声を届ける先へ
- 山崎行政書士事務所
- 2025年1月28日
- 読了時間: 5分
出張先の地方都市は、梅雨明けを迎えたばかりだというのに、湿気を帯びた生暖かい風が、街を覆っている。私は番組の特集企画で、「カスタマーハラスメント」(カスハラ)対策に取り組む地元企業を取材するため、久々に新幹線に乗ってこの地を訪れた。
社名は〈坂田商事〉。創業50年を超える老舗の総合小売業だが、ここ数年はネット通販にも参入して急拡大している。その一方で、コールセンターや店舗でのクレーム対応が膨大になり、従業員の心身に深刻な負担が生じている――そんな話を事前に聞いていた。
取材場所は坂田商事本社の、ガラス張りの応接室。私が通されると、すでにプロジェクトリーダーの立花奈緒(たちばな なお)さんが待っていた。小柄で優しげな笑顔の女性だが、資料の束をきっちりまとめたその姿に、仕事への高い意識がうかがえる。
「実は昨年度の新人が、カスハラ対応に苦しみ、入社1年で辞めてしまったんです」 立花さんは、口火を切るようにそう告げた。資料を広げながら、その目には悔しさが宿っている。「お客様を大切にするのは当然です。でも『不当な要求』や『人格を否定する言葉』にまで無条件で対応する必要はない。そこを明確にしなかったことで、若手やバイトスタッフの消耗が激しくなっていると痛感しました」
会社は今年、「カスタマーハラスメント対策プロジェクト」を立ち上げ、具体的なマニュアルを作成。対応マニュアルには「不当な要求の定義」「エスカレーション手順」「専門機関(警察・弁護士)との連携」など、かなり踏み込んだ記述が並ぶ。私はその資料をめくりながら、率直に疑問をぶつけた。
「ここまで踏み込むと、お客さんが“冷たい会社だ”と感じたり、利用を控えたりするリスクはないんでしょうか?」
立花さんは、わずかに頬を緊張させてから、まっすぐ言葉を返す。「そこがいちばん大きな懸念でした。ですが、私たちは“今守るべきは従業員の尊厳だ”という結論に至ったんです。理不尽な暴言や威圧に耐え続け、心を病む人が出るようでは、会社としても健全とは言えない。顧客との良好な関係を大切にしつつ、同時に働く人たちが安心して業務に臨める環境を作らないと、事業の未来はないと社長が判断しました」
その言葉には強い意志がこもっている。企業のトップから“従業員を守る”というメッセージが出ることの重み――それは業務現場で直接お客と向き合う社員にとって、心強い“後ろ盾”になるだろう。
応接室を出た後、立花さんに案内されてコールセンターのフロアへ向かう。奥でカタカタとキーボードを打ちながら電話応対しているのは、入社2年目の菊地晴菜(きくち はるな)さん。小さなヘッドセットが印象的だ。
「正直、マニュアルが導入されるまでは、理不尽な電話でも『いろいろ我慢してなんぼ』という気持ちがありました。新人ほど余計に我慢して、“怒られてるのは自分の力量不足だ”って受け止めがちで……。でも今は“ここから先は毅然とNOを言う”という基準ができたので、必要以上に恐れることが減りました」
彼女はそう言いながら、まだ少しだけ緊張を含んだ笑みを浮かべる。マニュアルを実際に使いこなすには勇気が要るだろう。けれど、菊地さんは「まだ完全に慣れたわけじゃないけど」と前置きしつつ、「上司や法務部、そして警察まで味方にできる。そう思ったら肩の力が抜けたんです」と言葉を続けた。
私が「それでも『クレーム対応のプロ』として教育されてきたのでは?」と尋ねると、彼女は頷く。確かに、従業員やバイトは、まず謝罪と敬意を示すよう指導されてきた。ところが、クレームの延長が“相手の一方的な暴言”や“夜通しの電話攻撃”に変わったら――これはもう、通常のサービス対応を超えている。
「そういう場合、エスカレーションするのは当たり前。無理して受け続けないで“上司が折衝します”と言えってマニュアルに書かれている。少しホッとします」
彼女が安心感を得た理由はそこにあるのだろう。ずっと自分の責任だと思っていた暴力的な言葉に、初めて“NO”と言えるようになったのだから。
立花さんは「ここからが本番です」と、コールセンターを見渡しながら語る。「実は、厳しい言い方ですが、“マニュアルを読んだだけ”ではダメで、実際の運用が一番難しいんです。さまざまなケースを想定したロールプレイ研修や、メンタルケアの仕組みづくり。都度更新される法改正への対応……やるべきことは山積み。けれど、もう後戻りはできませんから」
それでも、彼女の声には揺るぎない決意がにじんでいた。会社として「社員を守る」と腹を据えたのなら、それに伴う面倒事も、受け止める覚悟があるということだろう。
いったん取材を終え、日が暮れかけたころ、私はビルを出て駅へ向かった。夏の空はまだ薄青く、湿り気を帯びた夜風が頬を撫でる。頭の中にはコールセンターで見た光景が残っていた。みんな忙しそうにキーボードを叩きながら、それでもどこか柔らかい空気が流れていたのは、きっと会社の“後ろ盾”を感じているからだろう。
「クレーム対応」とはいえ、すべてを社員個人の責任にしていては、いつか破綻する。企業にとって「従業員の安全と健康を最優先にする」という行動指針は、単なるお題目ではなく、ビジネスの存亡をかけた現実的な戦略にもなり得る――私は今回の取材で、その意味を改めてかみしめた。
これからもカスハラという問題は、根深い構造を持ち続けるかもしれない。だが、「苦しいときは声をあげられる体制」を作り、社員を守るための具体的手段を整備する企業が増えていけば、日本の働き方は確実に変わっていくだろう。取材という立場でありながら、いつしか私は、コールセンターの若いスタッフたちに「頑張って」とエールを送りたい気持ちになっていた。
私が乗り込んだ帰りの新幹線が、闇に包まれた街を後方に置き去りにしていく。窓の外にはライトの滲む郊外の景色が遠ざかる。きっと、あの街には――いや全国各地で――今日も黙ってクレームを一手に背負う人たちがいるはずだ。カスハラという言葉すら知らずに、苦しんでいる人もまだいるかもしれない。
だが、坂田商事の試みが示すように、企業が声をあげれば状況は変わる。いや、変えられる。私たちの番組がどれほど影響力を発揮できるかはわからないが、少なくとも今夜放送される特集で、彼らの取り組みをしっかり伝えようと思う。 「声をあげていいんだよ」と、遠くの人たちにも届くように――そう願いつつ、私はノートパソコンを開き、原稿づくりに向かった。





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