大谷崩れの石の学校
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 7分

幹夫青年は、静岡の町の朝の音がまだ薄いころ、安倍川の上流へ向かふバスに乗りました。
バスの腹の底が「ぶるる、ぶるる」と鳴り、窓の外では川が銀いろの帯になつて、
「しゅ、しゅ、しゅ」
と、たえず息をついてゐました。杉の林は黒く、ところどころの茶畑は、まだ眠つた緑で、山の影は青い硝子みたいに冷たく見えました。
幹夫の胸の底には、いつもの湿つた石がありました。
重いのに、どこへも転がらない石です。
重いのに、役に立たない石です。
――ぼくの心の石は、いつからここにあるんだらう。
バスは、川の曲がりに沿つて、ずつとずつと奥へ入つて行きました。道の脇のガードレールに、水滴がびつしり並んでゐて、朝の光が当たると、
「きらり、きらり」
と、小さな星みたいに光りました。
幹夫青年はその星を見て、なぜだか胸の石が「ころり」と一度だけ動くのを感じました。
やがて、山のひだが急に切れ、谷が大きくひらけました。
そこに現れたのが、大谷崩れでした。
白い。
白いといふより、白さの中に灰いろや黄いろが混じり、しかもその白さが、山肌をむき出しにしてゐるのです。草も木もほとんど生えず、ただ、石と砂と、削られた時間だけが、ざらざらと斜面に積もつてゐます。
風が吹くと、斜面のどこかで、
「さらさら、さらさら……」
と、石くづが流れました。
その音は、紙を破る音にも似て、また、長い長い計算の末に、答がさらりと落ちる音にも似てゐました。
幹夫青年は、道の脇の小さな広場で降り、そこから斜面の下まで歩いて行きました。
川はすぐ近くで、冷たい声を出してゐます。
崩れの斜面は、その川へ向かつて、いつでも石を落とす準備をしてゐるやうでした。
幹夫青年が立ち尽くしてゐると、足もとの石が一つ、かすかに動きました。
「こつ」
まるい石が、ほんの少し回転して、別の面を見せたのです。
その面には、薄い筋が走り、筋はまるで文字のやうにも見えました。
幹夫青年は石を拾ひ上げました。
冷たい。
硬い。
けれども掌にのせると、石はどこか、聞く耳を持つてゐるやうでした。
そのとき、斜面の奥の方から、低い声がしました。
声といふより、石が石へ伝はる振動が、幹夫の骨へ直接届いたのです。
――ミキオ青年。
――コチラ。
――石ノ学校。
――授業(じゆぎよう)ハ、今。
幹夫青年は、息をのみました。
白い斜面の真ん中に、黒い岩肌が一枚、垂直に立つてゐるところがありました。そこだけ崩れ残つた岩盤で、まるで巨大な黒板のやうに見えます。
幹夫青年は、石くづの上をそろそろ歩いて、その黒い岩肌の前まで行きました。
近づくと、岩肌には細い筋や層があり、ところどころに白い線が走り、砂粒が固まつたやうな模様も見えました。
黒板の前には、石たちが集まつてゐました。
大きい石、小さい石、角ばつた石、まるい石。
みんな黙つてゐるのに、黙つてゐるはずなのに、そこにはたしかに「教室のしん」といふ気配がありました。
――ガンバン一組。
――レキガン二組。
――スナレキ三組。
斜面の「さらさら」が、そんなふうに整列の声に聞こえました。
先生は、黒板の根元にある、ひときは暗い大きな岩でした。
その岩の表面は硬く、しかしところどころ、白い粉がついてゐます。白い粉は石灰のやうでもあり、氷の粉のやうでもありました。
先生は言ひました。
――石ハ、記録。
――水ハ、削ル。
――風ハ、運ブ。
――崩レハ、書キ直シ。
――ダガ、書キ直シニモ、文法(ぶんぽう)アリ。
先生の言葉のたびに、斜面の上で、
「ぱら……ぱら……」
と、小さな落石が起きました。
それは乱暴な事故ではなく、授業の中で、チョークが落ちる音みたいに聞こえました。
先生は、岩肌の黒板へ、白い筋で字を書きはじめました。
字はチョークではなく、黒板の表面にある白い鉱物の筋が、すうつと揃つて、文字の形になつたのです。
「時 間」
幹夫青年は、その二字を見た瞬間、胸の底の石が、ずん、と重くなりました。
時間――。
いつも口にするのに、つかめないもの。
つかめないのに、必ず進むもの。
先生は続けて、黒板へ、さらに細い線を引きました。
線は層のやうに重なり、ところどころで曲がり、断ち切られ、また繋がりました。
――コレ、地層(ちそう)。
――海ノ底ノ砂。
――山ノ火ノ灰。
――川ノ石ノ粉。
――積モル。
――固マル。
――押サレル。
――曲ガル。
――割レル。
――また、積モル。
石たちは静かに聞いてゐます。
聞くといふより、長い沈黙の姿勢のまま、時間の授業を受けてゐるのです。
幹夫青年は、黒板の「時間」の字を見つめました。
その白い線は、ただの筋ではありませんでした。
そこには、押されて曲がつた跡があり、割れてずれた跡があり、削られて消えかけた部分もありました。
文字そのものが、すでに「出来事」でした。
幹夫青年は、胸の奥がきゅうとしました。
胸の底の石が、湿つたまま、ぐいと喉の方へ持ち上がるやうに感じました。
――時間は、こんなふうに傷だらけなのに、まだ読める。
――ぼくの胸の石は、傷だらけになるのが怖くて、動かないのかもしれない。
幹夫青年は、その考へに触れた瞬間、眼のふちが熱くなりました。
涙が出ました。
ぽろり、と落ちた涙が、足もとの石に当たつて、
「ちん」
と、ちいさな音を立てました。
その音は、授業中の小さなベルみたいでした。
先生が言ひました。
――ミキオ青年。
――泣クノハ、悪イコトデハナイ。
――水モ泣ク。
――雨モ泣ク。
――ダガ、泣イタ水ハ、道ヲ作ル。
――道ハ、誰カノ石ヲ運ブ。
幹夫青年は、涙をぬぐひませんでした。
ぬぐふと、泣いたことが無かつたやうになつてしまひます。
無かつたやうにすることが、いちばん胸の石を重くするのです。
すると、黒板の端の方で、ちいさな石が一つ、よろりと転がりました。
転がつた先に、細い草が一本、石くづの隙間から顔を出してゐるのが見えました。
草は、崩れの白い斜面の中で、信じられないほど細く、しかし確かに緑でした。
草の根元に、水がほんの少し溜まつてゐます。
けれども水は、石くづの流れで、すぐ埋まつてしまひさうです。
先生が言ひました。
――宿題。
――石、三ツ。
――ココへ置ケ。
――水ノ小サナ溜マリ、守レ。
――草ハ、次ノ時間ヲ引ク。
幹夫青年は、うなづきました。
足もとから、ほどよい大きさの石を三つ拾ひました。
石は冷たく、ざらざらして、掌に土の匂ひがつきました。
幹夫青年は草の根元へ行き、石を三角に組むやうに置きました。
石が石に当たつて、
「こつ、こつ」
と鳴りました。
小さな囲ひができると、水たまりは少しだけ安定して、草の根元が、ふうつと落ち着いたやうに見えました。
そのとき風が吹き、斜面の「さらさら」が、一瞬、遠のきました。
かわりに川の息がはつきり聞こえました。
「しゅ、しゅ、しゅ」
水はいつでも泣いてゐる。
泣きながら、道を作つてゐる。
その道は、どこかの海へ、どこかの空へ、結局つながつてゐる。
幹夫青年は、黒板の「時間」をもう一度見ました。
涙で少し滲んだ視界の向うで、白い字は、さつきよりも確かに立つてゐました。
――時間は、こはれる。
――でも、こはれながら、読める。
――読めるなら、ぼくも、少しは動ける。
幹夫青年は、崩れの斜面に一礼しました。
石たちは何も言ひません。
けれども石くづが、
「こつ」
と一度だけ鳴つて、さうして授業が終つたやうに思へました。
帰り道、幹夫青年は川沿いの道を下りました。
杉の影が長くのび、空が少しずつ暮れて、町の方の灯が遠くで点々と見えはじめます。
胸の底の石は、まだあります。
けれどもそれは、さつきまでの「役に立たない石」ではなく、草の根元に置いた三つの石と同じ種類の重さになつてゐました。
重いけれど、置き方がある重さ。
重いけれど、守れる重さ。
幹夫青年は小さく言ひました。
「……あしたも、近いところで、石をひとつ置いてみよう」
安倍川の水が、
「しゅ、しゅ」
と答へました。
それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいのでした。
時間は遠くから来る。
けれども時間は、いつも、足もとの石くづの上で、書かれたり消されたりしてゐるのです。





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