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冬のモルドバ


冬のモルドバは、遠くから見るとただ白いだけなのに、近づくほど色が増えていく。首都の喧騒を離れてバスに揺られ、窓ガラスの内側に息の曇りを作りながら、ゆるい丘と林が交互に現れては消えるのを眺めていた。車内は暖房が効いているのに、停留所に近づくにつれて外の冷えが先回りして膝にまとわりつくようで、私は無意識にマフラーを締め直した。

降り立った道端は、雪というより「粉をはたいた」程度の白さだった。黒い土や枯れ草がところどころ覗き、踏みしめると靴底が薄い氷の膜を割るように小さく鳴る。湿っていない冷気が鼻の奥を刺し、吸い込むたびに喉がきゅっと縮む。耳の奥が冷えていく感覚だけがやけに生々しくて、私は「ちゃんと冬の中に入った」と身体で理解した。

林の中へ続く道を歩くと、風の匂いが変わった。土の匂いより、針葉樹の青い匂いが強い。樹脂の甘さと、冷えた葉の苦さが混じり、息を吐くたびに胸の内側まで洗われるみたいだった。雪は深くないのに、音はすくない。遠くの車の気配も薄れ、代わりに、枝がこすれる乾いた擦過音と、自分の足音だけが一定のリズムで続く。静けさの中にいると、心の中の余計な言葉が勝手に減っていく。

坂の手前で、ふっと視界が開けた。白い斜面の上に、小さなモミの木が点々と植えられている。どれも背は低く、枝先に細かな雪を抱えて、まるで森の子どもたちが整列しているみたいだ。その真ん中に、白い像が立っていた。ローブをまとい、両腕を静かに広げている。雪が薄く肩に乗り、顔の輪郭は柔らかく、表情は読み取れないのに――それでも、見つめ返されている気がした。

私はそこで立ち止まった。旅の途中で、こんなふうに「迎えられている」と感じる瞬間は珍しい。私は信仰心が篤いわけではないのに、冷たい空気の中で腕を広げるその像の前では、観光客の視線が不思議とほどけていく。自分が何を求めてここまで来たのか、言葉にしなくていい、と言われているようだった。

像の脇には、丸太を輪切りにしたような段が並び、雪の斜面に階段の形を作っていた。踏み出すと、木の表面は薄く凍っていて、足裏がわずかに滑る。慎重に体重を移すたび、冷えた空気がコートの隙間から入り込み、背中がぞくりとする。けれど同時に、坂を登る動きで血が巡り、指先の感覚が少しだけ戻ってくる。その「寒さ」と「温まり」のせめぎ合いが、今ここに生きていることを妙に強く意識させた。

顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。丘の上に、ハンク修道院の教会が現れていた。

建物は、冬の森の中では驚くほど明るい色をしている。バターのような淡い黄、白い縁取り、そして屋根の上に連なる黒いドーム。ドームは夜空を丸めたみたいに艶があり、金色の帯がぐるりと巡っている。頂の十字架は細い金属の線で空に立ち、寒い空気の中でいっそう硬質に見えた。石と漆喰と金属でできたはずの建物が、雪と光をまとって呼吸しているようだった。

右手には、もうひとつの小さな聖堂があり、低い太陽がその背後から差し込んでいた。光はまっすぐではなく、薄い雲を通って拡散し、ドームの縁を淡く発光させる。逆光で十字架が黒いシルエットになり、まるで空に刻印された記号みたいにくっきり浮かぶ。レンズの中で光が滲み、冬の夕方が持つ、少しだけ夢のような色が世界にかかった。

私はしばらく動けなかった。寒さのせいではなく、景色の「整い方」に圧倒されていた。雪の白、モミの深い緑、教会の黄、ドームの黒、そして空の淡い青。それぞれの色が喧嘩せず、むしろ互いを引き立て合っている。ここが人の手で整えられた場所だと分かるのに、自然の中にすっと馴染んでいる。修道院というものが、外界から隔絶するための壁ではなく、森の静けさと同じ周波数で生きるための器なのだと、初めて腑に落ちた。

近くを歩くと、雪は薄くても、冷えの質が違うことが分かる。日陰の地面は硬く、草の先端に白い粒が固まっている。踏むと「ざりっ」と小さな氷の音がする。モミの枝が風で揺れて、雪の粉がさらさらと落ち、頬に触れてすぐ溶けた。触れたのはほんの一瞬なのに、なぜか涙に似た温度を感じて、私は少しだけ目を細めた。

修道院の敷地に入ると、人の気配はあるのに騒がしくない。遠くで扉が軋む音がして、短い会話がルーマニア語の柔らかな抑揚で流れ、すぐに静けさへ戻る。どこかから、蝋の匂いが微かに漂ってきた。甘いようでいて、芯のある匂い。冬の冷気の中に、その匂いだけが温度を持って漂う。

私は自分の胸の内側が、静かに変わっていくのを感じた。旅に出る前、私は「見たいもの」をたくさん抱えていた。地図に印をつけ、時間を割り振り、効率よく回るための段取りを頭の中で組んでいた。けれど、ここでは段取りが急に意味を失う。時間は縮められないし、急いでも何も増えない。ただ、空気が冷たく、木々が沈黙し、建物がそこに立っている。その事実だけで充分だった。

像の前を通り過ぎるとき、私は思わず小さく頭を下げた。祈りの言葉は出てこない。代わりに、胸の奥から「すみません」と「ありがとう」が同時に湧いてきた。何に対してなのか分からないまま、ただその二つの言葉が同居するのが、自分でも不思議だった。旅先ではときどき、理由のない感情がいちばん正直だ。

夕方が深まり、空の青が少しずつ灰色に寄っていく。ドームの黒はさらに濃く、黄いろい壁は冷たい光の中で静かに沈む。それでも、建物は暗くならない。むしろ、暗くなるほど輪郭がはっきりして、「ここにある」という確かさが増していく。

帰り道、足跡のついた雪を見下ろしながら、私は心のどこかが軽くなっているのに気づいた。何かを解決したわけではない。悩みが消えたわけでもない。ただ、森の中の修道院を前にして、自分の不安や焦りが「世界の中心」ではなくなった。それは敗北ではなく、救いだった。

林の端まで戻ったとき、振り返ると、教会のドームと十字架がまだ空に浮かんでいた。雪の森の真ん中で、色と静けさをまとって立つ東方正教の建築。私はその姿を目に焼き付けるように見つめ、最後にもう一度、息を吐いた。白い息はすぐ消える。けれど、あの光と冷気と匂いは、消えずに私の中に残る気がした。

 
 
 

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