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妹の目で、僕を焼け――草薙連続放火殺人

※以下は完全な創作です。実在の地名を舞台にしていますが、登場人物・事件・団体はすべて架空です。

一軒目が燃えた夜、静岡市清水区草薙には、妙な静けさがあった。

草薙駅の明かりはいつも通り白く、帰宅途中の学生たちはイヤホンをしたまま改札を抜け、商店街のシャッターは半分だけ下りていた。だが、駅から少し離れた住宅地の一角だけが、夜の底から赤く膨れ上がっていた。

清水署刑事課の片瀬大吾が現場に着いたとき、火はすでに消えていた。

焦げた柱。濡れた畳。黒く縮んだカーテン。消防の照明が、焼け残った壁を青白く照らしている。

その部屋の中央に、被害者は座っていた。

元小学校教師、三浦静江、六十二歳。

遺体は、まるで誰かに祈っているように、両手を胸の前で組まされていた。

「気持ち悪いな……」

若手刑事の浅井結花が、白い息を吐いた。

片瀬は黙って膝をついた。畳の上に、焼け残った紙片があった。端は黒く炭化しているのに、真ん中だけが奇妙に無事だった。

そこには、子どもの字でこう書かれていた。

――ありがとう。あなたの中のひかりへ。

浅井が眉をひそめた。

「ひかり?」

「名前か、言葉か、暗号か」

片瀬は紙片を証拠袋に収めながら、胸の奥にざらつくものを感じていた。

火災現場は嫌いだった。

子どものころ、片瀬は火事で右目を失いかけた。記憶は曖昧だ。赤い光。誰かの泣き声。焼けた布の臭い。病院の白い天井。そして、移植手術のあと初めて見た朝の光。

以来、右目だけが少し色を変えた。黒目のふちに、冬の湖みたいな淡い青が混じっている。

「片瀬さん?」

浅井の声で我に返った。

「行くぞ。これは事故じゃない」

「どうしてです?」

片瀬は焼け残った紙片を見た。

「犯人は、火より先に言葉を置いていった」

二件目は、その五日後だった。

草薙の坂の上にある古い一軒家。被害者は、元整備士の矢部公平、五十八歳。

またしても火元は不可解で、部屋の中央には遺体。胸の前で組まれた両手。そして同じ紙片。

――ありがとう。あなたの中のひかりへ。

三件目は、さらに四日後。

被害者は主婦の大石真紀子、五十四歳。

四件目は、草薙駅近くの小さなビルの一室で起きた。被害者は会社役員の戸倉慎一、六十歳。

四人に共通点はないように見えた。

教師、整備士、主婦、会社役員。

住所も職業も交友関係もばらばら。恨みを買うような人物でもない。どの現場にも争った形跡はほとんどなく、被害者は誰かを迎え入れたように室内にいた。

ただ一つ、奇妙な共通点があった。

どの現場にも、焦げた紙片が残されていた。

そして、紙片の裏には、小さな太陽の絵が描かれていた。

子どもがクレヨンで描いたような、丸くて不格好な太陽。

マスコミはすぐに名前をつけた。

草薙連続放火殺人。

清水署は連日、怒号と電話と報道対応で揺れた。片瀬はほとんど眠れなかった。机の上には、四人の被害者の写真と現場図が並んでいる。

浅井が紙コップのコーヒーを置いた。

「片瀬さん、休まないと倒れますよ」

「倒れても寝ながら考える」

「熱血にも限度があります」

「火をつけたやつに限度がないんだ。こっちが先に止まったら負けだ」

浅井は呆れた顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。

「妙なものが出ました。四人とも、過去に大きな手術を受けています」

片瀬は顔を上げた。

「手術?」

「病名は違います。でも全員、二十年ほど前に静岡市内の同じ病院に入院歴があります」

「二十年前……」

浅井が資料をめくった。

「その年、清水区草薙で別の火災が起きています。児童養護施設ではありませんが、病気の子どもを預かる民間施設です。名前は――」

浅井は一瞬、口を止めた。

「草薙ひかり園」

片瀬の背筋に、冷たいものが走った。

ひかり。

四つの紙片に書かれていた言葉。

草薙ひかり園の火災は、二十年前の夏に起きていた。小さな施設で、夜間に火が回り、数人の子どもが負傷。一人の女児が死亡している。

名前は、朝倉陽葵。

九歳。

「陽葵……ひまり、か」

片瀬は死亡記事のコピーを見つめた。古い新聞の写真には、笑っている少女が写っていた。前歯が一本抜けた、明るい顔。胸に、小さな太陽のバッジをつけている。

「片瀬さん」

浅井の声が低くなった。

「朝倉陽葵は、臓器提供者です」

片瀬は目を伏せた。

四人の被害者。

二十年前の同じ病院。

手術歴。

紙片の言葉。

――ありがとう。あなたの中のひかりへ。

「被害者たちは……」

浅井が言った。

「陽葵ちゃんから何かを受け取った人たち、かもしれません」

その瞬間、事件の形が変わった。

被害者たちは、誰かに恨まれて殺されたのではない。

少女に命を救われた人たちだった。

そして犯人は、その人たちを焼いている。

片瀬は朝倉陽葵の母、朝倉文乃を訪ねた。

文乃は草薙の古い住宅で一人暮らしをしていた。庭には小さな鉢植えが並び、玄関先には風鈴が吊るされていた。冬なのに風鈴。鳴らないまま、透明な舌だけが揺れていた。

文乃は痩せた女性だった。年齢よりずっと老けて見える。だが、目だけは澄んでいた。

「陽葵のことを、今でも覚えている人がいるんですね」

文乃はそう言って、薄く笑った。

片瀬は事件のことを伏せきれなかった。もちろん捜査情報のすべては話せない。だが、四人が陽葵から何かを受け取った可能性があること、現場に「ひかり」と書かれた紙片が残されていたことは告げた。

文乃はしばらく黙っていた。

そして、膝の上で両手を握った。

「私は、あの子を殺したんでしょうか」

「違います」

片瀬は即答した。

文乃は首を振った。

「でも私は、陽葵の体を誰かに渡しました。あの子が冷たくなっていくのが怖くて、誰かの中で生きてほしいと思ったんです。私は……母親なのに、あの子を手放した」

「手放したんじゃない。届けたんです」

文乃の目が揺れた。

「刑事さんは、やさしいことを言いますね」

「本当のことです」

片瀬は、壁に飾られた写真を見た。陽葵と、もう一人の少年が写っている。少年は陽葵より少し年上で、無表情にカメラを見ていた。陽葵はその少年の腕にしがみついて笑っている。

「お兄さんですか?」

文乃の表情がこわばった。

「蓮です。朝倉蓮。陽葵の兄です」

「今はどちらに?」

文乃は答えなかった。

代わりに、古いアルバムを閉じた。

「蓮は、とても頭のいい子でした。検査をしても、いつも先生たちが困った顔をした。数値の上限を超えてしまうんです。けれど、あの子は……火事のあと、時間が止まってしまった」

「止まった?」

「私が言ったんです。陽葵は、みんなの中で生きているって」

文乃は唇を噛んだ。

「励ますつもりでした。でも蓮は、その言葉をそのまま信じてしまった。あの子にとって世界は、比喩ではなかったんです」

片瀬は胸騒ぎを覚えた。

「蓮さんは今、どこに?」

文乃は、ゆっくり顔を上げた。

「刑事さん」

「はい」

「あなたの右目、きれいですね」

片瀬は一瞬、息を止めた。

文乃はすぐに視線をそらした。

「すみません。変なことを言いました」

片瀬は何も言わなかった。

だが、その言葉は針のように胸に刺さった。

署に戻ると、浅井が待っていた。

「片瀬さん、朝倉蓮について調べました」

「出たか」

「はい。ただし、現在は名前を変えています」

浅井は一枚の写真を机に置いた。

そこに写っていた男を見た瞬間、片瀬の全身が凍った。

神谷蓮。

今回の捜査で、火災現場の心理分析を外部協力者として手伝っていた男だった。

細身で、静かな声をしたデータ解析の専門家。署内でも評判がよかった。彼の分析はいつも正確すぎるほど正確で、まるで犯人の頭の中を覗いたようだった。

いや。

覗いていたのではない。

自分の頭の中だったのだ。

「片瀬さん……」

浅井の声が震えた。

「神谷蓮が、朝倉蓮です」

片瀬は机を叩いた。

「居場所は!」

「携帯は切れています。ただ、最後に位置情報が出たのは――」

浅井が地図を指した。

「草薙ひかり園跡地です」

草薙ひかり園は、すでに廃墟になっていた。

丘の斜面に残された古い建物は、長い年月に晒され、窓は割れ、壁は蔦に覆われていた。夜の風が木々を揺らし、どこかで犬が吠えた。

片瀬は懐中電灯を手に、建物へ踏み込んだ。

「蓮!」

声が闇に吸い込まれる。

奥の広間に、明かりがあった。

裸電球の下に、神谷蓮――朝倉蓮が立っていた。黒いコートを着て、穏やかな顔をしている。

その足元には、六枚の写真が並べられていた。

四人の被害者。

そして、まだ殺されていない二人。

そのうち一枚を見て、片瀬は息を呑んだ。

自分の写真だった。

「ようやく来た」

蓮は微笑んだ。

「妹の目で、僕を見てくれる人」

片瀬の右目が、痛んだ気がした。

「何を言ってる」

「あなたの右目は、陽葵のものだ」

蓮の声は、ひどく静かだった。

「二十年前、あなたは火事で角膜を失いかけた。陽葵は死んだ。母は陽葵を誰かの中で生かしたいと言った。あなたは、その一人です」

片瀬は否定しようとした。

だが、言葉が出なかった。

幼いころの病室。

包帯。

医師の声。

母親代わりの叔母が泣いていた記憶。

そして、初めて見た朝の光。

それは自分の目で見たものではなかったのか。

陽葵という少女の目で見たものだったのか。

「だからお前は、被害者を殺したのか」

片瀬の声は低かった。

「陽葵から何かを受け取った人たちを」

蓮は首をかしげた。

「殺した?」

「違うのか」

「僕は、集めていたんです」

その言葉に、片瀬の背筋が凍った。

蓮は写真を一枚ずつ指さした。

「心臓を受け取った人。腎臓を受け取った人。角膜を受け取った人。組織を受け取った人。陽葵は、ばらばらにされた。母は言った。みんなの中で生きている、と」

蓮の目に、初めて感情が浮かんだ。

怒りではなかった。

悲しみでもなかった。

それは、幼い子どもの混乱だった。

「でも、みんなの中で生きるって何ですか。笑う人の中に陽葵がいて、怒鳴る人の中に陽葵がいて、年を取る人の中に陽葵がいて、知らない町で知らない名前になっていく。それは生きているんじゃない。迷子だ」

「蓮」

「僕は、妹を一人に戻したかった」

片瀬は拳を握った。

「そのために、人を焼いたのか」

蓮はまっすぐ片瀬を見た。

「火は、陽葵が最後に見たものです。だから火で返すしかない」

「ふざけるな!」

片瀬の怒声が廃墟に響いた。

「陽葵ちゃんは、お前にそんなことを望んだのか!」

蓮の顔が歪んだ。

「あなたに何がわかる!」

「わかるわけないだろ!」

片瀬は叫んだ。

「でもな、わからなくても止めるんだよ! 人が死ぬのを見過ごしたら、刑事じゃなくなる。お前がどれだけ頭がよくても、どれだけ苦しくても、人を焼いていい理由にはならない!」

蓮は笑った。

泣きそうな笑顔だった。

「やっぱり、あなたは陽葵の目を持っている」

「違う」

片瀬は右目を押さえた。

「これは俺の目だ。陽葵ちゃんがくれた、俺の目だ」

蓮の表情が固まった。

「くれた?」

「奪ったんじゃない。お前の妹は、誰かを生かしたんだ」

片瀬は一歩踏み出した。

「お前が殺してきた人たちは、陽葵ちゃんの命を盗んだんじゃない。受け取って、今日まで生きてきたんだ。笑って、泣いて、失敗して、それでも生きた。その中に陽葵ちゃんがいたなら、それは迷子なんかじゃない」

蓮の唇が震えた。

「じゃあ、陽葵はどこにいる」

「ここだ」

片瀬は自分の胸を叩いた。

「俺が誰かを助けたいと思うときにいる。被害者の名前を忘れたくないと思うときにいる。お前をここで死なせたくないと思うときにいる」

その瞬間、廃墟の奥で火が上がった。

蓮が仕掛けていた最後の炎だった。

赤い光が壁を舐め、古い木材が不気味に軋む。煙が一気に広がった。片瀬の喉が焼けるように痛んだ。

蓮は動かなかった。

「これでいい」

「馬鹿野郎!」

片瀬は蓮の腕を掴んだ。

蓮は抵抗した。

「離せ! 僕も行くんだ! 陽葵を一人に戻すんだ!」

「陽葵ちゃんを言い訳にするな!」

片瀬は蓮を殴った。

蓮の体が床に倒れた。

「お前は妹に会いたいんじゃない! 妹が誰かを救ったことが悔しいんだ! 自分だけが置いていかれたと思ってるんだ!」

蓮は床の上で、子どものように泣いた。

「僕は……あの日、助けられたんだ」

煙の中で、蓮の声が途切れ途切れに聞こえた。

「陽葵が、僕を押した。出口のほうへ。僕だけ外に出た。あの子は笑ってた。兄ちゃん、行って、って。僕は……僕は、妹に生かされたのに、妹がいない世界で生きるのが怖かった」

片瀬は一瞬、動けなかった。

これが動機だった。

復讐ではない。

憎悪でもない。

天才と呼ばれた男が二十年かけて作り上げた、あまりにも幼い願い。

妹を取り戻したい。

妹が誰かを救った世界を、許せない。

だから、妹が救った人間を焼いた。

だから、最後に妹の目を持つ刑事を呼んだ。

妹に見てほしかったのだ。

自分がどれほど壊れてしまったのかを。

片瀬は蓮を肩に担いだ。

炎が天井を走った。

そのとき、外から浅井の声が聞こえた。

「片瀬さん!」

「ここだ!」

浅井たちが突入し、二人は引きずり出された。

外の空気は冷たかった。片瀬は地面に倒れ込み、咳き込んだ。蓮は救急隊員に囲まれながら、ぼんやり空を見ていた。

夜明け前だった。

草薙の空は、まだ黒い。

だが東の端だけが、わずかに白み始めていた。

蓮がかすれた声で言った。

「刑事さん」

片瀬は顔を向けた。

「陽葵は……何を見ていますか」

片瀬は右目を閉じた。

そして、もう一度開いた。

煙で滲む視界の中に、泣いている浅井がいた。怒鳴る消防隊員がいた。担架を運ぶ救急隊員がいた。震えながら朝を待つ草薙の町があった。

片瀬は言った。

「お前が、まだ生きてるのを見てる」

蓮は、声を出さずに泣いた。

事件は終わった。

朝倉蓮は逮捕され、四件の放火殺人と二件の未遂について供述した。彼はすべてを認めた。あまりにも精密な計画、異常な記憶力、そして理解しがたいほど純粋な動機に、世間は騒然とした。

マスコミは彼を「知能指数マックスの殺人鬼」と呼んだ。

だが片瀬は、その呼び名を見るたびに胸が悪くなった。

蓮は怪物ではなかった。

怪物にしてしまったのは、二十年間、誰にも届かなかった悲しみだった。

数日後、片瀬は朝倉文乃の家を訪ねた。

文乃は、逮捕の報道を見ても取り乱さなかった。ただ、庭の鉢植えに水をやりながら、静かに泣いていた。

「蓮は、生きていますか」

「生きています」

片瀬が答えると、文乃は膝から崩れ落ちた。

「よかった……」

その言葉が、片瀬には重かった。

殺人犯の母が、息子の生存を喜ぶ。

それは許されることなのか。

片瀬にはわからなかった。

だが、人間とはそういうものだとも思った。

罪を憎んでも、命まで憎みきれない。憎みきれないから、人は苦しむ。

文乃は立ち上がり、片瀬の右目を見つめた。

「陽葵の目で、あなたは何を見てきましたか」

片瀬は少し考えた。

「ひどいものをたくさん見ました」

「はい」

「でも、助けたいと思える人も、たくさん見ました」

文乃は微笑んだ。

「それなら、あの子は幸せです」

片瀬は何も言えなかった。

帰り道、草薙駅前には朝の光が差していた。通学する学生たちが笑いながら歩き、店先では老婆が花の鉢を並べていた。町は事件を忘れたわけではない。それでも、今日を始めようとしていた。

片瀬は右目を細めた。

陽葵という少女の命は、誰かの中で生きた。

その事実を、兄は許せなかった。

けれど片瀬は思う。

命は、完全な形のまま残るものではない。

誰かの言葉に残る。

誰かの傷に残る。

誰かの視界に残る。

そして時には、罪を犯した者を、それでも死なせまいとする手の中に残る。

浅井が隣に並んだ。

「片瀬さん」

「なんだ」

「また無茶しましたね」

「してない」

「しました」

「じゃあ、少しだけだ」

浅井は呆れたように笑った。

片瀬も笑いかけたが、途中でやめた。

草薙の空に、朝日が昇っていた。

それは火ではなかった。

人を焼く赤ではなく、人を起こすための赤だった。

片瀬はその光を、二つの目で見た。

片方は自分の目。

もう片方も、もう自分の目。

だがその奥で、前歯の抜けた少女が笑っているような気がした。

事件の最後に残った謎は、一つだけだった。

朝倉陽葵は、兄を許すのか。

その答えを、片瀬は知らない。

けれど、もし彼女が本当に誰かの中で生きているのなら。

きっと彼女は、こう言うだろう。

――兄ちゃん、まだ行って。

生きて、と。

 
 
 

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