる。私は馬を降りた。地面が揺れているように見えた。揺れは、世界ではなく自分の血の揺れだ。血が揺れると、意識が薄くなる。薄くなる意識の中で、人はふと、最も愛しいものを思い出す。

大助の顔が浮かんだ。その直後に、私の胸を刺す想像が来た。——もしあいつがもう死んでいたら。死は情報より速い。知らせが来る前に、死はもう身体の中へ入っている。

私は倒れかける身体を、一本の松に預けた。松の樹皮はざらつき、熱い掌に冷たく触れた。冷たさは救いだ。救いは痛みを薄める。薄まった痛みは、逆に孤独を濃くする。

「水を……」

誰かに言ったのか、自分に言ったのか分からない。水という言葉は、生への執着の言葉だ。私は水を求めた自分を恥じた。恥は、人を人間に戻す。人間に戻ると、英雄の仮面が落ちる。仮面が落ちた顔は、途端に弱い。

私は弱かった。弱いからこそ、ここまで生き延びたのかもしれない。だが弱さが、この瞬間にだけは、私を裏切った。弱い者は、最後に美しく死ねない。美しく死ねないことが、私には恐ろしく優しかった。優しい終わり方は、物語を壊す。物語が壊れれば、少しは血の無駄遣いが減るかもしれない。

足音が近づいた。草を踏む音。鎧の擦れる音。私は顔を上げた。目の前に、徳川の兵がいた。若い。汗で顔が光り、しかし目だけは怯えている。怯えは、敵を美しく見せる。怯えた目に映る私は、きっと鬼か何かに見えているのだろう。私は鬼になりたくなかった。鬼は物語の便利な道具だ。

「……名を」

兵が言った。声が裏返っている。裏返る声は、人間の正直だ。私は不意に笑いそうになった。名を求めるのか。首を値打ちに変えるために。名は、最後まで銭のように扱われる。六文銭が胸にあるのは、皮肉ではなく真実だった。

私は一瞬だけ迷った。名を名乗れば、私は物語になる。名を名乗らねば、私はただの肉になる。肉は醜い。醜い肉は、人を感情移入させる。人は、完成した英雄より、途中で崩れた肉にこそ、胸を持っていかれる。

私は低い声で言った。

「……真田だ」

それだけで十分だった。兵の顔が歪み、刃が上がる。刃が上がる瞬間、太陽がまた白く見えた。白い世界の中で、六文銭だけが黒く浮かぶ。私は思った。渡し賃は、やはり用意してあったのだ、と。

衝撃が来た。痛みではない。まず冷たさが来る。冷たさが来ると、人はもう抵抗しない。抵抗しないことは、諦めではなく、ただの物理だ。私の身体は、急に軽くなった。軽さは自由に似ている。自由に似た軽さほど危険なものはない。私はその軽さに、ほんの一瞬だけ酔った。

——大助。——生きろ、と言えなかった。——だが、お前が死ぬなら、せめて美に酔うな。——美は、必ず他人の血を欲しがる。

言葉にならない言葉が、胸の底で泡のように浮かんで消えた。消える泡ほど、なぜか優しい。

空が青い。青すぎる空の下で、戦が続いている。続いている戦の中で、私の役目だけが終わる。終わりは完成している。完成は美しい。だが私は、完成の美しさよりも、未完成の醜さに、最後の最後で救われた気がした。

私の死は英雄の絵にはならないかもしれない。それでいい。絵にならない死のほうが、誰かの明日を一つだけ残すことがある。

そう思った瞬間、世界の音が遠のき、夏の匂いが薄れた。六文銭の黒だけが、胸の上で静かに笑っていた。

 
 
 

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