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大谷崩れの石の学校

 幹夫青年は、静岡の町の朝の音がまだ薄いころ、安倍川の上流へ向かふバスに乗りました。

 バスの腹の底が「ぶるる、ぶるる」と鳴り、窓の外では川が銀いろの帯になつて、

 「しゅ、しゅ、しゅ」

 と、たえず息をついてゐました。杉の林は黒く、ところどころの茶畑は、まだ眠つた緑で、山の影は青い硝子みたいに冷たく見えました。

 幹夫の胸の底には、いつもの湿つた石がありました。

 重いのに、どこへも転がらない石です。

 重いのに、役に立たない石です。

 ――ぼくの心の石は、いつからここにあるんだらう。

 バスは、川の曲がりに沿つて、ずつとずつと奥へ入つて行きました。道の脇のガードレールに、水滴がびつしり並んでゐて、朝の光が当たると、

 「きらり、きらり」

 と、小さな星みたいに光りました。

 幹夫青年はその星を見て、なぜだか胸の石が「ころり」と一度だけ動くのを感じました。

 やがて、山のひだが急に切れ、谷が大きくひらけました。

 そこに現れたのが、大谷崩れでした。

 白い。

 白いといふより、白さの中に灰いろや黄いろが混じり、しかもその白さが、山肌をむき出しにしてゐるのです。草も木もほとんど生えず、ただ、石と砂と、削られた時間だけが、ざらざらと斜面に積もつてゐます。

 風が吹くと、斜面のどこかで、

 「さらさら、さらさら……」

 と、石くづが流れました。

 その音は、紙を破る音にも似て、また、長い長い計算の末に、答がさらりと落ちる音にも似てゐました。

 幹夫青年は、道の脇の小さな広場で降り、そこから斜面の下まで歩いて行きました。

 川はすぐ近くで、冷たい声を出してゐます。

 崩れの斜面は、その川へ向かつて、いつでも石を落とす準備をしてゐるやうでした。

 幹夫青年が立ち尽くしてゐると、足もとの石が一つ、かすかに動きました。

 「こつ」

 まるい石が、ほんの少し回転して、別の面を見せたのです。

 その面には、薄い筋が走り、筋はまるで文字のやうにも見えました。

 幹夫青年は石を拾ひ上げました。

 冷たい。

 硬い。

 けれども掌にのせると、石はどこか、聞く耳を持つてゐるやうでした。

 そのとき、斜面の奥の方から、低い声がしました。

 声といふより、石が石へ伝はる振動が、幹夫の骨へ直接届いたのです。

 ――ミキオ青年。

 ――コチラ。

 ――石ノ学校。

 ――授業(じゆぎよう)ハ、今。

 幹夫青年は、息をのみました。

 白い斜面の真ん中に、黒い岩肌が一枚、垂直に立つてゐるところがありました。そこだけ崩れ残つた岩盤で、まるで巨大な黒板のやうに見えます。

 幹夫青年は、石くづの上をそろそろ歩いて、その黒い岩肌の前まで行きました。

 近づくと、岩肌には細い筋や層があり、ところどころに白い線が走り、砂粒が固まつたやうな模様も見えました。

 黒板の前には、石たちが集まつてゐました。

 大きい石、小さい石、角ばつた石、まるい石。

 みんな黙つてゐるのに、黙つてゐるはずなのに、そこにはたしかに「教室のしん」といふ気配がありました。

 ――ガンバン一組。

 ――レキガン二組。

 ――スナレキ三組。

 斜面の「さらさら」が、そんなふうに整列の声に聞こえました。

 先生は、黒板の根元にある、ひときは暗い大きな岩でした。

 その岩の表面は硬く、しかしところどころ、白い粉がついてゐます。白い粉は石灰のやうでもあり、氷の粉のやうでもありました。

 先生は言ひました。

 ――石ハ、記録。

 ――水ハ、削ル。

 ――風ハ、運ブ。

 ――崩レハ、書キ直シ。

 ――ダガ、書キ直シニモ、文法(ぶんぽう)アリ。

 先生の言葉のたびに、斜面の上で、

 「ぱら……ぱら……」

 と、小さな落石が起きました。

 それは乱暴な事故ではなく、授業の中で、チョークが落ちる音みたいに聞こえました。

 先生は、岩肌の黒板へ、白い筋で字を書きはじめました。

 字はチョークではなく、黒板の表面にある白い鉱物の筋が、すうつと揃つて、文字の形になつたのです。

 「時 間」

 幹夫青年は、その二字を見た瞬間、胸の底の石が、ずん、と重くなりました。

 時間――。

 いつも口にするのに、つかめないもの。

 つかめないのに、必ず進むもの。

 先生は続けて、黒板へ、さらに細い線を引きました。

 線は層のやうに重なり、ところどころで曲がり、断ち切られ、また繋がりました。

 ――コレ、地層(ちそう)。

 ――海ノ底ノ砂。

 ――山ノ火ノ灰。

 ――川ノ石ノ粉。

 ――積モル。

 ――固マル。

 ――押サレル。

 ――曲ガル。

 ――割レル。

 ――また、積モル。

 石たちは静かに聞いてゐます。

 聞くといふより、長い沈黙の姿勢のまま、時間の授業を受けてゐるのです。

 幹夫青年は、黒板の「時間」の字を見つめました。

 その白い線は、ただの筋ではありませんでした。

 そこには、押されて曲がつた跡があり、割れてずれた跡があり、削られて消えかけた部分もありました。

 文字そのものが、すでに「出来事」でした。

 幹夫青年は、胸の奥がきゅうとしました。

 胸の底の石が、湿つたまま、ぐいと喉の方へ持ち上がるやうに感じました。

 ――時間は、こんなふうに傷だらけなのに、まだ読める。

 ――ぼくの胸の石は、傷だらけになるのが怖くて、動かないのかもしれない。

 幹夫青年は、その考へに触れた瞬間、眼のふちが熱くなりました。

 涙が出ました。

 ぽろり、と落ちた涙が、足もとの石に当たつて、

 「ちん」

 と、ちいさな音を立てました。

 その音は、授業中の小さなベルみたいでした。

 先生が言ひました。

 ――ミキオ青年。

 ――泣クノハ、悪イコトデハナイ。

 ――水モ泣ク。

 ――雨モ泣ク。

 ――ダガ、泣イタ水ハ、道ヲ作ル。

 ――道ハ、誰カノ石ヲ運ブ。

 幹夫青年は、涙をぬぐひませんでした。

 ぬぐふと、泣いたことが無かつたやうになつてしまひます。

 無かつたやうにすることが、いちばん胸の石を重くするのです。

 すると、黒板の端の方で、ちいさな石が一つ、よろりと転がりました。

 転がつた先に、細い草が一本、石くづの隙間から顔を出してゐるのが見えました。

 草は、崩れの白い斜面の中で、信じられないほど細く、しかし確かに緑でした。

 草の根元に、水がほんの少し溜まつてゐます。

 けれども水は、石くづの流れで、すぐ埋まつてしまひさうです。

 先生が言ひました。

 ――宿題。

 ――石、三ツ。

 ――ココへ置ケ。

 ――水ノ小サナ溜マリ、守レ。

 ――草ハ、次ノ時間ヲ引ク。

 幹夫青年は、うなづきました。

 足もとから、ほどよい大きさの石を三つ拾ひました。

 石は冷たく、ざらざらして、掌に土の匂ひがつきました。

 幹夫青年は草の根元へ行き、石を三角に組むやうに置きました。

 石が石に当たつて、

 「こつ、こつ」

 と鳴りました。

 小さな囲ひができると、水たまりは少しだけ安定して、草の根元が、ふうつと落ち着いたやうに見えました。

 そのとき風が吹き、斜面の「さらさら」が、一瞬、遠のきました。

 かわりに川の息がはつきり聞こえました。

 「しゅ、しゅ、しゅ」

 水はいつでも泣いてゐる。

 泣きながら、道を作つてゐる。

 その道は、どこかの海へ、どこかの空へ、結局つながつてゐる。

 幹夫青年は、黒板の「時間」をもう一度見ました。

 涙で少し滲んだ視界の向うで、白い字は、さつきよりも確かに立つてゐました。

 ――時間は、こはれる。

 ――でも、こはれながら、読める。

――読めるなら、ぼくも、少しは動ける。

 幹夫青年は、崩れの斜面に一礼しました。

 石たちは何も言ひません。

 けれども石くづが、

 「こつ」

 と一度だけ鳴つて、さうして授業が終つたやうに思へました。

 帰り道、幹夫青年は川沿いの道を下りました。

 杉の影が長くのび、空が少しずつ暮れて、町の方の灯が遠くで点々と見えはじめます。

 胸の底の石は、まだあります。

 けれどもそれは、さつきまでの「役に立たない石」ではなく、草の根元に置いた三つの石と同じ種類の重さになつてゐました。

 重いけれど、置き方がある重さ。

 重いけれど、守れる重さ。

 幹夫青年は小さく言ひました。

 「……あしたも、近いところで、石をひとつ置いてみよう」

 安倍川の水が、

 「しゅ、しゅ」

 と答へました。

 それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいのでした。

 時間は遠くから来る。

 けれども時間は、いつも、足もとの石くづの上で、書かれたり消されたりしてゐるのです。

 
 
 

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