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内容証明の差出人は消えた

助けを求める声は、いつも大きいとは限らない。

むしろ本当に危ない声ほど、小さい。

震えていて、遠慮していて、相手を怒らせないように、社会の迷惑にならないように、自分の恐怖にさえ謝りながら出てくる。

その女性が山崎行政書士事務所に来たのは、冬の始まりの夕方だった。

草薙駅前の街路樹は葉を落とし、濡れたアスファルトの上に黒い枝の影を伸ばしていた。事務所の窓ガラスには、向かいの薬局の看板がぼんやり映っている。

女性は、入口の前で一度立ち止まった。

ドアを開けるまでに、三十秒ほどかかった。

山崎はその時間を見ていた。

迷っているのではない。

誰かに見られていないか確認している。

その人は、もう日常生活の中に監視の影を感じている人間の動きをしていた。

「内容証明を、送りたいんです」

女性はそう言って、椅子に座った。

名前は、桐谷美沙。

三十四歳。

市内の福祉関連会社で事務職をしているという。

化粧は薄く、髪はきちんとまとめていた。服装も地味で、目立つところは何もない。だが両手だけが落ち着かなかった。バッグの持ち手を握り、離し、また握る。その爪は短く切られていて、端が少し割れていた。

「誰に送る予定ですか」

山崎が尋ねると、美沙は唇を湿らせた。

「同じ職場の人です。元交際相手でもあります」

よくある相談に見えた。

交際終了後の連絡。

つきまとい。

SNSへの書き込み。

職場での嫌がらせ。

内容証明で、接触をやめるよう通知したい。

よくある、という言葉ほど危ういものはない。

よくあるから、軽く見られる。

よくあるから、窓口で流される。

よくあるから、本人の怯えが「気にしすぎ」に変換される。

そして、よくある相談の中に、人が壊れる前の最後の声が混じっている。

「相手の名前は」

「篠田圭介です」

美沙はそう言って、小さなノートを開いた。

ページには、びっしりと日付と出来事が書かれていた。

十一月二日。退勤後、駅前で待っていた。十一月四日。社内チャットで「昨日の服、似合ってた」と送信。十一月六日。自宅近くのコンビニにいた。偶然だと言われた。十一月八日。上司に相談。「男女のもつれ」と言われる。十一月十日。SNSに私の後ろ姿らしき写真。十一月十三日。会議中に「最近寝不足?」と発言。前夜、非通知着信五件。十一月十五日。机の引き出しに、私が捨てたはずのレシート。

山崎は文字を追いながら、背中に冷たいものを感じた。

一つひとつは、事件になりにくい。

駅前にいただけ。

服を見ただけ。

コンビニにいただけ。

心配しただけ。

レシートが置かれていただけ。

だが線で結ぶと、そこには檻が現れる。

本人だけが、その檻の中で息苦しさを知っている。

外から見る者は、鉄格子一本一本を見て「細いですね」と言う。

「警察には?」

「行きました」

美沙はすぐに答えた。

その即答が、すでに何度も説明させられた人間の疲労を含んでいた。

「緊急性があるなら一一〇番してください、と。証拠を残してください、と。相手に直接言わないほうがいい、とも言われました」

「職場は?」

美沙は笑った。

笑いではなかった。

唇の形だけが笑いに似た。

「会社は、私に休むように言いました」

「相手ではなく?」

「はい」

彼女の会社は、福祉施設向けの人材派遣と請求事務代行を行う中小企業だった。

会社名は、ライフケアリンク。

社内では、篠田が営業主任。美沙は事務担当。交際していたことは、社内でも知られていたらしい。

別れを切り出したのは美沙だった。

理由は、束縛。

スマートフォンの通知を見る。

誰と昼食に行ったか尋ねる。

業務チャットの既読時間を問い詰める。

「心配だから」と言って、居場所を確認する。

最初は恋人の嫉妬だった。

やがて、それは管理になった。

管理は、会社の中ではなぜか自然に見える。

誰がどこで何をしているか。

誰が何時に出社し、何時に退勤し、どの端末でログインし、どのファイルを開いたか。

仕事のためなら、監視は合理化される。

篠田は、その合理化の言葉をよく知っていた。

「証拠はありますか」

山崎は慎重に聞いた。

美沙はバッグから小さなUSBメモリと、スマートフォンを取り出した。

「録音があります。メモもあります。SNSのスクリーンショットも。写真はクラウドに保存してあります」

「クラウド?」

「スマホを壊されたら怖いので」

美沙は目を伏せた。

「一度、画面を割られました。偶然、肩がぶつかったと言われました。でも、駅の階段で、あの人が後ろにいて」

彼女の声が止まった。

山崎は急かさなかった。

事務所の時計が、かち、かち、と音を立てていた。

こういうとき、時間は被害者を追い詰める。

早く話さなければならない。

分かりやすく話さなければならない。

矛盾なく話さなければならない。

泣いてもいけない。

怒ってもいけない。

冷静すぎると疑われる。

取り乱すと信用されない。

助けを求める人間は、助けを求める瞬間にまで、社会に見栄えのよい被害者であることを要求される。

「通知文案は作れます」

山崎は言った。

「ただ、私は行政書士です。紛争の代理交渉はできません。危険がある場合は、警察や弁護士につなぐ必要があります」

「分かっています」

美沙は小さくうなずいた。

「でも、まずは紙にしたいんです」

「紙に?」

「私が嫌だったことを、なかったことにされないように」

その言葉は、事務所の空気に沈んだ。

紙にする。

それは冷たい作業だ。

日付を並べる。

事実を整理する。

感情を削る。

要求を明確にする。

過剰な表現を避ける。

証拠と照合する。

だが、紙にしなければ、この社会は人の恐怖を見ない。

「怖かった」

それだけでは弱いと言われる。

「気持ち悪かった」

それでは主観だと言われる。

「助けて」

それでは事情が分からないと言われる。

だから人は、自分の恐怖を時系列にし、番号を振り、証拠番号を付け、受忍限度を超えていると説明しなければならない。

山崎は、美沙のノートを預かった。

「一緒に整理しましょう」

美沙は、その日初めて少しだけ息を吐いた。

通知文案の作成は、翌日から始まった。

山崎と、事務所のりなは、美沙のメモを時系列表にした。

一件ごとに、日時、場所、行為、証拠、相談先、影響を分ける。

十一月二日、草薙駅南口、待ち伏せ疑い、本人メモあり。

十一月四日、社内チャット、私的内容の送信、スクリーンショットあり。

十一月八日、上司相談、録音あり。

十一月十日、SNS投稿、スクリーンショットあり。

十一月十五日、机内レシート、写真あり。

りなが録音を聞きながら、眉をひそめた。

録音の中で、篠田の声は怒鳴っていなかった。

むしろ穏やかだった。

「美沙、俺は心配してるだけだよ」

「そんなに怖がるなら、やましいことがあるんじゃないの」

「会社に迷惑をかけるのはやめよう」

「俺を悪者にしたら、君も困るよ」

「みんな知ってるんだから。君がどんな人か」

大声の脅迫なら、分かりやすい。

だが篠田は声を荒げない。

怒鳴らない。

手を上げた証拠も、ほとんど残さない。

相手が恐怖を感じるぎりぎりの距離に立ち、言葉の意味を二重にし、周囲には「心配している元恋人」に見える顔を作る。

それが一番厄介だった。

りなはヘッドホンを外した。

「気持ち悪いですね」

山崎はうなずいた。

「暴力の前に、言葉で逃げ道を塞いでいる」

「会社の対応も、ひどいです」

録音には、上司との面談も入っていた。

上司の声は、眠そうだった。

「桐谷さんさ、二人の関係の問題を会社に持ち込まれると困るんだよね」

「でも、業務中にも接触があります」

「篠田くんも悪気はないと思うよ。営業成績もいいし」

「私が怖いんです」

「怖いというのは主観だからね。客観的な被害がないと」

「写真を撮られています」

「それ、本当に篠田くんが撮った証拠ある?」

「SNSに」

「本人が君だと書いているわけじゃないでしょう」

りなは机を軽く叩いた。

「こうやって削られるんですね」

山崎は、通知文案の冒頭を書いた。

通知書

貴殿は、令和〇年〇月以降、当職の依頼者に対し、勤務先および通勤経路上における待ち伏せ、私的連絡、SNSへの投稿、私物への接触を含む行為を継続しています。

本通知書をもって、以下の行為の中止を求めます。

ただし、山崎は「当職の依頼者」と書いてから、手を止めた。

行政書士として書類作成を支援する範囲。

代理人としての表現との線引き。

職域の壁は、いつも現場に立ちはだかる。

制度は、専門家の役割を分ける。

それ自体は必要だ。

だが助けを求める側から見れば、その壁は時に迷路になる。

警察。

会社。

行政書士。

弁護士。

相談窓口。

女性支援センター。

それぞれが「ここから先は別の窓口」と言う。

逃げている人間にとって、窓口が多いことは支援の厚さではない。

迷子になる通路が多いということだ。

山崎は、通知の差出人を美沙本人にし、作成支援として裏方に回る形に整えた。

必要に応じて弁護士へ連携する。

警察相談の記録も残す。

勤務先には、別途、職場環境と安全配慮の観点から事実確認を求める文案を検討する。

翌日、美沙は再び事務所に来る予定だった。

通知内容を確認し、差出準備をするためだ。

しかし、彼女は来なかった。

十五時。

約束の時間。

十五時十分。

電話は鳴るが出ない。

十五時三十分。

メッセージは既読にならない。

十六時。

山崎の胸の奥に、重いものが落ちた。

「りなさん、美沙さんから何か来ていますか」

「メールはありません。クラウド共有のフォルダは……」

りなが画面を見た。

「更新されています」

「いつ」

「今日の十二時四十二分です」

共有フォルダには、新しいファイルが三つ追加されていた。

写真。

録音。

テキストメモ。

写真には、会社の休憩室が写っていた。

テーブルの上に、美沙の私物らしきポーチが置かれている。その横に、白い封筒。

封筒には、手書きでこう書かれていた。

これ以上騒ぐなら、全部出す。

二枚目の写真は、会社の掲示板。

美沙の勤怠表のコピーらしき紙に、赤いペンで丸がついている。遅刻、早退、有給。個人情報であるはずのものが、誰でも見える場所に貼られていた。

三枚目。

社用スマートフォンの画面。

位置情報共有アプリらしき表示があり、複数の社員の現在地が地図上に出ている。

美沙の名前もあった。

りなの顔色が変わった。

「これ、職場の監視じゃないですか」

山崎は録音ファイルを再生した。

雑音。

椅子を引く音。

誰かの声。

篠田ではない。

上司の声だった。

「桐谷さん、こういう外部相談は会社としても困るんだよ」

美沙の声。

「でも、私は怖いんです」

「怖い怖いって言うけどね、会社の評価にも関わるんだよ。篠田くんは重要な営業担当なんだから」

「私が我慢すればいいんですか」

「そうは言ってない。ただ、大人として落としどころを考えようって話」

別の女性の声。

「美沙ちゃんもさ、別れ方が悪かったんじゃない?」

別の男性の声。

「篠田も傷ついてるんだよ」

上司の声。

「内容証明なんか送ったら、もう職場にはいられないよ」

そこで録音は切れていた。

最後のテキストメモを開く。

件名はなかった。

本文には、短い文章が並んでいた。

もし私と連絡が取れなくなったら、今日の面談の後です。会社には行きました。篠田さん、部長、総務の三人がいました。私のスマホを見せろと言われました。通知書を出すなら、私の写真と社内でのことを全部出すと言われました。私は恋愛トラブルではありません。私は働きたかっただけです。私は逃げたいです。でも証拠を持って逃げるのが怖いです。

最後に、こう書かれていた。

助けを求める人ほど、証拠を残せない。

山崎はしばらく画面を見つめた。

その一文は、事務所の空気を変えた。

助けを求める人ほど、証拠を残せない。

スマホを取り上げられる。

写真を消される。

録音を責められる。

相談したことを裏切りと呼ばれる。

日記を見つけられる。

クラウドのパスワードを知られる。

震えているから、スクリーンショットを撮る手が動かない。

泣いているから、日時を覚えられない。

逃げるだけで精一杯だから、証拠保全まで考えられない。

それなのに社会は言う。

証拠はありますか。

山崎はすぐに神崎弁護士へ連絡した。

警察にも相談した。

美沙の緊急連絡先には、姉の名前があった。

姉に電話すると、最初は警戒されたが、美沙の名前と事務所名を告げると、声が震えた。

「やっぱり……何かあったんですか」

「美沙さんと連絡が取れません」

「昨日、変なことを言っていました。私が消えたら、会社に聞いてって」

姉は泣き出した。

「でも、うちの家族も、ちゃんと聞いてあげなかった。別れ話くらいで大げさだって。仕事は辞めるなって。生活があるでしょって」

生活がある。

それもまた、檻の鍵だった。

家賃がある。

奨学金がある。

親の介護がある。

子どもの学費がある。

だから辞められない。

だから逃げられない。

だから嫌がらせをされても、明日の出勤時間を考える。

社会は、被害者にまず生活の継続を求める。

壊れながらでも、働け。

怯えながらでも、通勤しろ。

眠れなくても、勤怠を守れ。

助けを求めるなら、業務に支障が出ない範囲で求めろ。

その偽善が、人を静かに殺す。

夜になっても、美沙は見つからなかった。

翌朝、会社から連絡があった。

ライフケアリンクの総務課長を名乗る男だった。

「桐谷の件で、そちらに何か相談があったようですが」

声は丁寧だった。

丁寧すぎた。

「本人の同意なく詳細はお答えできません」

山崎が言うと、男は少し笑った。

「いえ、こちらも心配しておりまして。ただ、桐谷は精神的に不安定なところがありましてね。事実と異なる相談を外部にしている可能性があります」

山崎は受話器を握り直した。

「連絡は取れていますか」

「昨日から欠勤しています」

「警察には?」

「大人ですので。無断欠勤は困りますが、会社として事件扱いする段階ではありません」

事件扱いする段階。

どの段階なら、事件になるのか。

殴られたら。

血が出たら。

死んだら。

死んでも、事件性がないと言われることさえある。

山崎は静かに尋ねた。

「昨日、面談をされましたか」

「通常の人事面談です」

「その面談で、本人のスマートフォンを見せるよう求めましたか」

沈黙。

「会社の機密情報の持ち出しが疑われたため、確認しただけです」

「位置情報共有アプリについては?」

「業務上必要な安全管理です」

「社員の個人情報を掲示板に貼りましたか」

「事実確認中です」

事実確認中。

責任を先送りにするための、腐った毛布のような言葉だった。

電話を切った後、山崎はりなと顔を見合わせた。

「会社ぐるみですね」

りなは言った。

「篠田個人の問題じゃない」

山崎はうなずいた。

会社は、篠田を守ったのではない。

会社自身を守った。

営業成績のいい社員。

顧客を持つ社員。

社内の問題を外へ出したくない管理職。

評判を気にする経営者。

そこに、美沙の恐怖が入る余地はなかった。

職場の沈黙は、ただ黙っているだけではない。

被害者に「騒ぐな」と言い、加害者に「今は大人しくしろ」と言い、周囲に「個人間の問題だ」と言い、外部には「事実確認中」と言う。

それは沈黙という名の共同作業だった。

三日目の夜、美沙のSNSが更新された。

山崎がりなから知らされたのは、午後十一時過ぎだった。

投稿には、夜の海の写真が添えられていた。

本文は一行。

全部、私が悪かったです。

りなは青ざめていた。

「本人が書いたんでしょうか」

山崎は画面を見た。

美沙のこれまでの投稿と、文体が違う。

句読点の使い方。

言葉の硬さ。

何より、美沙は「全部」という言葉を使わない人だった。

彼女は、出来事を一つずつ記録する人だった。

全部、とまとめる人ではない。

「神崎先生へ連絡します」

山崎は言った。

警察にも追加で伝えた。

姉は半狂乱になった。

だが翌朝、さらに奇妙なことが起きた。

美沙の会社が、社内向け文書を出した。

桐谷美沙氏について

本人の私的事情および体調不良により、当面の間、休職扱いとします。なお、社内外への不確かな情報の発信は、会社および関係者への迷惑となるため、厳に慎んでください。

文書の最後には、こうあった。

当社は、全従業員が安心して働ける職場環境づくりに努めています。

安心して働ける。

山崎はその一文を読んだとき、初めて机を叩いた。

紙が跳ねた。

りなも、ゆいも、言葉を失った。

人が消えている。

その人が恐怖を訴えていた。

その人の証拠が残っている。

それでも会社は、安心して働ける職場だと言う。

偽善は、いつも美しい言葉で塗装される。

その下にある腐敗臭を、広報文は消毒液の匂いで覆い隠す。

数日後、美沙は見つかった。

海ではなかった。

隣県の古いビジネスホテルだった。

自分で宿泊していた。

命に別状はなかった。

ただ、彼女は誰にも連絡できずにいた。

スマートフォンは壊れていた。

財布には現金が少しだけ。

服は会社に行った日のまま。

警察から姉を通じて連絡があり、山崎は病院の面会室で美沙と再会した。

彼女は別人のようだった。

髪は乱れ、頬は落ち、目だけが妙に大きい。

「すみません」

彼女は最初に謝った。

山崎は首を振った。

「謝らなくていいです」

「内容証明、出せなくて」

「それも、今は考えなくていい」

美沙は膝の上で手を握った。

「会社で、囲まれました」

声はかすれていた。

「部長が、篠田さんが傷ついていると言いました。総務が、私のせいで職場の空気が悪くなったと言いました。女性の先輩が、昔はもっと大変だった、これくらいで騒ぐなと言いました」

彼女は笑おうとして、失敗した。

「私、だんだん分からなくなったんです。私が悪いのかもしれないって」

山崎は黙って聞いた。

「スマホを見せろと言われました。録音してるんだろうって。クラウドのパスワードも聞かれました。会社の情報を持ち出してるなら懲戒になるって。篠田さんはずっと黙っていました。黙って、私を見ていました」

「その後は」

「帰れと言われました。でも篠田さんが駅まで送ると言って。私は断ったんです。そしたら、会社の人たちは笑って、まだそんなこと言ってるの、って」

美沙の呼吸が浅くなった。

「駅に行く途中で、逃げました。電車に乗って、知らない駅で降りて。スマホは途中で落としたのか、捨てたのか、覚えていません。ホテルに入って、ずっとカーテンを閉めていました」

「SNSの投稿は?」

美沙は首を横に振った。

「知りません」

その瞬間、山崎の中で何かが固まった。

本人ではない。

誰かが投稿した。

美沙のアカウントに入った者がいる。

それが篠田なのか、会社関係者なのか、あるいは別の誰かなのか、今は断言できない。

だが、少なくとも美沙の「謝罪」は、本人の声ではなかった。

社会は、被害者の口を奪う。

そして、奪った口で謝らせる。

山崎は、その事実に吐き気を覚えた。

神崎弁護士が本格的に入った。

警察にも、SNS不正投稿の可能性、スマートフォンへの接触、職場での囲み面談、位置情報共有、勤怠情報の掲示、脅迫的封筒の写真が提出された。

会社は最初、全面否定した。

篠田は「心配していただけ」と言った。

部長は「通常の人事面談」と言った。

総務は「機密保持上の確認」と言った。

女性社員は「そんな深刻な雰囲気ではなかった」と言った。

全員が、少しずつ嘘をついた。

大きな嘘ではない。

自分だけは責任を負わない程度の小さな嘘。

その小さな嘘が重なって、美沙一人を押し潰していた。

だが、クラウドに保存された写真と録音は残っていた。

美沙が必死で残した欠片。

震える手で撮った写真。

途切れた録音。

意味の切れたメモ。

完全な証拠ではない。

穴だらけだった。

だが、その穴だらけの証拠が、逆に現実を語っていた。

助けを求める人間は、整った証拠など残せない。

残せるのは、恐怖の途中で掴んだ破片だけだ。

そして、その破片を「不十分」と切り捨てる社会は、加害者の側に立っている。

やがて、会社内部から一人の社員が証言した。

若い女性社員だった。

彼女は匿名を条件に、面談の前後で何があったかを話した。

「篠田さんは、桐谷さんの居場所を知っていました。社用端末の位置情報だけじゃなく、個人スマホの情報も知っているみたいでした」

「なぜ止めなかったんですか」

神崎が尋ねた。

女性社員は泣いた。

「怖かったんです。篠田さんは部長に気に入られていたし、逆らうと仕事を回してもらえなくなる。桐谷さんのことも、最初は大げさだと思っていました。でも、本当は分かっていました。あの人、ずっと怯えていた」

「なぜ今、話す気に?」

「桐谷さんが消えたとき、会社が最初に言ったんです」

女性社員は唇を震わせた。

「これで静かになるな、って」

その言葉を聞いたとき、山崎は背筋に氷を差し込まれたような感覚を覚えた。

これで静かになる。

人間が消えたことを、問題の消滅と見る職場。

恐怖を訴えた人の不在を、空気の正常化と呼ぶ組織。

そこにいる者たちは、怪物ではない。

普通の会社員だ。

給料をもらい、昼休みに弁当を食べ、子どもの写真を見せ合い、健康診断の予約をし、年末調整の書類を書く。

その普通の人々が、職場の秩序を守るために、一人の恐怖を黙殺する。

社会の闇は、特別な悪人だけでできているのではない。

普通の人間の保身でできている。

内容証明は、最初の文案から大きく変わった。

差出人は、美沙本人ではなく、弁護士が代理人として入る形になった。

通知先は篠田だけではなく、会社も含まれた。

接触禁止。

監視行為の停止。

私的情報の削除。

社内情報の不当利用に関する説明。

面談経緯の記録開示。

安全配慮義務に関する回答。

不正なSNS投稿の調査。

山崎は、当初の文案をファイルに残した。

差出人欄には、桐谷美沙の名前が入っている。

だが、その通知は出されなかった。

差出直前に、差出人は消えた。

正確には、消されたのだ。

本人が逃げたからではない。

恐怖が彼女の住所を奪い、職場が彼女の声を奪い、加害者が彼女の言葉を奪い、社会が彼女に「証拠を出せ」と言い続けた結果、彼女は差出人でいることさえ危険になった。

数か月後、篠田は会社を去った。

自己都合退職と発表された。

会社は、外部に向けて短いコメントを出した。

「一部従業員間の不適切なコミュニケーションについて、社内規程に基づき適切に対応しました」

一部。

不適切。

コミュニケーション。

その三つの言葉が、美沙の恐怖をどれだけ小さく切り刻んだか。

山崎はその文書を読んで、しばらく声が出なかった。

監視は、コミュニケーションではない。

脅しは、行き違いではない。

沈黙の強制は、職場秩序ではない。

だが組織は、言葉を薄めることで責任を薄める。

薄められた責任は、やがて誰のものでもなくなる。

美沙は、会社を辞めた。

しばらく姉の家に身を寄せ、その後、別の街へ移った。

山崎事務所に最後に来たとき、彼女は以前より少しだけ顔色が戻っていた。

「先生」

「はい」

「私、まだ怖いです」

「当然です」

「何も終わっていない気がします」

「終わっていないこともあります」

美沙はうなずいた。

「でも、私が悪かったわけじゃないって、少しだけ思えるようになりました」

山崎は、机の上に一冊のファイルを置いた。

そこには、最初のメモ、録音のリスト、SNSのスクリーンショット、クラウド写真の一覧、通知文案が綴じられている。

美沙は表紙を見た。

桐谷美沙氏 通知書作成関連資料。

その下に、山崎が小さく書き足していた。

内容証明の差出人は消えた。

美沙は、苦く笑った。

「私は、消えたんでしょうか」

山崎は少し考えてから答えた。

「消えかけました」

美沙は黙った。

「でも、残りました」

山崎はファイルを軽く叩いた。

「ここに。あなたの言葉として」

美沙の目に涙が浮かんだ。

「紙って、冷たいですね」

「ええ」

山崎はうなずいた。

「でも、冷たいから残ることもあります」

美沙は両手でファイルに触れた。

まるで、自分の骨を確かめるように。

外では、草薙の街に夕暮れが落ちていた。

駅へ向かう人々が、スマートフォンを見ながら歩いている。誰かが誰かを待ち、誰かが誰かにメッセージを送り、誰かが誰かの位置を確認している。

便利な社会だった。

人と人がつながる社会だった。

だが、つながりは時に縄になる。

通知は鎖になり、既読は監視になり、位置情報は檻になる。

そして職場は、秩序という名でその檻を見ないふりをする。

山崎は窓の外を見た。

この社会は、助けを求める人に証拠を求める。

だが、証拠を残すには安全がいる。

安全がないから助けを求めているのに、安全がなければ証拠も残せない。

その矛盾の中で、多くの声が消える。

内容証明は、ただの紙だ。

人を守る盾ではない。

魔除けでもない。

郵便局の消印が押されたからといって、恐怖が消えるわけではない。

それでも、紙にしなければならないことがある。

「やめてください」

「怖いです」

「私は悪くありません」

「これは恋愛トラブルではありません」

「これは職場の問題です」

「これは監視です」

「これは沈黙の強制です」

声に出せなかった言葉を、紙にする。

消されそうになった人間の輪郭を、文字でなぞる。

山崎は、美沙が帰った後、ファイルをキャビネットにしまった。

扉を閉めると、金属の音が小さく鳴った。

冷たい音だった。

だが、その冷たさの中に、わずかな抵抗があった。

差出人は消えた。

けれど、差出人の声は消えなかった。

この社会の闇は、人を一瞬で飲み込むとは限らない。

少しずつ名前を奪う。

少しずつ信用を奪う。

少しずつ証拠を奪う。

少しずつ居場所を奪う。

最後に本人が黙ったとき、周囲は言う。

本人の意思です。

山崎は机の上のペンを取った。

次の相談予約票が置かれている。

件名は、職場での嫌がらせ。

相談者は、まだ来ていない。

山崎は予約票の空欄を見つめた。

そこに、また誰かの声が入る。

消える前に。

消される前に。

紙にするために。

 
 
 

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