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呉服町のショーウィンドウと、半歩の勇気

 幹夫青年が呉服町のアーケードへ出て来たのは、何か買ふべき用があつたからではない。むしろ「買ふ」といふ行為そのものが、近頃の彼には少し重たく感じられたのである。財布の重さといふより、買つた後に自分が変つてしまふのではないか、といふ、要らぬ想像の重さである。 青年の想像といふものは、どこか無駄に律義で、無駄に先回りをする。

 夕方の呉服町は、空の色を見せぬ代りに、灯の色をくれる。天井の高い白い光が、往来の顔を一様に照らし、靴音をやはらげ、声の角をとる。外の冷えが入口から忍び込み、しかし店先の暖かさがすぐ追ひ返す。さうして人の波だけが、ほどよく湯気を立てて流れてゆく。

 幹夫は、その波の端を歩いた。急ぐでもなく、さりとて立ち止まるでもなく、ただ、自分の足の置き場を確かめるやうに歩く。彼にはこの「確かめる」癖があつた。確かめたところで、世の中は大して変らぬのに、確かめぬと落ち着かぬ。年を取る前に年寄りじみた心配がつくのは、たいてい善良の証ではなく臆病の証である。

 ショーウィンドウが並んでゐた。 ネクタイ、革靴、腕時計、紳士帽。どれも光を吸つて、きちんと「立派さ」の顔をしてゐる。ガラスの向うのマネキンは、いつ見ても胸を張り、腹のあたりが見事に平らで、世の中の面倒を知らぬ風を装つてゐる。幹夫はさういふ「装ひ」の巧さに、腹が立つほど憧れた。

 彼は一つの店の前で足を止めた。 薄い灰色の帽子が一つ、灯の下に置かれてゐる。値札は小さく、さりげなく、しかも容赦なく現実的であつた。幹夫は帽子を被つた自分の姿を、ガラスに映る影で想像した。少し大人に見える。少し用がありさうに見える。少し、――ここが肝腎だが――自分でも自分を信用してやれさうに見える。

 ところが、その想像が浮んだ瞬間、彼はすぐに次の想像へ走つた。 買つても被らぬ。被らずに箪笥の隅に置く。置いて、たまに眺めて「いつか被る」と言ふ。いつかは来ない。いつかが来ぬことを知りながら、帽子のせゐにして、また一つ自分を嫌ふ。――青年はこの手の筋書きを、何度も見覚えがあつた。

 さうして幹夫は、店へ入る勇気を、ほんの一寸だけ失つた。 失つた勇気を取り返すために、彼はまた歩き出した。歩き出すと、ガラスに映る自分の横顔がついて来る。横顔はどこか落ち着きがなく、歩くことで「何者か」であるふりをしてゐるやうに見えた。

 アーケードの横筋へ折れるところで、ふと香が変つた。 焙じ茶の匂ひである。甘く焦げた匂ひが、街の白い光の下に、茶色い影をひとすぢ落としてゐる。幹夫はその匂ひに引かれて、細い入口の暖簾をくぐつた。

 小さな茶の店だつた。 派手な看板もなく、棚に茶缶が並び、紙袋が積まれ、店の奥から湯の音が微かにする。そこにゐた女主人は年の頃五十か六十か、顔の輪郭は柔らかく、目だけが忙しく働いてゐた。客の顔を見て、財布の中身を読むやうな目ではない。もっと単純に、今日は茶が旨く入るかどうかを見てゐる目である。

「いらつしやい。……あら、幹夫さん」

 幹夫は驚いた。 「幹夫さん」と呼ばれるほど、この店に馴染みがあつた記憶はない。ただ、以前に一度、母に頼まれて茶を買ひに来たことがある。そのとき女主人が「若いのに、えらいね」と笑つたのを、彼は思ひ出した。えらいね、と言はれるのが恥づかしくて、二度目が遠のいてゐたのだ。

 幹夫は口を開きかけて、いつものやうに「たまたま」だとか「近くまで」だとか、逃げ道になる言葉を探した。ところが、女主人の先の呼びかけが、あまりに自然で、あまりに商売気がなく、彼の逃げ道をふと塞いでしまつた。

「……こんにちは」

 幹夫が言つた声は、思つたよりも明るかつた。 自分でも意外である。挨拶といふものは、金も要らず、返品も利かず、しかし手元にちゃんと残る。幹夫は、その当たり前に、今さら気づいたやうで可笑しかつた。

「こんにちは。今日は、何にする?」

 女主人は、湯呑を二つ用意しながら言つた。 幹夫は「何にする」と問はれて、胸の奥が軽くなつた。買ふか買はぬか、といふ大事の話ではない。茶の話である。茶の話なら、失敗しても笑へる。笑へるくらゐの失敗なら、人生にも役に立つ。

「……この前、ここで飲ませてもらつたのが、香が良かつたです」

 幹夫は、やや照れながら言つた。 照れるのは、褒めたからではない。自分が「好き」を口にしたからである。好き、と言へる人間は、案外強い。幹夫は強くないが、今日は半歩ぐらゐなら踏み出せさうな気がした。

「それなら、焙じ茶がいいよ。疲れてるときは、緑より火の方が効く」

 女主人はさう言つて、茶を注いだ。 湯気が立ち、香がひらく。 幹夫は湯呑を両手で包んだ。温かさが掌から腕へ上がつて、胸の石の角をなでるやうに感じられた。

「呉服町はねえ、見て歩くだけでも十分だよ」

 女主人が、茶缶の蓋を拭きながら言つた。

「買はなきやいけない、みたいな顔して歩くと疲れる。買はない日があつてもいいし、入らない日があつてもいい。――でもね、挨拶だけはしとくと、帰り道が軽いよ」

 幹夫は、思はず笑つた。 挨拶だけは――。それは、帽子よりも安く、ネクタイよりも似合ふ、彼にとつての一番小さな「装ひ」かもしれなかつた。

「……さつき、帽子を見てたんです。買ふつもりで」

「帽子? いいぢやない。買ふのが怖いなら、買はなくてもいい。怖いのは悪いことぢやないよ。怖いなら、半歩だけ。半歩だけで、今日は十分」

 女主人は笑つた。笑ひは押しつけがましくなく、焙じ茶の香のやうに軽かつた。

 幹夫は結局、焙じ茶を小さな袋で一つ買つた。 大きな買ひ物ではない。胸を張るほどのことでもない。だが、財布から金を出して、紙袋を受け取るまでの一連が、今日は妙にすつきりしてゐた。彼は「買つた」ことより、「入つた」ことが嬉しかつた。店へ入つた。挨拶をした。茶を飲んだ。それだけで、呉服町の灯が少し優しく見えた。

 店を出ると、アーケードの白い光が、さつきより高く感じられた。 人の波も相変らずだが、幹夫の肩は、ほんの一寸だけ上がつてゐた。いや、上がつたといふより、下がつてゐたものが戻つたと言ふ方が正しい。人は本来、背筋を伸ばして歩けるやうにできてゐるのに、心配が先に肩へ乗つてしまふのだ。

 例の帽子の店の前を、幹夫はまた通つた。 灰色の帽子は、まだそこにあつた。 幹夫は立ち止まり、ガラス越しに一度だけ帽子を見て、それから、帽子ではなく店の中へ小さく会釈をした。店員がこちらを見てゐるかどうかは知らぬ。知らぬが、会釈は会釈である。挨拶は相手のためだけでなく、自分の背中のためにもするのだと、さつき覚えたばかりである。

 彼は歩き出した。 紙袋の中で、焙じ茶がさらりと鳴つた。 その音は、何かが始まるほど大げさではないが、終りでもない。ちやうど半歩ぶんの音である。

 幹夫青年は、呉服町の夕暮の中で、半歩だけ前へ出た。 その半歩が、明日もう半歩を呼ぶかどうかは、まだ知らぬ。 けれども今夜のところは、それで十分に明るかつた。

 
 
 

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