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削り屑の波

 鉛筆の先が丸くなると、線は太って、字はすぐに子どもになる。 幹夫はそれが悔しかった。悔しいのに、声にすると家の空気が硬くなる気がして、悔しさを喉の奥に押し込んだ。

 夜。 祖母が台所で湯を沸かし、母は縫い物を膝に置いている。針が布を通る音は、いつ聞いても小さくて、あたたかい。あたたかいのに、今日はそれが遠く感じた。駅の壁の紙の匂いが、まだ鼻の奥に残っているせいだ。

 幹夫は座敷の隅で、新聞紙の裏を膝に広げた。 白いといっても、真っ白じゃない。インクの影が薄く透けて、白が少し疲れている。でも、その疲れた白が、今日はちょうどよかった。真っ白だと、自分の線が汚してしまう気がして怖いからだ。

 上着の内ポケットから、短い鉛筆を取り出す。 芯の黒は、夜より黒い。夜より黒いのに、命令しない黒。サイレンの黒い音と違う。鉛筆の黒は、こちらに合わせてくれる。

 幹夫は、駅で写した「形」をもう一度なぞろうとした。 昨日は必死で、形だけを盗んできた。今日はそれを、自分のものにしたい。自分の手に馴染ませたい。

 ……けれど、先が丸い。 丸い先は、紙を滑ってしまう。滑ると、線がよけいに震える。震える線は、心の震えみたいで、幹夫は見たくなかった。

 削らなきゃ。

 幹夫は鉛筆を見つめて、息を止めた。 削る、ということは減らすことだ。減らすのは怖い。砂糖が減ったときと同じ怖さがある。減ると、いつかなくなる。なくなると、胸の中の音がまたうるさくなる。

 それでも、削らなきゃ。

 幹夫はそっと立ち上がり、台所の隅の棚から小さな包丁を探した。芋を切るときに使う、刃の欠けた包丁。欠けているけれど、まだ働く刃。欠けているものほど、よく働くことがある。

 包丁を持つ手が、少しだけ震えた。 包丁は、怖い。 怖いけれど、怖いものを持つとき、手はちゃんと生きている。

 縁側に座って、灯りの当たるところに鉛筆を置いた。 鉛筆の木は、黒く汚れている。人の手に触れてきた木の色だ。短くなるまで使われた木の色。あの男の時間の色。

 幹夫は包丁を鉛筆に当てた。 刃を寝かせる。力を入れすぎない。母が縫い物をするときみたいに、急がせない。

 しゃり、という音がした。

 削り屑がくるりと巻いて、落ちた。 薄い木の皮が、白く光っている。白いのに、砂糖の白より柔らかい。紙の白より軽い。削り屑は、落ちる瞬間だけ生き物みたいに動いて、すぐにただの木になる。

 幹夫は、その白い巻きを見て、波を思い出した。 寄せて、返す。寄せて、返す。 削り屑も、出て、落ちる。出て、落ちる。 繰り返しは、少しだけ心を落ち着かせる。

 もう一度、しゃり。 また白い巻き。 幹夫は削り屑を拾い上げ、指でそっと伸ばしてみた。伸ばすと破れる。破れるのに、幹夫は怒れなかった。破れるのは悪いことじゃない。ただ薄いだけだ。薄いものに、強さを求めるほうが間違っている。

 幹夫は、もう少し削った。 短い鉛筆は、削るとすぐに短くなる。削るたびに、鉛筆の「体」が痩せる。痩せるのを見て、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 ――削りすぎるな。

 あの男の声が、頭の中で聞こえた気がした。 短いもんほど、ちゃんと持たんといかん。 ちゃんと、持つ。ちゃんと。 幹夫は「ちゃんと」の難しさを思い出して、手を止めた。

 止めた瞬間だった。 包丁の刃が、ほんの少しだけ芯に触れた。

 ぱき。

 小さな音。 小さすぎて、耳じゃなく胸で聞いた音。

 鉛筆の先の黒が、欠けた。 欠けた黒い欠片が、新聞紙の上に落ちた。落ちた欠片は、夜より黒い。夜より黒いのに、急に冷たく見えた。

 幹夫の喉が、勝手に鳴った。 息が浅くなる。胸の中の小さな警報が、尖って鳴る。 やってしまった。 壊してしまった。 短い鉛筆を、もっと短くしてしまった。

 幹夫は欠片を拾い上げた。 黒い芯は指先に粉を残した。黒い粉は、汚れなのに、汚れじゃない。汚れじゃないはずなのに、幹夫は急に恥ずかしくなった。恥ずかしさは、罪みたいに熱い。

 幹夫は欠片を掌に隠し、削り屑を指で集めた。白い巻きが、掌の中でくしゃっと潰れる。潰れる音が、また胸に痛かった。

 そのとき、背中で針の音が止まった。 止まっただけで分かる。母がこちらを見た。

「……何してる」

 母の声は低かった。 低いけれど、叱りの入口の低さではない。危ないことをしているかもしれないときの低さだ。

 幹夫は振り返れなかった。 振り返ったら、掌の中の黒い欠片が見える。見えたら、母の眉間が固くなる。固くなるのが怖い。怖いから、幹夫はそのまま小さく言った。

「……字」

 母が近づく足音。畳が鳴らないように歩く足音。 母はそういうとき、音を消す。音を消すのは怒っているときじゃなく、壊れやすいもののそばに来るときだ。

 母は縁側にしゃがみ、幹夫の手元を見た。 包丁。鉛筆。削り屑。 そして、幹夫が隠している掌。

「手、開けて」

 母の声は、もっと低くなった。 幹夫は、どうしても開けたくなかった。開けたら、黒い欠片が「なくなっていく」を証明してしまう。

 けれど母の目は、逃げ場をくれない目だった。 叱る目じゃない。見届ける目だ。

 幹夫は、ゆっくり掌を開いた。 黒い芯の欠片。指先の黒い粉。白い削り屑のくず。

 母は一瞬だけ目を細めた。眉間が固くなると思った。 けれど固くならなかった。 代わりに、母は小さく息を吐いた。

「……折れたか」

 母はそれだけ言って、幹夫の掌の黒い欠片を指でつまんだ。つまむ指は震えていない。震えていないのが、また少し怖い。

「削りすぎた?」

 幹夫は頷いた。頷きながら、喉の奥が痛くなる。泣く手前の痛み。泣いてはいけないと思うほど、痛みは鋭くなる。

 母は包丁を取り上げて、刃を新聞紙で拭いた。 それから、鉛筆を手に取った。短い鉛筆を、母の指が転がす。母の指は、短いものを扱うのが上手だった。糸も、米も、砂糖も。短いもの、少ないものを、母は壊さないように扱う。

「……これ、短すぎるな」

 母がぽつりと言った。

 短すぎる。 その言葉が幹夫の胸に刺さった。短い鉛筆は、あの男の時間で、幹夫の希望だった。短いからこそ大事で、短いからこそ怖いのに、「短すぎる」と言われると、急に弱いものに見えてしまう。

 母は立ち上がり、台所へ行った。 幹夫は取り残されたみたいに、縁側に座ったまま動けなかった。削り屑が風でひとつ転がって、畳の縁にくっついた。白い波の死骸みたいに。

 台所から、祖母の声がした。

「どうしただ」

「鉛筆、短いで」

 母が答えた。 祖母は「ほう」と言って、何かを探る音を立てた。引き出しの音。木が擦れる音。 生活の音が戻ってきたことに、幹夫は救われた。救われると、今度は自分が情けなくなる。救われるほど、大したことじゃないのに、胸が騒いだ自分が恥ずかしい。

 母が戻ってきた。手には、短い竹の筒があった。竹の香りがする。新しい竹じゃない。使われた竹の匂い。 祖母が言った。

「箸の竹。折れたやつがあったで」

 折れた箸。欠けた包丁。欠けた茶碗。欠けた貝殻。 欠けたものは、この家で働く。 欠けたものは、捨てられない。捨てられないということが、救いの形になるときがある。

 母は竹の筒の片方を、小さな布で拭いた。 それから鉛筆の尻を、その筒にそっと差し込んだ。 差し込むと、鉛筆が少しだけ長くなった。 少しだけなのに、急に「持てる」形になる。

 母は糸を取り、竹と鉛筆の境目をぐるぐる巻いた。糸がきゅっと締まる音。糸が木に食い込む音。 縫い物の糸の音と同じ音だ。 同じ音なのに、今日は胸が熱くなった。

「……これでいい」

 母が言った。 声は淡々としている。淡々としているから、余計に優しい。

 幹夫は、竹を付けた鉛筆を受け取った。 重さが少し増えた。重さが増えると、心が落ち着く。軽いものは飛んでいってしまいそうで怖い。重いものは、ここにいてくれる。

 母は、幹夫の新聞紙の裏を見た。 そこに並ぶ、歪んだ線。 昨日写した「形」と、今朝書き直そうとした「形」。

 母の指が、その中のひとつの字の上で止まった。 止まったのは、駅でも見た止まり方だった。 止まると、喉が動く。 今日も母の喉が、ほんの少し動いた。

「……これ」

 母はその字を、指先で軽く叩いた。 幹夫は息を止めた。

「これ、帰るって字だよ」

 母が言った。 「帰る」。 言葉は短いのに、長い道みたいに胸の中に広がった。

 幹夫は、その字を見た。 線の集まりが、急に意味になる。 意味になった瞬間、字はただの形じゃなくなる。 字が形じゃなくなると、怖い。 怖いのに、嬉しい。

「……かえる」

 幹夫が小さく繰り返すと、母はそれ以上何も言わなかった。 言わないところに、母の「言えない」が詰まっている気がして、幹夫は急に胸がきゅっとなった。

 母は針を持ち直し、縫い物の続きを始めた。 針の音が戻ってきた。 戻ってきたのに、さっきの「帰る」が、幹夫の中でじっと残っていた。芯の黒みたいに。

 幹夫は竹を付けた鉛筆を握り直した。 握りやすい。 握りやすいと、手が自分のものになる。自分のものになると、字が自分のものになる気がする。

 幹夫は「帰」を書いた。 一画目を急がせない。 母の針みたいに、入って、出る。 入って、出る。 線が残る。残って、黒くなる。

 書き終えると、幹夫はその字を見つめた。 「帰る」という字が、紙の上でじっとしている。じっとしているのに、胸の中だけが動いている。

 帰る。 帰る場所。 帰る人。

 幹夫は、その先を考えると苦しくなるのが分かった。だから、考える代わりに、もう一度書いた。 字を増やすと、考えが少し薄まる。薄まると、息ができる。

 ふと、母の針が止まった。 母は幹夫の書いた「帰」を見て、何も言わずに、ただ幹夫の頭に手を置いた。 置いただけ。撫でない。 撫でない手は、崩れないように押さえる手だ。

 手の温度が、じんわり頭皮に染みた。 その温度は、サイレンの代わりにならない。 けれど幹夫には、それで十分だった。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 その代わりに、母の「帰る」が届いた。 竹を付けた鉛筆の重さが届いた。 削り屑の白い波が、足元で静かに崩れていく音も届いた。

 幹夫は削り屑を指で集めて、掌にそっと包んだ。 白いくずは、もう波じゃない。 でも、捨てられなかった。捨ててしまうと、今日の夜が消えてしまう気がした。

 幹夫はその白いくずを、新聞紙の端に包んで、畳の隅に置いた。 置くとき、丁寧に置いた。 丁寧に置けば増えるわけじゃない。 けれど丁寧に置くと、「なくなる」ことの角が、ほんの少しだけ丸くなる気がした。

 
 
 

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