反社条項は眠らない
- 山崎行政書士事務所
- 41 分前
- 読了時間: 22分

契約書の中で、いちばん眠っているように見える条項がある。
反社会的勢力排除条項。
たいてい後ろのほうに置かれている。損害賠償、秘密保持、解除、準拠法、合意管轄。その近くで、似たような顔をした定型文として並ぶ。
甲および乙は、自己または自己の役員、実質的支配者、関係者が反社会的勢力に該当しないことを表明し、保証する。
読まれない。
交渉されない。
誰も赤字を入れない。
「まあ、標準ですね」と言われ、契約書の奥で紙の埃をかぶる。
だが山崎は知っている。
その条項は、眠っているのではない。
目を閉じて、耳を澄ましている。
街の裏側で金が流れる音を、じっと聞いている。
山崎行政書士事務所にその契約書が持ち込まれたのは、梅雨明け前の蒸し暑い午後だった。
依頼者は、草薙市内で物流倉庫を営む柏木倉庫株式会社の専務、柏木真一だった。五十代前半。日に焼けた顔に、ネクタイだけが不自然にきつく結ばれている。
「新規取引先との業務提携契約です」
柏木は、厚い封筒から契約書を取り出した。
「相手は、都内のコンサル会社です。うちの倉庫を使った新しい中古端末の回収事業を提案されましてね。企業から古いスマホやPCを回収して、データ消去して、再販ルートに流す。これから伸びると言われています」
山崎は、契約書の表紙を見た。
業務提携基本契約書。
相手方は、株式会社清澄アセットコンサルティング。
清澄。
名前だけで水が澄んでいる。
そういう会社名ほど、山崎は警戒する。
「契約前に見てほしいと」
「ええ。向こうは急いでいます。今月中に締結できれば、初回案件を回すと」
「初回案件の規模は?」
「五千万円程度の売上になる見込みです」
山崎の隣で、みおが書類を受け取りながら目を上げた。
五千万円。
地方の倉庫会社には大きい。
大きい金は、契約書の文字を読みにくくする。
数字が目に入った瞬間、人間は条項の棘を見落とす。
柏木は続けた。
「正直、うちも苦しいんです。燃料代、人件費、空き倉庫。銀行からも新規事業を求められている。だから、いい話なら乗りたい」
その声に嘘はなかった。
切実だった。
切実な人間は、騙されやすい。
悪いからではない。
生きたいからだ。
山崎は契約書を開いた。
最初は普通に見えた。
目的。業務内容。報酬。秘密保持。損害賠償。反社会的勢力排除。再委託。契約解除。
だが、数ページ読むうちに、紙の下からぬめるような違和感が出てきた。
反社会的勢力排除条項は、妙に長かった。
長いのに、肝心なところが抜けている。
相手方が反社会的勢力ではないことを表明保証する。
ただし、再委託先、協力会社、紹介元、資金提供者については、相手方が合理的に知り得る範囲に限る。
合理的に知り得る範囲。
便利な穴だった。
知らなかった、と言うための穴。
次に、再委託条項。
清澄アセットコンサルティングは、柏木倉庫の承諾なく、業務の全部または一部を第三者に再委託できる。
ただし、当該第三者の名称、所在地、代表者等については、業務上必要と認める範囲で開示する。
必要と認める範囲。
誰が必要と認めるのか。
相手だ。
山崎は、ページをめくった。
支払条件。
柏木倉庫は、清澄アセットに対し、紹介料、管理料、データ消去監修料、物流調整費を支払う。
支払先は、清澄アセットが別途指定する口座とする。
別途指定。
契約書に口座名義がない。
さらに、実質的支配者の表明欄があった。
清澄アセットは、自己の実質的支配者が暴力団員等に該当しないことを表明する。
しかし、実質的支配者の氏名、生年月日、住所を記載する欄は空白だった。
山崎はペンを置いた。
「柏木さん、この会社の紹介者は?」
「斎木という人です。以前、古物商関連の取引で知り合った業者から紹介されました」
古物商。
山崎の中で、細い糸が鳴った。
「清澄アセットの担当者は?」
「名刺では、取締役営業本部長の東条という方です。物腰は柔らかいですよ。ちゃんとした会社に見えます」
ちゃんとした会社に見える。
この社会で、それほど危ない言葉は少ない。
ちゃんとしているかどうかを、人は受付の花、名刺の紙質、ウェブサイトの写真、電話応対の丁寧さで判断する。
だが、金の匂いはそこには出ない。
山崎は静かに言った。
「契約は、まだ締結しないでください」
柏木の顔が曇った。
「そんなに危ないですか」
「確認すべき点があります」
「でも、今月中にと言われています」
みおが、契約書の再委託条項に付箋を貼った。
「急がせる相手ほど、ゆっくり見る必要があります」
柏木は黙った。
その沈黙には、金を逃したくない焦りと、何かに巻き込まれたくない恐怖が混じっていた。
調査は、契約書の一文から始まった。
山崎は登記情報、公開されている法人履歴、住所、役員変更の時期、関連会社名を整理した。みおは契約書の条項を分解し、ちぎりは古物商関連の取引記録とクラウド請求情報の聞き取り項目を作った。
清澄アセットコンサルティング。
設立は三年前。
資本金五百万円。
本店所在地は都内のシェアオフィス。
代表取締役は、相馬裕二。
一見、普通だった。
だが、住所を追うと別の会社が出てきた。
株式会社グレイスリンク。株式会社東都リユースマネジメント。株式会社Kラインデータ。合同会社ミナセキャピタル。
どれも同じビル、同じ階、同じシェアオフィスを本店としていた時期がある。
役員も少しずつ重なっている。
相馬が代表だった会社。東条が取締役だった会社。斎木が顧問として関わっていた会社。そして、すでに清算された会社。
会社は消える。
だが、住所と名前と銀行口座の痕跡は、薄い油膜のように残る。
山崎は、相関図を作った。
線を引くほど、紙が黒くなる。
みおが横から見て言った。
「会社というより、脱皮した蛇みたいですね」
「前の皮を置いて、次の名前で動く」
「清澄なのに、全然澄んでませんね」
ちぎりは、別の資料を見ていた。
「古物商関連の取引にも、似た会社名があります」
「どこですか」
「東都リユースマネジメント。中古スマホの回収業者として、複数のリユース店と取引していたようです。あと、Kラインデータは、データ消去証明書の発行代行を名乗っています」
「証明書?」
「はい。端末のデータ消去を行ったという証明書です。ただ、実際の作業記録と請求情報が一致しないものがある」
山崎は顔を上げた。
「クラウド請求情報は?」
ちぎりは、柏木倉庫から提供された初回提案資料を出した。
清澄アセットは、回収端末の管理システムをクラウドで運用すると説明していた。
提案書には、クラウド利用料として月額八十万円。
だが、請求内訳には別会社名が出ていた。
合同会社ミナセキャピタル。
クラウド請求代行費。
「なぜ投資会社のような名前の合同会社が、クラウド請求代行をしているんでしょう」
みおが言った。
「しかも、支払先を別途指定できる契約条項と噛み合う」
山崎はうなずいた。
「金の出口が複数ある」
表向きは、清潔なコンサル会社。
実際には、古物商関連の回収、データ消去証明、クラウド請求、物流調整、紹介料が別々の会社に散っている。
一つひとつは説明できる。
分業です。専門会社です。業務効率化です。守秘の都合です。支払管理の都合です。
だが、線を引くと、同じ影が見える。
その影が誰なのかは、まだ分からない。
ただ、影は一つだった。
柏木倉庫の過去の取引も確認した。
斎木という紹介者は、かつて別のリユース店に関わっていた。店名は、リリンク・マーケット。
山崎は、その名前を見た瞬間、指が止まった。
以前、古物台帳に名前のない客がいた店だ。
中古スマホとPC。
削除されきっていない個人情報。
盗難品らしき管理番号。
反社会的勢力の資金洗浄の影。
あの店の摘発後、表に出なかった周辺業者がいくつもあった。斎木の名前は、当時の資料の端に小さく残っていた。
一度、闇から離れたように見えた名前が、別の契約書の中で再び現れる。
闇は消えない。
会社名を変える。住所を変える。担当者を変える。事業内容を変える。名刺を新しく刷る。ウェブサイトに笑顔の写真を載せる。
それだけで、社会は何度でも初対面のふりをする。
山崎は、清澄アセットに追加確認事項を送った。
実質的支配者の情報。再委託予定先の一覧。支払先口座の名義。クラウド請求代行会社との関係。古物商関連業務の許認可状況。データ消去作業の実施主体。反社会的勢力排除に関する確認方法。過去に関与した法人名。
返答は、翌日来た。
非常に丁寧だった。
そして、非常に空っぽだった。
実質的支配者については、当社内部規程に基づき適切に確認済みです。再委託先については、業務開始後、必要に応じて開示いたします。支払先口座については、経理処理上の都合により別途ご案内いたします。クラウド請求代行会社は、当社の業務提携先です。反社会的勢力排除については、契約書記載のとおり双方誠実に対応いたします。
誠実。
その言葉が、山崎には錆びた刃のように見えた。
誠実と言う者ほど、具体的な名前を書かない。
みおは返信を読んで言った。
「全部、答えているようで答えてませんね」
ちぎりが続けた。
「再委託先を業務開始後に開示するのは、危険です。始まってからでは止めにくい」
山崎は、反社条項のコピーを見た。
表明保証。解除。損害賠償。通知義務。
文面はある。
だが、この文面では眠ったままだ。
起こさなければならない。
その夕方、清澄アセットの東条から直接電話が来た。
声は柔らかかった。
「山崎先生、ずいぶん細かい確認をされていますね」
「契約前の確認です」
「もちろん重要です。ただ、柏木倉庫様は前向きです。先生のところで過度に慎重な対応をされると、機会損失になりかねません」
機会損失。
悪い話は、よく機会という服を着てくる。
「実質的支配者の情報が空欄です」
「個人情報ですから」
「契約相手として確認が必要です」
「では、秘密保持契約を先に結びましょう」
「その秘密保持契約にも、再委託先や支配者の確認が必要です」
電話の向こうで、東条が小さく笑った。
「先生は、何を疑っているんですか」
「確認しているだけです」
「清澄という名前が信用できませんか」
「名前では判断しません」
「柏木様は、かなり困っておられるようですよ。倉庫の空き、資金繰り、銀行との関係。こういう新規案件を逃すと、従業員にも影響が出る」
山崎は受話器を握る手に力を入れた。
「柏木倉庫の事情を、ずいぶんご存じですね」
「取引先を理解するのがコンサルです」
「それとも、弱みを把握するのが仕事ですか」
沈黙。
東条の声から、柔らかさが少し消えた。
「先生、反社条項というのは便利ですね。誰でも相手を疑える。でも、疑いすぎるとビジネスは止まります」
「疑いではなく、確認です」
「確認にも限度があります」
「隠すにも限度があります」
電話は、数秒だけ無音になった。
東条は最後に言った。
「契約書の一文で、世の中が全部見えると思わないほうがいいですよ」
山崎は答えた。
「一文で見えることもあります」
電話は切れた。
事務所の中に、冷房の音だけが残った。
みおが低く言った。
「向こう、柏木さんの資金繰りまで知っていましたね」
「銀行か、紹介者か、周辺業者か」
ちぎりは相関図に新しい線を引いた。
「資金繰りが苦しい会社を探して、回収事業を持ちかける。契約で再委託と支払先を自由にして、物流と古物取引を使う。クラウド請求やデータ消去証明で金を分散する」
山崎はうなずいた。
「物と金と情報を同時に動かす仕組みだ」
中古端末は便利だ。
物として動く。データとして価値がある。処分費、消去費、再販益、紹介料、保管料、クラウド利用料、監修料という名目が作れる。端末の数が多ければ、金額の水増しも混ぜやすい。再委託を重ねれば、誰が本当に触ったのか分かりにくくなる。
そこに反社会的勢力の資金が混ざれば、表の会社の請求書で白くなる。
黒い金は、白い紙が好きだ。
請求書。契約書。納品書。証明書。確認書。反社排除条項。
白い紙の束に包まれると、黒さは見えにくくなる。
だが、消えるわけではない。
柏木に中間報告をすると、彼はしばらく黙った。
会議室の窓の外では、夕立がアスファルトを叩いていた。
「つまり、危ない取引だと」
「現時点で断定はできません」
山崎は言った。
「ただ、確認に応じない項目が多すぎます。再委託、支払先、実質的支配者、関連会社。契約を締結する前に、少なくとも相手の説明を具体化させる必要があります」
柏木は苦しそうに顔を歪めた。
「先生、うちは本当に厳しいんです」
「分かっています」
「従業員が四十人います。トラックの運転手も、倉庫作業員も、みんな家庭がある。銀行は数字しか見ない。新規事業を作れと言う。既存の仕事は単価を叩かれる。真面目にやっているだけじゃ、もう残れない」
その声は、怒りではなく嘆きだった。
「こういう話に飛びつくなと言うのは簡単です。でも、飛びつかなきゃ沈む会社もある」
山崎は黙った。
それは真実だった。
社会は、弱った会社に清潔な選択肢ばかりを用意しない。
銀行は支援と言いながら数字を求める。取引先は協力と言いながら値下げを求める。行政は地域経済と言いながら、手続の正しさだけを見る。そして、闇の業者は、誰よりも早く救いの言葉を持ってくる。
「資金繰り、助けます」「新規事業、作れます」「雇用、守れます」「面倒なところは、こちらでやります」
闇は、悪魔の顔では来ない。
救済の顔で来る。
柏木は拳を握った。
「もし契約しなければ、うちは持たないかもしれない」
みおが静かに言った。
「契約したら、別の意味で持たないかもしれません」
柏木は目を閉じた。
その顔には、経営者の孤独があった。
従業員を守りたい。会社を潰したくない。銀行に見捨てられたくない。父親から継いだ倉庫を終わらせたくない。
その切実さを、誰かが利用しようとしている。
山崎は契約書を柏木の前に置いた。
「反社条項は、ただの定型文ではありません。相手に具体的な説明を求めるための入口です。これを使いましょう」
「使う?」
「はい。眠らせない」
清澄アセットに、修正案を送った。
実質的支配者の氏名、生年月日、住所、確認資料を別紙に記載すること。
再委託には、事前の書面承諾を必要とすること。
再委託先にも同等の反社排除条項を義務づけること。
支払先は契約当事者名義の口座に限定すること。
別会社への支払いは、正当な理由と契約関係を開示すること。
クラウド請求、データ消去、古物取引の実施主体を明示すること。
反社会的勢力との関係が判明した場合、催告なく解除し、損害賠償を請求できること。
取引開始後も、実質的支配者や再委託先に変更があれば通知すること。
みおは修正案を見て言った。
「これ、向こうが本当に清潔なら飲めますね」
ちぎりが頷いた。
「飲めないなら、飲めない理由が出ます」
返答は、東条ではなく、清澄アセットの顧問を名乗る弁護士から来た。
過度に広範な情報開示義務であり、当社の事業上の秘密を侵害する。再委託先の事前承諾は、業務の機動性を損なう。支払先口座の限定は、グループ内精算実務に適合しない。実質的支配者の詳細情報は、個人情報保護の観点から開示困難。貴社修正案は、相互信頼に基づく取引関係を損なうものである。
相互信頼。
また美しい言葉だった。
信頼とは、確認を拒むための言葉ではない。
確認できるから信頼できる。
山崎は柏木に伝えた。
「この条件では、契約締結は勧めません」
柏木は、長い沈黙の後で言った。
「分かりました」
だが、その声は弱かった。
人は危険を理解しても、すぐに離れられるわけではない。
借金は明日もある。従業員の給料日は来週来る。銀行の面談は月末にある。倉庫は空いたまま。家族は夕食の席で、会社の将来を聞かないふりをする。
正しい判断は、ときに人を飢えさせる。
だから闇の契約は、いつも正しさより早く差し出される。
数日後、柏木倉庫に異変が起きた。
主要取引先から、急に契約更新の見直しを告げられた。
銀行からも、追加資料の提出を求められた。
さらに、柏木専務のもとに匿名のメールが届いた。
件名はなかった。
本文には一行だけ。
「余計な先生に頼むから、倉庫が空になる」
添付には、柏木倉庫の資金繰り表の画像があった。
社内資料だった。
柏木は青ざめた顔で事務所に来た。
「なぜ、これを相手が持っているんですか」
山崎は画像を見た。
銀行提出用の資料。
内部の数字。
借入残高。
返済予定。
従業員給与。
倉庫稼働率。
経営者の弱みが、すべて並んでいる。
「社内から漏れた可能性があります」
「うちの社員が?」
柏木の声が割れた。
それは怒りではなく、裏切られた者の声だった。
だが、山崎はすぐには断定しなかった。
「銀行、会計事務所、紹介者、過去のコンサル、クラウド会計、メール。経路はいくつもあります」
ちぎりが画像の端を見た。
「このファイル名、クラウド共有からダウンロードしたものかもしれません」
みおが言った。
「清澄側は、最初から柏木倉庫の苦しさを知っていた。資金繰り表が流れていたなら、提案そのものが弱みを狙ったものだった可能性があります」
柏木は椅子に崩れるように座った。
「従業員を守ろうとして、変なものを呼び込んだのか」
誰も答えなかった。
その夜、山崎事務所のポストに封筒が入っていた。
中には、白黒コピーの写真が数枚。
一枚目。
清澄アセットの東条が、黒い車から降りるところ。
二枚目。
斎木が、草薙駅前の雑居ビルに入るところ。
三枚目。
そのビルの看板。
有限会社真和興業。
地元では、誰も正面から口にしない名前だった。
正式には普通の土木関連会社。
だが、古い飲食店、風俗店、解体業、産廃周辺の噂に何度も出てくる。
写真の裏には、手書きの文字。
「同じ財布」
差出人はない。
山崎は写真を机に並べた。
みおが息を呑んだ。
「誰が送ってきたんでしょう」
「分かりません」
ちぎりは写真の端を見ながら言った。
「でも、内側を知っている人です」
同じ財布。
同じ影。
山崎は相関図に、真和興業を加えた。
清澄アセット。グレイスリンク。東都リユースマネジメント。Kラインデータ。ミナセキャピタル。真和興業。
線は、さらに黒くなった。
だが、線が多いほど危険も増える。
山崎は、神崎弁護士へ連絡した。
神崎は資料を見て、すぐに表情を引き締めた。
「これは慎重に扱うべきです」
「反社関係の可能性があります」
「可能性、です。断定は避ける。ただ、契約を拒む理由としては十分な懸念があります。警察や暴追関係の相談窓口にも、必要な形で相談したほうがいい」
「柏木さんへの脅しもあります」
「証拠保全してください。メール、封筒、写真、契約書、修正交渉の履歴、全部です」
山崎は頷いた。
「契約書の一文から、ここまで来ました」
神崎は低く言った。
「反社条項は、形式だけならただの飾りです。でも本気で使うと、嫌がる相手が必ずいます」
「嫌がる相手がいるから、必要なんですね」
「ええ」
神崎は資料を閉じた。
「ただし、相手は眠っていません」
柏木倉庫は、清澄アセットとの契約を正式に断った。
断りの文面は、山崎が作成を支援した。
実質的支配者、再委託先、支払先、関連会社、業務実施主体について合理的な説明が得られないため、当社コンプライアンス方針上、契約締結を見送る。
感情を入れない。
疑惑を断定しない。
だが、曖昧にしない。
送信から一時間後、東条から柏木に電話が入った。
柏木はスピーカーにし、山崎と神崎が同席した。
東条の声は、以前ほど柔らかくなかった。
「柏木専務、残念です」
「申し訳ありません」
「本当に分かっていますか? この案件を断る意味を」
柏木の喉が鳴った。
「当社として判断しました」
「当社、ですか。倉庫の稼働率、来月の返済、社員の賞与。先生方は払ってくれませんよ」
柏木の顔が白くなった。
東条は続けた。
「世の中は、きれいな会社だけで回っているわけではありません。物流も、古物も、産廃も、データも、誰かが汚れた部分を引き受けている。あなた方は、そのおかげで生きているんです」
山崎は黙って聞いていた。
東条の声が、低くなった。
「反社条項? 笑わせないでください。どこの契約書にも入っている。誰も読まない。誰も守らない。みんな分かっていて判子を押している」
柏木は震えながら言った。
「それでも、うちは契約しません」
沈黙。
電話の向こうで、東条が小さく息を吐いた。
「なら、倉庫の空気が少し悪くなるかもしれませんね」
神崎が口を開いた。
「東条さん、今の発言は記録しています」
また沈黙。
東条は、今度は笑った。
「弁護士先生もご同席でしたか。失礼しました」
電話は切れた。
柏木は、椅子にもたれたまま目を閉じた。
「怖いですね」
「ええ」
山崎は正直に答えた。
怖くないわけがない。
反社会的勢力という言葉は、契約書では黒い文字にすぎない。
だが現実では、電話の沈黙にいる。匿名メールにいる。資金繰り表の流出にいる。主要取引先への圧力にいる。街角の黒い車にいる。人の弱みに手をかける声にいる。
その後、柏木倉庫には嫌がらせが続いた。
無言電話。取引先への怪文書。倉庫前への迷惑駐車。求人サイトへの悪評投稿。従業員の家族に届いた不審な封筒。
大きな暴力ではない。
一つひとつは、事件として扱いにくい。
だが、毎日少しずつ神経を削る。
暴力は、必ずしも殴る必要がない。
生活の周囲に黒い染みをつければ、人は眠れなくなる。
柏木は何度も折れかけた。
「契約し直せば、止まるんでしょうか」
そう言ったこともある。
山崎は答えなかった。
止まるかもしれない。
だが、契約すれば別の鎖が始まる。
支払先を指定される。再委託先を隠される。倉庫が端末の置き場になる。盗品かもしれない物が入る。データの抜かれた機器が動く。請求書が回る。金が白くなる。そして、ある日摘発されれば、柏木倉庫の名前だけが新聞に載る。
末端は、いつも名前が残る。
影は、次の会社へ逃げる。
警察と関係機関への相談は進んだ。
山崎は、断定できることとできないことを分けて資料にした。
契約書の問題点。実質的支配者情報の未開示。再委託先の非開示。支払先口座の不透明性。関連法人の住所・役員履歴の重複。古物商関連取引との接点。クラウド請求代行会社との不自然な関係。柏木倉庫への脅迫的連絡。社内資料流出。匿名写真。
みおは、相関図の線を色分けした。
「これ、見た人が一目で分かるようにしないと」
ちぎりは、古物とデータの流れを別紙に整理した。
「端末の物流、データ消去証明、クラウド管理、請求の流れを分けます。金の流れは、神崎先生のほうで」
山崎は資料を見ながら思った。
契約書の一文が、街の裏側で動く金の流れを照らし出している。
反社条項。
眠っているように見えた条文が、実質的支配者という言葉を通じて、住所を照らし、法人履歴を照らし、古物商の台帳を照らし、クラウド請求の名義を照らし、黒い車のドアの隙間まで照らしていく。
条文は、道具だ。
眠らせれば飾りになる。使えば刃になる。そして刃を向けられた相手は、必ず怒る。
数週間後、清澄アセットは柏木倉庫への接触をやめた。
突然だった。
無言電話も止まった。
悪評投稿も止まった。
それは救いのようで、逆に不気味だった。
神崎は言った。
「別の取引先を見つけたのかもしれません」
山崎は頷いた。
闇は、一つの入口が塞がれば、別の入口を探す。
資金繰りに苦しむ会社。後継者難の倉庫。古物商許可を持つ店。クラウドに疎い経営者。銀行に追われる中小企業。従業員の雇用を守りたい真面目な社長。
そういう場所を、闇は嗅ぎ分ける。
清澄アセットのウェブサイトは、その後しばらくして消えた。
だが、よく似たデザインの新しい会社が現れた。
株式会社セイランビジネスリンク。
代表者は別人。
住所も別。
だが、事業内容は似ていた。
企業資産の再活用。情報機器の適正処分。クラウド型資産管理。地域企業の新規事業支援。
山崎は、そのサイトを見て、深く息を吐いた。
水は、名前を変えて流れる。
黒い水ほど、澄んだ名前を好む。
柏木倉庫は、清澄案件を失ったことで厳しい状況になった。
銀行との交渉は続いた。
一部倉庫を縮小し、従業員の配置転換も行った。
賞与は減った。
柏木は、社員に頭を下げた。
「危ない取引を断った」とは言わなかった。
言えば、余計な不安と噂が広がる。
ただ、新規事業計画を見直すと説明した。
従業員の中には不満を言う者もいた。
「五千万円の案件を逃したらしい」「専務が慎重すぎる」「外の先生に言われてビビったんだろう」
柏木は、それを聞いても反論しなかった。
正しい判断が、社内で称賛されるとは限らない。
むしろ、目の前の金を失った判断は、恨まれる。
闇と契約しなかった会社は、闇から救われる代わりに、現実の貧しさと向き合う。
それもまた、冷酷な社会の一部だった。
数か月後、柏木が山崎事務所に来た。
顔はやつれていたが、目は前より濁っていなかった。
「倉庫の一部を、地元の医療機器メーカーに貸す話が出ました。大きくはないですが、まともな相手です」
「よかったです」
「よかったかどうかは、まだ分かりません」
柏木は苦笑した。
「でも、夜眠れるようになりました」
それは、五千万円より小さな言葉だった。
だが、山崎には重く聞こえた。
柏木は、契約書のコピーを一部置いていった。
清澄アセットとの、締結されなかった契約書。
「先生、これ、残しておいてください」
「よろしいんですか」
「はい。また似たような話が来たときに、思い出せるように」
山崎は受け取った。
反社条項のページには、赤い付箋が貼られていた。
柏木の字で、こう書かれている。
ここで止まった。
山崎はその文字を見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。
止まること。
それは時に、進むことより難しい。
世の中は、決断を急がせる。
今だけ。今月中。初回案件。銀行対策。雇用維持。成長機会。
だが、本当に危ない契約の前では、止まる勇気がいる。
その勇気は、派手ではない。
新聞にも載らない。
誰にも褒められない。
むしろ、臆病だと言われる。
それでも、止まった場所にだけ、守れるものがある。
山崎はファイルを作った。
表紙には、こう書いた。
清澄アセットコンサルティング契約書確認資料。
その下に、小さく題名を書き足した。
反社条項は眠らない。
みおがそれを見て言った。
「今回、条項が本当に起きましたね」
ちぎりは、相関図をしまいながら答えた。
「起きたから、相手も起きました」
山崎はファイルを閉じた。
「眠らせておくほうが、楽なんです」
外では、草薙の街に夜が降りていた。
商店街の明かりがつき、駅前の居酒屋から笑い声が漏れ、タクシーが客を乗せて走っていく。
表の街は、いつも生活の顔をしている。
だが、その下で金は流れる。
古物の売買。端末の回収。データ消去。クラウド請求。紹介料。物流費。監修料。再委託費。
きれいな名目で、黒い金が少しずつ色を変える。
その流れに乗るのは、悪人ばかりではない。
資金繰りに追われた経営者。給料を守りたい専務。仕事を失いたくない従業員。数字しか見ない銀行。審査書類を整えるコンサル。何も知らずに判を押す担当者。
社会の闇は、特別な地下室にあるわけではない。
昼間の会議室にある。清潔な名刺にある。丁寧なメールにある。契約書の空欄にある。「別途指定する口座」にある。「合理的に知り得る範囲」にある。「相互信頼に基づき」にある。
山崎は窓の外を見た。
反社条項は、眠らない。
眠っているように見えるのは、人間のほうだ。
読まない。疑わない。確認しない。急がされる。金額に目がくらむ。弱みを握られる。そして、判を押す。
その瞬間、契約書の後ろのほうで、眠らない条項が静かに目を開ける。
遅い。
そう言っているように。
山崎は机の上のペンを置いた。
次の相談予約票には、こう書かれていた。
「新規業務提携契約。相手方から急ぎと言われている」
山崎は、反社条項のファイルをキャビネットに戻した。
金属の扉が閉まる音がした。
冷たい音だった。
だが、その奥で、紙は眠っていない。
街の裏側で、また別の金が流れる音を、じっと聞いている。





コメント